第32話 母親

「母、親……?」

 俺は目を見開いて、ミカエルとその女性――どう見ても二十代後半にしか見えない美女の顔を交互に見やる。ミカエルはまだ十八か十九歳くらいにしか見えないが、それともアレなんだろうか。外国人が老けて見えるというセオリー通り、実は十代前半、なんてこともありうるのか。

 それにしたって、目の前の美女が何歳の時の子だ、という話になる。

 俺が無言で見つめていると、まるで俺の心を読んだかのようにミカエルが苦笑した。

「こう見えて、私の母はもうすぐ四十……」

 そう言いかけた瞬間、美女がミカエルの後頭部を殴った。マジ殴りってやつで、すげえ鈍い音が響く。

「永遠の二十七歳よ、わたし。そう決めたの」

 拳を握りしめながらの、色気のある美女の嫣然とした笑み。しかし、妙に凄みを感じさせるものであったから、そうですか、と笑うことしかできない。きっと、二十七歳になった時から、彼女は年を数えることをやめたのだろう。きっとアレだ、二十七歳と数千か月、という数え方だ。

 しかし――日本で言うところの美魔女というものだろうか。この世界の化粧の技術は凄い、んだろうか。

 うん、よく解らない。

 ちなみに、俺が曖昧に笑っている間、ミカエルは後頭部を抑えてその場にしゃがみこんでいた。イケメン王子っぷりが消えると、完全に残念さが漂う。まあ、どうでもいいけど。


「さて、さっきは自己紹介できなかったわね。わたしの名前はセシリア」

 ふと、彼女は目を細め、それまでの裏のありそうな笑みを消した。真剣な眼差しを向けられたので、俺も慌てて名乗る。

「アキラと言います。すみません、こちらこそ先ほどは……」

「いいのよ」

 トイレという理由を信じてくれているのか、それとも嘘だと見抜いているのか、彼女は意味深な表情で頷いてから言葉を続ける。「しっかしねえ、うちの馬鹿息子があなたのことを『女神』とか何とか馬鹿なことをほざいていたようだけど、迷惑をかけてるんじゃない?」

「いえ、迷惑などは」

 急に居心地が悪く感じて、逃げ場を探す。そっと辺りを見回し、誰も通らない廊下の片隅で、窓の外の闇がさらに濃くなったのを確認した。

「すみません、わたしはそろそろベッドに……」

 と、何とか『女の子』であることを意識した笑顔をミカエルの母、セシリアに向けると、彼女は心配そうな目を俺とミカエルに向けて頷いた。

「そうね。女の子は夜更かししたら肌に悪いものね」

「……そう言う母さんは」

 立ち上がって、いつものように王子様みたいな表情を作ろうとして失敗したらしいミカエルの足に、がつ、という音がしてセシリアの鋭い蹴りが入る。そこ、弁慶の泣き所、ってやつだよな。同情しよう、と頭の中で考えながら、引きつる口元を笑みのまま保つ俺。

 後ずさろうとする俺に、セシリアは少しだけ前かがみになって微笑む。

「ごめんなさいね。わたしはしばらく息子と行動するつもりだから、この馬鹿があなたに迷惑をかけたら教えてちょうだい? ちゃんとおしおきしておくから」

「おしおき……」

 何だか関わりたくないなあ、と思いつつ、俺は頭を下げる。そして、足早にその場から離れた。自分の部屋に向かいながら、彼らの姿が見えないところまで進み、そっと立ち止まる。

 気配を殺して耳を澄ましてみれば、あの二人の囁き声が聞こえた。

「母さん、私は何も悪いことはしてないから」

 母親には強く出られないのだろうミカエルが、困ったように言っている。それに対するセシリアの返事は、楽し気な笑い声が混じっていた。

「信用はしてるけど、一応ね? まさか、遊びで女の子を口説くつもりはないわよね?」

「しない」

「あなたは立場があるんだから、よく考えないと」

「それを言うなら、母さんにだって立場があるっていうのに、どうしてここに? 離宮でのんびりしていたわけじゃ」

「のんびり? はっ、あーんな何にもないところに閉じこもっていられるわけないでしょ? 大丈夫、ヘレナをわたしに似た感じに変装させてきたから、バレるまで時間はあるわ」

「侍女はそういう役割をするためのものじゃ……。いや、それ以前にバレたらどうするつもりで」

「まあ、大丈夫よ」

 セシリアはそこで苦々し気に重苦しく息を吐いた。「どうせ、あの男は離宮になんてこないから」

「……そうかもしれないが……」


 何だか微妙な沈黙が下りた。

 どうやら、訳アリらしい。まあ、ミカエルが王子ってことを隠している時点で、訳アリなのは間違いないのだが。

 ミカエルの母親ってことは、セシリアが王妃なんだろうと思う。しかし、離宮というからには本丸……城に住んでいないし、陛下とやらにも会っていない?


 でもまあ、これ以上盗み聞きしていても、とその場を離れようとすると。


「それに、わたしはあなたのことが心配だったし。こうして会えて嬉しいわ」

「それは……」

 ミカエルは少しだけ困ったように小さく笑った。「母さんも、無駄に元気そうで何よりだよ」

 そんな、仲のいい母と息子の構図をちょっとだけ見たような気がして、複雑な思いを胸に抱いた。何しろ、あの舞台じみた台詞を吐くミカエルが、とても自然体に見える。それに対するセシリアの態度も穏やかだ。


 ――羨ましい、のか?


