故郷を懐かしんでいるかもしれない

 トルイが生まれた国ではひとつの場所に定住する文化がなく、テントと、羊と、馬と共に、大地から大地へ渡り暮らしてきた。


 トルイの父は国を治める皇帝だった。蒼き狼とあだ名されるほど武を誇る皇帝は大陸中の国々に攻め込み、たった一代で歴史上稀に見る大帝国を作り上げた。


 トルイは皇帝の8人いる子供の中で、一番最後に生まれた末子である。

 末子相続の伝統からトルイは次期皇帝と決まっていたが、トルイは生まれつきひどく病弱だった。


 このことからトルイの皇位継承に兄皇子たちは反発し、トルイは血を分けた兄弟たちから命を狙われることとなった。


 強大な帝国の覇者たる皇族たちの中で争いが勃発し、やがてそれは戦となり、それは膨れ上がりすぎた領土が分裂するに至る血みどろの戦いへと発展していった。





「ドロテア……ドロテア……」


 トルイは闇の中へ向かって手を伸ばした。


 誰かに包んでほしかったら手は虚しく宙を掻いたが、その代わり一人の少女がぴょこっとトルイのテントに顔を出した。


「はいトルイ様、聞こえてますよ」


 暗いテントの中央に火が灯され、温もりが広がっていく。


 トルイはホッとした。


 よかった、ドロテアが傍にいてくれた。


「喉が乾いてしまって……」


「はい、お待ちください」


 ドロテアはトルイの寝床まで来ると、皮袋に入れた馬乳酒をボウルに注ぐ。


 そしてトルイの上半身を支え、ボウルを口にあてがい優しく傾けた。


「まだ熱がありますね」


 ドロテアがトルイの額に自分の額をくっつける。


 ドロテアの吐いた息がトルイの顔にかかる。


 トルイはなんだか、とてもソワソワした。


「ごめんねドロテア、いつも迷惑をかけて」


 ドロテアは水を含ませて固く絞った布でトロイの汗を拭う。


 病人を労る、そっとした手つきだった。


「子供はそんなこと気にしなくて良いんですよ、トルイ様」


 ドロテアはくすくすと笑った。トルイは口を尖らせる。


「君だって子供じゃあないか……」


「皇子様のお付きができるくらいには大人ですわ」


 トルイは言い返せずに黙る。実際、ドロテアは十分出来過ぎなくらいによく働いてくれていた。


 皇位継承問題で国が荒れ、皇帝のテントで暮らすことができなくなったトルイに唯一付いてきてくれたのがドロテアだった。


 ドロテアはトロイと同じ民族の少女ではない。

 まだトルイが今よりもうんと幼い日に、皇帝が攻め落とした国の出身であった。


 ドロテアは故郷からトルイの父へ差し出され、皇族に下働きとして仕えていたのだった。


 物心つく前に母をなくしたトルイにとって、ドロテアは母がくれるはずだった愛情を埋めてくれる存在だった。


 だからこそ、皇帝や兄皇子達の元を出奔するときに付き従ってくれたドロテアに、トルイは感謝してもしきれないのである。


「……ねえ、ドロテア」


「今度はどうされました、トルイ様」


 ドロテアはテント中を忙しなく巡り家事をこなし始めた。


 トルイがしょっちゅう熱を出して寝込むので、このテントの働き手はドロテアだけなのだ。


「……故郷に、帰りたくないの?」


 ドロテアの働く姿を見ると、トルイはありがたさと同時に自身の無力を感じざるを得ない。


 トルイは他の男のように剣や弓が持てないから狩りもできない。


 故郷を蹂躙した国に生まれ落ちた、こんな弱い、役立たずの為に、うら若き乙女時代を消費するドロテアを、トルイは哀れに思う。


 と、同時に。


「……トルイ様、ひょっとして」


 ドロテアは家事の手を止め、トロイの傍に腰を下ろす。


 ドロテアがじっとトルイの目を見つめた。


 トルイの一族には生まれない、深い青の瞳がトルイの目を奪った。


話が聞きたいのではないですか?」


「……バレたか」


 トルイは観念して笑ってみせた。


 ドロテアも笑ったので、二人はニコニコと顔を見合わせた。


「なんだか頭が熱くてぼやっとすると、聞きたくなるんだよ。ドロテアの故郷の話」


 トルイは、故郷に帰らず自分の世話をするドロテアにいつも申し訳なく思う。


 と同時に、ついせがみたくなるのだ。


 あの光り輝く暖かい海を臨む、美しいドロテアの故郷の話を。


「はいはい、わかりました」


 ドロテアはやれやれと言った雰囲気だったが、やがて目を閉じて頭の中の故郷の思い出を探り始めた。


「……私の故郷は、海に面した小国です。冬は海が凍るほど寒いですが、春になって海が溶け始めたらみんなが海に繰り出すのです」


 トルイはドロテアの故郷を見たことがあった。


 ドロテアの思い出の中にある海岸だ。


「サーフィン、という遊戯があります。長いながい板の上で踏ん張って、波の上をうまく乗りこなすのです。王様もお姫様も、下々の者だってみんなサーフィンが好きでしてね」


 自分がサーフィンをしている姿を思い描いているのだろうか。ドロテアは目を閉じながら、ふふっと微笑んだ。


「みんなが作った思い思いの板が海中に広がる様は、とても見事です。みんなまた、平和になったらサーフィンがやりたいことでしょうね」


 ドロテアの顔から笑みが消える。


「……私が最後に見た故郷は、真っ赤な海に人々が浮いている姿でした」


 トルイは、父がドロテアの故郷を滅ぼしたその前日に、海を眺めていた。


 そこでトルイは、ある少女に出会った。


 翌日にはこの美しい光景が血の海となることが悲しくて、寒くてもその場を離れられなかったトルイの手を、自分の手で包んで温めてくれた少女。


「ねぇ、ドロテア」


ドロテアの目がゆっくりと開かれる。


「故郷に帰りたい?」


 ドロテアの故郷は、もう帝国の領土ではなくなってしまった。


 帝国の混乱に乗じて王侯貴族が反乱を起こし、自治権を取り戻した。


 しかし、かつて帝国の一部だった一族が興した国との戦いが発生し、今でも戦乱の最中にあった。


「僕ね、強くなるよ」


 トルイはドロテアの目を見て言った。


「それでドロテアの国を僕の国にする。そうしたら––––」


 トルイはドロテアの手を包み込んだ。


「僕のお妃なって!」


 トルイは、確信に近い感情を抱いていた。


 思い出の中の顔はぼんやりしているが、歳の頃や雰囲気がそっくりだ。


 何より、何の利益もないのにトルイを大事にしてくれる。


 ドロテアは、あの日、あの海で、トルイのかじかんだ手を包んだ少女に違いなかった。

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