僕を特別に思っているかもしれない

 トルイとドロテアは、国中を逃げ回った。


 その間兄皇子たちの追求の手は緩むことはなく、あわや命を取られるやもという生活が何年も続いた。


 しかしトルイは、ひとつの確固たる意思のもと魂をたぎらせ、地べたを這いつくばりながらも必ず生き延びた。


 やがて、地獄の中を切り開くような日々を続けていくうちに–––––トルイの中に眠っていた蒼き狼の血が覚醒した。


「殿下! 伝令より通達! コルゲン軍は東の森に潜伏しているとのことです!」


 トルイは静かに頷く。


「玉座を簒奪せんとする為、幼き日の我に屈辱の泥を食わせた実兄を誅する時が来た」


 大地を覆い尽くさんばかりの兵がトルイを熱い眼差しで見つめ、その言葉に耳を傾けた。


 トルイは剣を天に掲げ、号令を発した。


「全軍突撃! 真の皇帝たるこの我に続け!!」


 一人ひとりの咆哮が重なり、膨れ上がり、 空気をビリビリと揺らす。


 トルイを己の主と定め集まってきた国中の兵が、トルイの敵を己の敵と定め、怒りに血を燃やし、馬を走らせた。


 そしてトルイは……在りし日、剣の重さに弱音を吐いていた自身の姿を思い描いて、目の奥にじわりとしたものを感じるのだった。






「本日はお疲れ様でした、殿下」


「そんな仰々しく呼ばないでよ。いつもみたいに名前で呼んでおくれ」


 夜の帳が落ち、満点の星空が広がる下、地上には宴の炎が上がっていた。


 敵将を見事討ち取ったトルイ一派のテント群はお祭り騒ぎだった。

 そこら中にかがり火が立ち、とっておきの肉が振る舞われ、男たちは馬乳酒に酔い肩を組んで歌う。


「ですが殿下、衆目がありますわ」


 ドロテアはトルイの傍に侍ってはいるが、言葉は少なめだ。


「今女たちを呼んで参ります。酌はその者たちにまかせなさいませ」


 トルイはドロテアの肩を抱き、自分の胸に引き寄せた。


「きゃっ、殿下……」


「君は僕にとって特別なんだよ」


 子供の頃はトルイより背が高かったドロテアは、今やトルイの胸にすっぽりと収まるほどに小さい。


 違う。ドロテアが小さくなったのではなく、トルイが大きくなったのだ。


「見てごらん、僕の一族を」


 宴に興じている男と、故郷の舞を披露する女と、大きな焚き火の傍で眠そうにしている子供と。


 未だ大陸は戦乱の最中にあり、彼らは争いの渦中にあるが、それでも幸せそうだ。


「昔は僕と君だけだった。けれど、今の僕は一大勢力の長だ」


 トルイは、額にかかるドロテアの髪を指でのける。


「君のおかげだよ、ドロテア」


「そんな……ひとえに殿下のご尽力の結果ですわ」


 火花がぱちぱちと弾け、ドロテアの顔を赤々と照らす。


「ええ、本当に……。あんなに病弱だった殿下がこんなにご立派になられて、私はとても嬉しいです」


 あの日、トルイがいずれ皇帝になり、ドロテアを妃にすると宣言したあの日––––トルイの一念発起に大地が応えたのか、トルイの身体はみるみる快方に向かった。


 トルイはそれまで床に伏せっていた日々を取り戻すかのように夜通し剣を振り、皇帝のテントから拝借してきた兵法の指南書を読み漁り、火薬の扱いについ学んだ。


 トルイの肉体は次第に洗練されていき、猛々しい狼の如くトルイは大地を駆け抜け、向かってくる敵を切り捨てた。そこに、幼子二人で手を取り合って闇世の中をネズミのように逃げ回るみじめな姿はなかった。


 やがてそんなトルイに惹かれ、トルイの元に己の命を預けようとする男たちが現れた。


 かつては皇帝やその一族の配下だったり、皇帝に滅ぼされた国の生き残りだったり、ただ奪うばかりの山賊だったり––––バラバラな出自を持つ彼らの中で一悶着はあったが、誰もが最後にはトルイに心酔した。


「違うよ、僕だけの力じゃだめだった」


 今のトルイは皇帝の末子として、兄皇子たちを殲滅する戦いを繰り広げている。


 それは、真なる皇帝となり、夢を叶えるため。


 ただ、それだけのためだ。


「ドロテア、君がいつも傍にいてくれたからだよ」


 ドロテアはトルイの胸を掴んだ。


 トルイはドロテアの手を自分の手で包んだ。


 ずっとトルイが触れてきたその手は、昔より水分を溜めておけなくなっている。


 ドロテアは、今や年増と言ってよかった。トルイの興した一族の中で、ドロテアの年頃で夫のない女はいない。ドロテアの娘時代はトルイに捧げられてしまったのだ。


 だからこそ、トルイは幼い頃からの疑問がさらに膨らんだ。


「……ねぇ、どうして君はそんなに僕に良くしてくれるんだい。今だって故郷が懐かしいだろう」


 ドロテアの故郷の話は、今やトルイの寝入り話だけではなくなっている。一族の子供たちがドロテアの周りに集まって話をせがむ中に、トルイがこっそり混ぜさせてもらっている有様だ。


『この国と違って、私の故郷は女が強いの。みんなが今も国を護るために戦っているわ』


 トルイは、ある日、刺繍をしながら子供たちに話を聞かせるドロテアのことを思い出した。


『私の姉様なんて、王に一番近いとすらされていたのよ。……そう。故郷の女たちは逞しく、強かで、与えられた屈辱は必ず敵へと返す。……その気概があったから故郷をなんとか取り替えせたのだと思うわ』


 ドロテアは遠い目をしていた。何かを愛おしむときの、優しい顔つきだ。


 大人しく話を聞いていたある子供は、カーペットに頬杖をつきながら言った。


『じゃあドロテアは、どうして故郷に帰らないの?』


 そのときのドロテアは、針を持つ手を止め、曖昧に笑い返していた。


「……殿下」


 トルイに抱かれているドロテアは、かすれる声で言った。


「私には夢があるのです。それはトルイ様が立派な戦士へと成長されること」


 トルイは純粋に驚いた。


 ドロテアのその夢を、トルイは初めて知ったのだ。


 何より、今改めてその夢を語られるのがトルイには不思議だった。


「ならばその夢はもう叶っているね」


 ドロテアはかぶりを振った。


「いいえトルイ様、私の夢はまだ叶っていないのです」


 ドロテアはすっとトルイの腕から抜け出し、焚き火へと近づいていく。


 トルイはドロテアの後ろ姿を見た。


 子供の頃と違う。身体に曲線が増え、髪は伸び、艶やかになり、歩く所作は色っぽかった。


 ドロテアはトルイを振り返る。そして不敵に笑った。


 そのふっくらとした唇の形が、妖艶な線を描く目元が、トルイの魂に雄叫びを上げさせる。


 立派な戦士。


 この大陸で一番の戦士は、決まっている。


 今日、その障害となる兄を一人切り捨てた。


 トルイは、暖かい海からやってきた少女の体温を思い出す。


 一日でも早く––––あの海を取り戻すのだ。

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