第23話 幕間1 カオル
いつもお腹が空いていた。
アパートのテーブルに五百円玉が置いてあると、とても嬉しかった。これでご飯が買えるから。
でも、毎日お金があるわけじゃないし、空腹を限界まで我慢してから使うようにしていた。学校で何が必要になるか解らないし、ちょっとだけでも残しておかないと怖かった。
世の中には『おふくろの味』なんてものがあるらしいが、俺にとってはカップラーメンがそれだったかもしれない。随分前に何度か、母親がお湯を注いでくれたことがあったから。
あの時は、純粋に嬉しかった。
あの人が俺に対してしてくれることで、痛みを感じないことだったし。
母はよく、俺を殴った。俺の顔が、父によく似ているからムカつくらしい。
そんな目で見ないでよ、といつも母は俺に言う。だから、俯いて過ごすことが多くなった。
俯いて暮らしていても、母は気が向くと俺を殴る。蹴る。
以前、顔についた痣が問題になったことがあって、服の下に隠れるようなところだけに暴力を振るうようになった。
俺は男だから、そのくらい平気でしょ、と母は笑う。女は弱いのよ、と。
うん、男は強いんだよね。
俺は笑う。
「笑う顔もムカつく」
そしてまた殴られる。痛い。
痛いのは厭だったが、我慢するしかなかった。ある時、凄く痛かったから「殴らないで」と言ったら罰として外に出してもらえなくなったことがあった。
もちろん、ご飯は抜き。
お腹が空いて水道の水をがぶ飲みしていたら、それすらも怒られた。水道料金がどうこう言ってくるが、だったら外に出してくれていいのに。公園とかでも、コンビニのトイレでも、水は飲める。
お腹が空いたなあ。
毎日、そんなことばかり考える。
ある時から始まったこと。
これから人と会うから邪魔しないで、と言いながら俺をアパートの外に出す。その時も、掌の中に五百円玉を押し付けてくる。
だからちょっと嬉しい。
でも、怖い。
いつまでこんな生活が続くんだろう、と思った。母は最近、アパートで父とは違う男の人と会う。俺はその間、邪魔をしないように外で時間をつぶさなくてはいけない。
でも夜中だし、外を歩いて問題だけは起こすな、と言われた。警察に見つかったら、捕まってしまうんだからね、と母に脅された。捕まっても迎えにはいかないから、と。だから、俺は深夜になっても、人目を避けて街中を歩く。隠れていられるところを探した。
それまでは、祖母が――生きていたからマシだった。父がいなくても、それなりに食事の差し入れがあった。母は料理を作るのが苦手だから、それが俺たちにとってのご馳走だった。まあ、ほとんど母が全部食べてしまうから、俺の口に入るのはほんの少しだったけども。それでも、凄く楽しみだった。
でも、祖母は死んだ。
母は泣き暮らしていた。
「お母さんがいなくなったら、どうなっちゃうのよ!」
そう叫び、俺の姿を見るとさらに怒鳴る。「あんたさえいなければ、わたしは自由に生きていけるのに!」
うん、そうだよね。
ごめんなさい。
謝ることだけ得意になっていく。
でも原因は、自分にあったんじゃないか?
そう思っても口には出せない。身を守るために、殴られないために口を閉ざす。
それよりもっと幼いときの記憶。
ちょっとたれ目で、気の優しそうなところに騙された、と母は父のことをそう言った。母が望んでいたのは、自分の言うことを聞いてくれる男。いつもそばにいて、自分をお姫様のように扱ってくれる男。
母の傍には、いつだって彼女を甘やかしてくれる祖母がいた。俺たちが住むアパートだって、祖母の家に近いから、という理由で選んだらしい。どうしても母は実家から遠く離れたくなかったみたいだ。
彼女たちは一緒になって、父を詰るのが好きだった。給料が安いとか、気が利かないとか。
祖母は俺たちが住むアパートに毎日のように顔を出し、父に嫌味を言って帰っていく。
父は何度も、母に「君のお義母さんに、ああ言われるのがつらい」と言っていた。
でも、母は「それが事実なんだから仕方ないでしょ」と笑うだけだ。祖母と一緒になって父に何度も言う。低収入で、家族も満足に養えない男なんて! と。
今になって思い返してみても、父が低収入だったとは思えない。充分な稼ぎがあったはずだ。俺だって最初の頃は、色々なものを買ってもらっていた……気がする。
でも、母はストレスを解消するかのように、高価なものを買いあさるのが好きだった。洋服、化粧品、バッグ。
そのたびに喧嘩になるものの、祖母が出てきて仲裁に入る。
「もうちょっと、娘のことを考えてあげてもらわないと」
そして毎回、祖母は母の味方だった。
いつだって悪者は父。娘を満足させてあげられないあなたが悪いのよ、と祖母が顔を顰める。
父はいつしか、俺たちの前で笑わなくなった。
俺はそれが怖くて、何とか父に笑ってもらおうと話しかけたりしたものの、だんだん俺に向ける父の目が冷えていくのが怖くなって身が竦んだ。言葉も出なくなっていく。
「お前の目が、あいつに似てて厭なんだ」
父は、俺の目が母に似てると言う。だから見て欲しくない、と。
どうすればよかった?
