第31話 森の中の美女
「君は……」
ぐらぐらする頭を何とかその声の主に向けると、青ざめた顔でこちらを見ている男性が見えた。足を怪我しているせいで、立っているのもやっとという状況。
俺は思わず、自分の口を手で押えた。犬歯が伸びていて、隠すことができない。それに、鼻も覆わないと――気がおかしくなりそうな感じがする。
俺は思わず、この場から逃げ出そうと後ずさった。ちょうど、相手の男性も何かを思い出したかのように辺りをぐるりと見回していた。
「シーラ嬢!?」
「こっちだ! 気を失ってる!」
男性の視線の先に、逃がそうとした馬とその背の上に乗った男性、女性がいる。シーラと呼ばれた女性は気を失っているようで、馬上の男性にもたれかかったまま目を閉じて白い頬を見せていた。
男性が、ずり落ちそうな彼女の身体を必死に支えていて、それに気づいた怪我をした男性もそちらに足を引きずりながら向かった。
というか。
彼女は動きやすい服装で、マントを身に着けている。スカートであったから、馬に乗るのも横乗りだ。男性の胸に寄りかかるようにしていたが、俺が立っている位置から、彼女の白い喉が見える。
意識はないが、生きている。だから――その白い肌の下の血管が脈打つのがはっきりと見えたのだ。
視線を引きはがす、というのがこれほど難しいとは知らなかった。
魅力的な女性の胸とか足に興奮して目がそらせない、というのは理解できる。柔らかそうな胸に触れたい、と欲望に負けるのが男の悲しい性。でも今の俺は、シーラという女性の喉に食らいつき、その柔らかい皮膚に牙を立てたいという欲求に流されそうになっている。
ヤバい、ヤバい、ヤバい。
思考停止した頭を必死に巡らせ、どうしたらいいのかと左手で胸を押さえる。そして思い出したのが、薬屋で買った傷薬だ。
ポケットに入れたままの、貝殻みたいなケースを取り出して、少しだけ悩む。これに蘇生薬を混ぜたら効果は――いや、危険だからやめておこう。
「役に立つか解りませんが、傷薬を置いていきます」
俺はどうしても彼らに近づくことができず、男性にそう声をかけて、彼に見えるように足元にケースを置いた。そのまま後ずさると、馬上にいた男性が慌てて声を上げる。
「助けてもらったからお礼を!」
「いえ、大丈夫です。気にしないでください」
牙を隠すことができないから、右手では口元を覆ったままで言う。しかし、俺がふらついていることに気づいた彼は、俺も怪我をしたのかと慌てたようだった。しかし、シーラを抱きかかえたままでは馬から降りることもできず、怪我をした男性もまともに動けない。
逃げるなら今がチャンス、と俺は身を翻した。
「おい!」
背後にそんな声を聞きながら、彼らを街まで送っていけないことを心の中で謝罪する。もう魔物の気配はないから、このまま馬を走らせればきっと大丈夫だろう。
そう思いながら走り出すと、今度は俺が向かう先の方に新しい気配を感じて困惑する。
「あら、魔物を狩ろうと思ったのに出遅れちゃった感じ?」
彼女は唐突に、俺の前にいた。
金色の長い髪の毛を後頭部でまとめ、革の鎧らしきものを身に着けている。それに、背中には女性には扱うのが難しいのではないかと思えるような大剣。
黒いシャツと黒いズボンは、ボーイッシュであるけれども女性らしい体つきが見て取れた。
年齢は……解らない。多分、二十代後半くらい?
闇夜に溶けてしまいそうな黒い馬に乗り、手綱を引いてこちらを見下ろしている顔は、今まで見た中で一番の美女。白い肌に整った顔立ち、赤い唇は楽しそうに弧を描く。そしてそれ以上に、赤みを帯びた瞳が怖いくらいに美しい。
「やだ、あなた一人で倒したわけじゃないわよね?」
形の良い眉が顰められ、俺の背後にあるだろう巨大な魔物の死骸にその目が向けられると、やっと俺も動けるようになった。
相手は間違いなく人間だというのに、魔に魅入られる、というのはこういうことなんじゃないかって思うくらい。
そしてちょっと間違ったら、恋に落ちそうなくらい、彼女は格好いい人間だった。
「え、ええと」
俺は一瞬だけ、辺りを見回した。ここで時間を食っている暇はない。とにかく逃げなくては、マチルダ・シティに戻らなくてはいけない。
「すみません。あの」
俺はそこで彼女を見上げ、軽く頭を下げた。「彼らが怪我をしてますので、もし可能でしたら街まで護衛してもらえませんか?」
「え、わたしが? あなたはどうすんのよ」
彼女は不思議そうに首を傾げる。
「すみません、俺、いえ、わたしは……」
どうしよう。
怪我をしているから逃げる、と言う?
用事があるからと逃げる?
それとも。
「と、トイレに行きたいのですみません!」
ある意味、とんでもない理由を作り上げて叫ぶと、暗闇の中に俺の声が響き渡る。
ぽかんと彼女は口を開けて俺を見たものの、すぐに吹き出して頷いた。彼女の肩が震え、さらに俺に興味を持ったような輝きを放つ目がこちらを見つめていて。
「そうね、それは一大事ね? 見張っておこうか?」
「いえ、お構いなく!」
ぶんぶんと首を横に振っていると、何故か首の後ろがちりちりした。
何だろう、またこの場所に誰かが向かっているような気配がする。今度はユルハの街の方から、複数の気配が――。
くそおおお、もう無理! 面倒くさい!
