僕は君が好きだったのかもしれない

 トルイの躍進と共に、大陸中の国が、部族が、次々と平定されていった。


 トルイは当たり前のように兄皇子たちを全員血祭りに上げ、当たり前のように父から玉座を譲られた。

 しかしそれすら大いなる道程の一歩としか捉えないトルイは、暖かい風の吹く方向をジッと見つめている。


「陛下……」


「いよいよだ、ドロテア」


 進軍は明日だ。皇帝たるトルイが直々に指揮を取り、攻め込み、敵の将と相対することとなる。


 本当は少しでも眠らなくてはいけないが、興奮で目が冴える。


「お身体が冷えますわ。どうかテントへ」


「ドロテア」


 トルイはドロテアの手を取った。


 二人は、もう子供ではない。しかしお互い伴侶を得ず、ただ一心不乱にここまで来た。


「明日、全ての決着がつく」


 ドロテアは黙ってトルイを見つめている。


「そうしたら約束通り……僕の妃になっておくれ」


 トルイは皇帝であり、血筋を絶やさないようすぐにでも正妻を娶れと配下たちから口を酸っぱくして言われてきた。


 ドロテアは、年増で異民族の女でありながらその器量を買われ今まで求婚が絶えなかった。


 けれども二人は、黙って首を横に振り続けてきた。


 それも全ては、明日という運命を決する日のためだ。


「油断なさいませぬよう」


 ドロテアは、抑揚のない声でそう言った。


「『仮面王』はたった一人で先の皇帝から国を奪い返したお方。慢心だけはおよしになって」


 ドロテアは首をかしげる。


「……ね? トルイ様」


 トルイの心臓がどくんと跳ねる。


 少年時代の半ば頃から、ドロテアの何気ない仕草を見ると堪えきれない情動に支配された。


 それに耐えるのは本当に苦しく、今すぐにでもドロテアをこの手にしたいと、トルイは数えきれないほどそう思った。


 しかし、己の魂に誓った約束のために、トルイは心身を奮い立たせてきた。


 トルイはドロテアを直視せず、天を仰いだ。






 戦乱は拮抗したり、押したり押されたり、先行きが見えなかった。


 トルイは己の強さと経験に裏打ちされた自信があったが、それでもドロテアの言った通り慢心だけはしなかった。


 トルイは、この暖かい海の国を攻め落とすために人生の全てを捧げてきたのだから。


 しかし、彼らは強かった。


 仮面王とあだ名される、複雑怪奇な模様を施した先祖伝来の仮面をつけた国王が、将として圧倒的に優秀だった。


 一度はトルイの父に攻め落とされ国を奪還できたのは、仮面王の治世になってからだろう。


 トルイは、歯がゆい思いで進撃を続けた。


 そして最後には帝国側の物量が仮面王の軍を力ずくで撃ち落とし、どうにか仮面王を追い詰めるまでに至った。


「はぁ……はぁ……」


 息を切らして走る仮面王は、砂浜に足を取られて苦しそうだった。


 トルイは遠慮をせず、どんどん距離を詰めていく。


 トルイの追跡を交わせないと諦めたのか、仮面王は浅瀬まで来てようやく膝をついた。


「ここまでだな、暖かき海の王よ」


 仮面王は剣で自身を支えながらトルイを見上げている。


 小柄で、鎧の隙間から覗く身体は筋肉が薄そうだ。

 小国でありながら大国への抗戦を繰り返し続けた王の正体がまさか少年だったとは。


「お前はよくやった。誇るべき強さだ。……さぁ、目を瞑れ」


 仮面王は観念しているらしく、抵抗する様子を見せない。


 とっくに限界を超えているのだろう。仮面で表情が見えないが、ひょっとしたら目も虚ろなのかもしれない。


 そして剣を振り下ろそうとした矢先、仮面王はふらりと体勢を崩した。


「……ロ……ア……」


「!」


 トルイは、自分でも何故そうしたのかわからないが、剣を捨てて手を伸ばした。


 そして、浅瀬に倒れそうになっている仮面王の手を掴む。


「……あ……」


 トルイは、自身の手の中の温もりに動揺した。


 仮面王は浅い呼吸を繰り返して、ぴくりとも動かず、波の音だけが辺りに響く。


 トルイは胸の中から、何かがせりあがってくるのを感じた。


 トルイの焦燥感が掻き立てられていくと共に記憶の扉がゆっくりと開き、トルイの手の中にあるものの正体を探る。


「そんな……まさか……」


 暖かい海。


 あの時、弱くて何もできなかった幼い日、かじかんだ手を温めてくれた少女。


「……あ……あ……」


 トルイは膝から崩れ落ちた。


 


 トルイは震える手で仮面王の仮面を支えている紐を解く。


 そこにあったのは、想像していた少年王の姿ではなかった。


「お久しぶりです、姉様」


 その時、背後から声があった。


 トルイは濃厚な潮の香りで息が詰まりそうになりながら、恐る恐る振り返った。


 浅瀬を歩く、ピシャリピシャリと水を蹴る音が、混乱するトルイの心臓の鼓動を強めていく。


「……ドロ……テア……」


 ドロテアと全く同じ顔をした仮面王が、絞り出すような声でそう言った。


 ドロテアは満面の笑みで「はい!」と応えた。


「長きに渡るお務めお疲れ様でした、姉様……いえ仮面王。もう、おやすみなさいませ」


 トルイが放り出した剣を、ドロテアは拾い上げる。


 そしておもむろに仮面王の喉笛に突き立てた。


 潰れた声を少し上げて、仮面王は簡単に事切れた。


 ドロテアが剣を抜くと、喉に開いた穴からとめどもなく血が吹き出す。


 トルイは悲鳴を上げた。


 子供のときのような、一人では何もできない、頼りない声を上げて、己の慣れ親しんだ剣の形が刻まれた喉を両手で塞ぐ。


「どうして! どうして!!」


 無意識にそう叫んでいた。


 今目の前で起きていることが、さっぱりわからない。


 だけど、子供の頃から大好きだった少女が血の海の中にいることだけはわかった。


 泣いたのは子供の頃以来だ。


 戦士として一心不乱に戦い続けた日々の中で、トルイがドロテア以外に弱みを見せたことはなかった。


「ドロテア……?」


 そうだ、ドロテア。


 どうしてドロテアがここに?