 変なことを考えてしまいそうになって、慌ててその場を離れて自分の部屋に戻る。俺の帰りを待っていた二人が、あからさまに安堵した様子でベッドから立ち上がり、何かあったのかと訊いてくる。

「ちょっと、森の中で魔物倒したり、うん……後で説明する」

 と笑うと、二人とも顔を見合わせた後、頷いてくれた。

 サクラが先にマチルダ・シティに行くといって窓から外へ出ていき、カオルが部屋に残される。カオルが何か訊きたそうに俺を見上げていて、思わずその猫耳に触れる。やっぱりふわふわで癒しそのものである。


 で、撫でて満足した後、ベッドに倒れこんだ。うつ伏せで、枕に自分の顔をめり込ませて考える。

 母親って……何なんだろうな、と。


 正直なところ、俺は母親という存在にいいイメージが持てないでいる。

 だから、ミカエルとセシリアのあの様子は純粋に凄いな、と考えてしまうのだ。

 人それぞれ、家庭環境は違う。親子関係だって、それぞれ違うだろう。

 でも、憧れみたいなものが俺の心の中にあった。


 憧れ、それは。

 普通の親子関係、だ。


「あなたはね、長男なのだから」

 それが俺の母親の口癖だった。

 母親にとって、いつも優先するべき対象は俺だった。その代わり、妹のサクラは完全に無視というか、邪魔者扱いだった。


「あなたはやればできる子なのだから」

「あなたはもっと、いい学校に行けるはずなのだから」

「女の子はね、最終的には家を出ていく存在なのよ」

「でも、あなたは長男で、この家の跡取りなのだから」


 ――わたしはね、あなたが大切なのよ?


 ――全部全部、あなたのためなの。


 ――だから、言うことを聞いてくれるわよね?


 俺にはよく解らない。男に生まれたから大切にされる? 女だからどうでもいい扱いをされる?

 差別だろ。おかしいだろ。

 そう言っても、母は「あなたは子供だから解らないの」と笑うのだ。あの、どこか薄ら寒い微笑を浮かべて、さらに言葉を連ねていく。言葉が通じない化け物、それが俺の母親だ。


 カオルの家は、母親は――ああいう女だった。カオルを放置して、親であることも放棄した。


 じゃあ、他の家はどうなんだろう。

 子供を差別しないだろうか。男であろうと女であろうと、大切にしてくれるだろうか。

 きっと、俺たちのような家庭環境は稀で、きっと普通の家庭の方が多いんだろうとは思うけれど。


 憧れてしまった。

 逃げたかった。

 早く家を出ていきたかった。


 サクラには言ってある。俺は大学を卒業したら、家を出てアパートを借りたい、と。

 でも、サクラは困ったように笑いながら「きっとお母さんが許してくれないよ」と言う。

 確かにそうだ。あの母親は、俺を管理しようとする。支配下に置こうとする。

 俺の交友関係に口を出し、「あの家の子と遊んでは駄目」だとか言う。「変な女に騙されちゃ駄目」だとか言う。

 俺は自分の友人は自分で決めたい。でも、俺の意見は理解してくれないのだ。

 だから、笑いながら母親と会話することなんてほとんどなかった。父親だって、あの母親に何か言おうとしても、すぐに丸め込まれて終わる。「母さんの言うことを聞きなさい」と言って、それ以上関わらないようにする。

 そして結局、俺の意見は抑え込まれ、母さんのいいようにされてしまうのだ。


 跡取りって何だよ。家を継げって言うつもりなんだろうか。父親は普通のサラリーマンで、普通の二階建ての家しかもっていないくせに。

 馬鹿じゃねえのか、あの女。

 サクラに向かって何て言った? 女の子は高卒で充分? 早く働いて、できるだけ早いうちに結婚した方が幸せになれる?


 解らない、解らない。

 母親という生き物が解らない。

 死んでしまえ、と叫びだしたくなることもある。実際に、『そう』なりそうだった。

 でも、そう考えること自体が罪のような気がして、俺の頭がおかしいような気がして、必死にその言葉を呑み込むけれど、どんどん自分の胸の中が重くなっていく。


 母親のことが嫌いだと思う、いや、もしかしたら憎いとも感じている俺は歪んでいるのだろう。俺は間違っているんだ。きっと、母親は大切にすべき存在のはずだ。

 でも、家から逃げ出したくてたまらなかった。

 だからこそ。


 今の状況は、あの母親から逃げ出していられるから――少し、嬉しくもあるのだ。


 日本に帰るということは、あの母親のいる家に戻るということ。

 大学で勉強して卒業し、どこかの会社に入社して――母親から離れて一人暮らしをしたい。それが俺の唯一の夢。

 でもきっと、母親にも夢がある。俺があの家に残り、結婚して子供を作ることだ。そして、俺が母親の老後の面倒を見ていく。

 まあ、長男なのだからそれは当然なんだろうとは思うのだけれど。


 俺は結婚に夢を抱いたことはない。両親を見ていれば、幸せになれないことだってあるんだ、というのが解る。

 父親のように、黙って働き続けることが幸せだろうか。幸せだと感じない生活を送りながら、あの家にいることが幸せかと問われたら――。


 こうして今、俺はマチルダ・シティから日本に帰れる道を探しているわけだけれど。

 帰れなくてもいいんじゃないかとか思っている自分もいた。

 サクラやカオルには言えないけれど、でも。


 少しだけ、このゲームじみた世界で生活することを、楽しんでみたいと考えている。現実逃避だと言われるだろう。それでも、俺は。


「こっちで寝るなら、パジャマとかあるといいのににゃー」

 ふと、カオルがそんなことを言いながら俺の後頭部を撫でてきた。俺が後ろ向きなことを考えこんでいると察したのか、その手は優しい。

 ヤバいなあ、と思う。どうやら心が弱っているのか、ちょっとだけ泣きたくなった。

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