いつしか、俺と母はアパートで二人暮らしになっていた。
離婚したわけじゃない。
父が単身赴任で、アパートを出て行っただけだ。
父は一緒に引っ越しをしようと母に言った。君は親離れをすべきなんだ、と。でも、母はそれを拒絶した。年老いた母親からわたしを引き離そうとするなんて! と目を吊り上げて怒る。
むしろ、単身赴任はありがたい、と笑うのだ。ムカつく顔を見ないで済むしね、と。
それを見て、父は母を見放しただけ。
「お前はいつだって俺を見てくれなかった」
そう、残念そうに笑った。本当に久しぶりの笑みだった。
やがて祖母が亡くなると、母は少しだけ我に返ったようだった。
何でわたし、ここにいるんだろう、とアパートの部屋の真ん中でぼんやりとしていた。祖母からの食事の差し入れがなくなり、母と俺だけの生活となって、不安を覚えたようだ。
「わたしはただ、幸せになりたかっただけ」
そう呟きながら、今が全然幸せじゃないことに初めて気づいたらしい。
祖母と一緒になって父を嘲笑っていた時は、あんなに楽しそうに見えたのに。
「わたし、間違ってた……のかな」
どうにもならない状況になって、母はお父さんのところに行こうか、とアパートを引き払うことを考えた。今までの最悪だった自分を顧みて、父に謝ろうと泣いたのだ。
でも、父は単身赴任先に恋人ができていた。
同じ会社の同僚なんだそうだ。
だから離婚をしたいと言い出した。もう、夫婦関係は破綻しているのだから、と。
母は怒り狂い、絶対に離婚はしないと叫んだ。俺にはよく解らないが、最初に悪いことをしたのは母だと思うのに、父が望んでも離婚はできなかったみたいだ。
「金蔓を手放すわけないでしょ」
狂ったような顔の母はそう言って、ずっと別居状態が続いている。
でも、ストレス解消のためと言って、父からもらう生活費は全部、母の買い物に消える。お金がないとずっと言って、自分を憐れむ。
それは全部、母のせいなのに。
俺は一体、何ができるんだろうか。
空腹のせいか、考えるということが苦手だった。何かを考えようとしても、それはまとまらずに四散してしまう。そして気が付けば、ご飯はどうしよう、と考えている。
「なあ、炭酸平気?」
俺がコンビニの前で座っていると、ちょうど入り口から出てきた少年にそう声をかけられた。
不良がコンビニの前に座ってるのはよくあること。だから、俺のその姿を見ても、普通の大人だったら素通りしていく。
「……何?」
初めて誰かにそう声をかけてもらって、俺は首を傾げた。外は暗闇でも、コンビニの明るすぎる光に照らされて、彼の顔がはっきり見えた。ちょっとだけ困ったような、人好きのしそうな少年。
俺より身長は高いけど、きっと同じくらいの年齢だろう。
「いや、今、コンビニでいくら買ったらくじ引き、みたいなのやってるじゃん。俺、コーラが当たったんだけど苦手なんだよね。これ、飲むと肺が痛くなるよな?」
「そう?」
ちょっとだけ恥ずかしかったが、俺は今までコーラを飲んだことがなかった。だって、水分に金を払うのってもったいないと思うから。
「やるよ。持って帰るのも邪魔だし」
と、彼は俺に黒いペットボトルを差し出した。
何も考えずにそれを受け取ってから、慌てて立ち上がる。
「ありがとう」
そう言うと、彼はにやりと笑い、左手に下げたビニール袋からおにぎりを取り出して俺に押し付ける。
「え?」
「妹に、苦手な梅干しを押し付けて嫌がらせしようと思ったけど、やめとく。多分、ボコられるし……大人しくプリン食わせとくか……」
「え? え?」
その少年はそう言って歩き出してしまい、コンビニの前にはどうしたらいいのか解らず立ち尽くす俺が残された。
でも。
コーラって、飲むとお腹がいっぱいになるんだ! と感動したのはこの時だった。
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