俺はそこで思い切り彼女に頭を下げると、一気に走り出した。彼女は俺を引き留めようとしたし、怪我人たちも「せめて名前!」とか叫んだ気がする。
でも、無理だから!
そうして、俺は彼らの気配をずっと後ろに感じられるようになった時、マップを開いてマチルダ・シティへの道を開いたのだった。
「どうも、ウサギ!」
俺は闘技場の受付に行くと、カウンターを叩く勢いで手をついて、彼女を睨んだ。「血を飲まないで済む方法を教えてくれ!」
「えええ……」
いかにも迷惑、と言いたげな受付ウサギは、その目を細めてから肩を竦める。「そんなことを言われましても、わたしの仕事はクエストの報酬を払ったりするだけですしー」
「使えねえ! っていうか、アバターの交換はできないのか? 俺、吸血鬼以外のモンスターアバター持ってないんだけど、普通の人間の服装に着替えたりとかは」
「あ、無理です!」
てへ、と頭を掻くウサギは、ちょっと殴ってやりたいくらいムカつく。
「何で!?」
「こちらの世界にやってきた際、一番強いアバターでしか活動できなくなってますので!」
「でも、俺、人間の血を飲みた……って、ああ、そうだ!」
唐突に、確認しておきたいことがあったことを思い出す。カオルが言っていたことだ。
「俺さ、人間を襲って血を飲みたいんだけどさ。こういう、人間と敵対するようなことってペナルティある? 垢バンくらって元の世界に戻るとか」
「ないですよ?」
「即答……」
「こちらの世界の人間と戦うような羽目に陥っても、特に罰則などありません。ただし、当然ながら人間を殺したりすれば、その街の罰則は受けなくてはいけませんね。例えば、あなたが大量殺人を行ったとして……」
「おいおい」
「その街の役人に捕まれば、処刑もあるでしょう。まあ、結局は死に戻りするだけなんですけどね」
「実質無罪じゃん」
どこの携帯会社のCMだよ? いや、意味合いが違うか? どっちにしろ、美味しい話には裏が――。
「もしくは、どこかの優秀な魔術師によって、能力を封じられて投獄とか……」
「投獄? 能力を封じられて……?」
「マチルダ・シティに戻れなくなったら、諦めてください」
そんな簡単に!
にこにこと笑う彼女は、「ところで」と話を変えた。魔物を倒したクエストも、それ以外にもいくつかクリアしたクエストもあった。こちらの世界の人間を助けよう、とかいうやつ。
次々に報酬が俺のアイテムボックスに放り込まれるのを確認して、俺はやがてため息をこぼした。
「そういや黒フードの」
「来てませんね」
これも簡単に言った!
俺は少しだけ彼女を睨んだが、どうも俺の吸血鬼の魔眼は発動しなかったのか、それとも彼女には効き目がないのか、お帰りはあちら、と闘技場のドアを示されて終わった。
ログインボーナスがもらえるまで、俺は自分のホームに戻って待機。血を飲みたいという渇望は消えて、体調は完全にリセットされた。
それでも、何だか頭の中が疲れていて、何もする気が起きなかった。また、向こうにいて誰かの血を飲みたくなったらどうしよう、と不安になるのだ。
最悪、カオルとサクラに土下座しよう、と思いながらベッドに寝ころぶ。
そして、俺は日付が変わった直後、マチルダ・シティを出た。次はカオルかサクラと入れ替わりになればいい、と思いながら宿に戻ったのだけれど。
「あらやだ、あなたもここに泊まってるの?」
俺がユルハを取り囲む塀を乗り越え、気配を殺して宿の部屋に戻る途中、背後からそう女性の声がかかった。聞き覚えのあるその声に、俺は足を止めて振り向く。
「トイレ、間に合った?」
軽く手を上げながら微笑んでいるのは、森の中で会った女性である。どうやら彼女はこの宿に到着したばかりなのか、さっき会った時のままの服装、武器を背負ったままだ。
「……ええ、おかげさまで」
俺がそう引きつった笑みを返すと、またそこに声がかかった。
「何でここに!?」
近くにあった階段から、聞き覚えのありすぎる……ミカエルの声が飛んできて、俺はもう逃げたくなってきていた。もう、果てしなく面倒くさい。とりあえず部屋に戻って、カオルの猫耳の感触を確かめたい。
そう現実逃避したくなったところで、ミカエルは俺たちの前にやってきた。部屋着らしい服装だったから、ずっとこの宿でくつろいでいたんだと思う。
日付が変わっているからもう寝る時間だと思うのに、夜更かしが趣味なのか?
「あら、よかったわ、すぐに見つかって」
その女性が嫣然とした笑みをミカエルに向けたが、彼は強張った表情で眉根を寄せ、酷く慌てたようにその女性の手首を掴んで引いた。
「どうやって、いや、予想ができそうだけど、ね?」
混乱した様子のミカエルは、いつもの王子様然とした雰囲気はどこにもない。親し気な空気を漂わせる二人は、美男美女という風貌も相まって、とんでもなく似合いのカップルに見えたのだが。
「我が女神、紹介させてください」
やがて、ミカエルは額に手を置きながら小さく言った。「私の母です」
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