 ドロテアは、海の底に沈んだ仮面を拾い上げ、その仮面を己の顔に貼りつけた。


「どうしてですって? 言ったでしょう、陛下」


 トルイは仮面王を倒したはずなのに、今も仮面をつけた女が立っている。


 そして、ずっと妃にしたかったドロテアの顔をした女が、トルイの手の下で血を流して死んでいる。


「私の故郷の女は強くて、与えられた屈辱は必ず相手に返すのです」


 ドロテアは身体を屈め、トルイと視線を合わせる。


 まるで子供の頃によく看病してもらっいたときのように、顔が近かった。


「陛下、あなたはずぅっと」


 仮面の奥のドロテアの瞳は青い。ドロテアに殺された女と同じく。


「私の双子の姉たるその方を、私だと勘違いしていた」


 トルイは「勘違い……」と力なく呟く。


 仮面の奥の目がにっこり笑った。


「ええ! 勘違いです! あなたは、大好きだった女の子を私だと思い込んでいたので、故郷を追われた私はそれを利用させてもらいました!」


 トルイの中にあった、大切な思い出。


 何とか再び手に入れたくて、血を分けた兄を殺し、一族を増やし、振り返ることなく走り続けてきた。


「私はあなたが立派な戦士になるように、あなたを育てたのです。羊を肥え太らせるようにね」


 トルイの手は温かい。


 ずっと温めてほしかった手は、絶えることのない血が温めてくれている。


 どうしてこんなことに。


 トルイは、言いたいことがたくさんあるのに、言葉が出ずに呻き声だけを漏らしていた。


「あなたは見事に成長し、皇帝にまでなってくれた! ここまでおいしく育ってくれるなんて想像以上です。偉いですよ、陛下」


 ドロテアの手がトルイの頭を撫でる。


 今日のドロテアは、子供の頃に戻ったかのようなら優しい手つきだった。近頃は、周りの目があるからとあまり触れてはくれなかったのだ。


「で……でも……」


 トルイはようやく声を出す。


 仮面王の……ずっと追い求めてきた少女の身体を抱きかかえ、縋る目つきでドロテアを見上げた。


「この人は……君の姉上なんだろう、どうしてこんなことを……」


「ええ、姉であり、あなたの国の機嫌を取るために私を差し出した連中の王だった女です」


 ドロテアは海面を蹴る。飛び散った水がトルイと、仮面王に降りかかり、ドロテアはその様子を見て腹を抱えて笑った。


「でも、今日から私が王です」


 ドロテアはひとしきり笑ったあと、ちょっと仮面を外して涙を拭き、剣についた血を振り払う。


「陛下、私の夢はあなたが立派な戦士となることでした」


 ドロテアはゆっくりとトルイと仮面王に近づいてくる。


 血で汚れた剣が太陽の優しい光を受けて輝いた。


「あなたがよく肥え太り、私の国が食らう時に少しでもがほしかったのです」


 トルイは逃げられなかった。


 腕の中にいる女を見捨てて逃げられなかった。


「そのために……ずっと僕の傍に……?」


「とても、長かったですわ」


 ドロテアの剣が自身を切り裂こうとしている。トルイにはそれがわかった。


 トルイはこれまでの人生を振り返る。


 この海が始まりだった。


 たくさんの人々が幸せそうにサーフィンに興じていて、生まれた頃から戦乱のある世界に育ってきたトルイには、その光景がとても眩しかった。


 父に滅ぼされて、無惨な姿に作り替えられてしまう海。悲しかった。


 だから、かじかんだ手を温めてくれたあの少女の存在が、トルイの世界を一変させてしまった。


 あの子に幸せになってほしくて、あの子が大好きで、あの子に喜んでほしくて、あの子にこの海をあげたかった。


「……ドロテア……」


 どこで間違ったのだろう。いや、すべて間違っていたのかもしれない。


 唯一の真実は、かじかんだ手を温めてくれたあの手だけだった。


「僕の手を……包んでくれないか……」


 ドロテアはちょっと首をかしげた。


 そしてトルイの手を乱暴に掴み、言った。


「さようなら、トルイ様」


 トルイは身を切り裂かれる感覚を味わいながら、思った。


 違う手だな、と。









 そして。


 かつて栄華を誇った大帝国は、世継ぎを残さなかった皇帝の死とともに勢力図を加速度的に収縮させていき、やがて歴史にその名誉のみを残して滅び去った。


 あの暖かい海を臨む国は、相変わらずサーフィンが盛んであった。海の中で皇帝を討ち取った仮面王は、国の英雄として後世に伝えられることとなる。






 ある一人の少年が、もじもじとしながらサーフィンを楽しむ人々を見つめている。


 すると、海から一人の少女がサーフボードを抱えて現われ、少年に向かって手を伸ばす。


 少女は少年より、少しばかり背が高かった。


 少年は恐る恐るその手を取る。


 暖かい手だった。


 二人は手を繋ぎながら海に向かって歩いていく。


 少年は、ぼんやりと思った。


 僕はずっと、こうしたかったのかもしれないな、と。

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サーフィンのまぼろし ポピヨン村田 @popiyon_murata

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