第45話 浮気
6時半を過ぎても、直くんが帰って来ない。珍しく残業かしら?
6時を過ぎた頃から私の中で緊張が高まり続けている。部屋の中をウロウロしてしまう。落ち着けない。
「直、遅いね」
孝寿がソファでスマホを触りながら言った。
「うん……連絡もないし、どうしたのかしら」
直くんは全然帰って来ない。まさか、事故とか? それとも、またどこかで寝てるとか?
だんだん、緊張が不安に変わっていく。
8時を過ぎて、やっと直くんが帰って来た。玄関へと走る。
「おかえりなさい! どうしたの?」
私の顔を見ると、直くんはうつむいた。
「……直くん?」
直くんは何も言わず、私の顔を見つめた。申し訳なさそうな、悲しそうな顔で。
そして、いきなり膝に手をついて、大きく頭を下げた。
「ごめん、杏紗。俺、浮気した……」
「え……」
浮気……浮気?!
―――直くんが、初めて自覚のある浮気をした……。
「ごめん……」
「え……浮気……って……」
「杏紗が浮気を許さないのは、よく分かってる……俺、出て行くよ」
直くんは頭を下げ続けている。
「ちょ……ちょっと待って! 浮気って……ゴールデンリバー?」
「……ブルーフォレスト……」
「……誰の家の近くなの?」
直くんが答えない。
「直くん、顔上げてよ」
顔、見せてよ……。
ゆっくりと、直くんが頭を上げた。口を固く閉じて、とても言いにくそうに目を伏せる。
「ねえ、誰の家の近くなの?」
「……嵯峨根さん……」
……やっぱり……直くんがこんなにも言いにくそうにするなんて、他にいないと思った。
直くんの顔を見たら、よく分かった。
書き換えられたのは、私だ。
私は、直くんの中で瑚子ちゃんに上書きされたんだ……。
「中入って話そうぜ。そこ、あちーだろ」
孝寿がリビングの入口から声を掛けてくる。
「孝寿……ごめん、孝寿」
「いいから、中入って」
孝寿が優しく言うと、一瞬ためらって、直くんは廊下を歩き出した。
……相手が瑚子ちゃんで、まだ良かった……瑚子ちゃんの気持ちが直くんに伝わったんだ……。
私もリビングへと歩き出す。
リビングに入ると、直くんが孝寿に頭を下げていた。
「俺、孝寿が嵯峨根さん狙ってるの知ってたのに……本当にごめん」
「頭上げて、まあ座れよ。杏紗ちゃんも」
言われるまま、私と直くんがソファに座った。その前に孝寿が腕を組んで立つ。
「なんで、そんなことになったの?」
「……バイト終わって店出たら、嵯峨根さんがいて……店の裏に来て欲しいって言われて、裏に行ったら好きだって言われて……」
瑚子ちゃんが、そんなハッキリ言ったんだ?! びっくりなんだけど。
「俺には杏紗がいるからって言ったんだけど、分かってるけど好きなんだって……なんか、色々、まるでずっと俺のこと見てたみたいにこういう所が好きだっていっぱい言われて……なんか、いじらしく見えてきちゃって……」
うん。実際、ずっと見てたんだよ、直くんのことを。
「鬼気迫る勢いで好きなんだって訴えてくる嵯峨根さん見てたら、俺……この子をこのまま放ったらかして家に帰れないなって思っちゃって……杏紗、孝寿、本当にごめん……」
瑚子ちゃんの熱意に動かされちゃったんだな、直くん……。なんだか、責められない。
「俺……もう、2人に会わないよ。バイトも辞める」
「直くん、そんな……」
「そんな必要ねーよ」
「え?」
孝寿が直くんを見下ろして笑っている。
「浮気じゃねーもん。いつまでも杏紗ちゃんが自分の女だと思ったら大間違いだ、直」
「え……え?!」
「すでに杏紗ちゃんは俺のもんだ。直の彼女じゃない。俺の婚約者だ」
「え?! いつの間にやったの?!」
「まだやってない。直とちゃんと別れてからじゃないと無理って言われた」
「え……そうなの?」
「そう! だから俺、杏紗ちゃんが浮気されて傷付いたみたいな顔してんのすげー気に食わねーんだけど」
「あ、ごめん! だって、今日まで普通に彼氏だったんだもん」
なんか、浮気された気分になってたわ、たしかに。
「かわいい子だっただろ? 嵯峨根」
孝寿が直くんに笑いかける。
「いやでも、今日の嵯峨根さんはなんて言うか、本当に鬼気迫るって感じだったよ。何かに怯えてるようにすら見えた。だから余計に放っておけなくて」
「あはは! そりゃ鬼気も迫るだろーな! 俺が嵯峨根に絶対に今日中に直を落とせって言ったんだから」
「孝寿が?!」
私と直くんの声が被った。……あ! 私との結婚を1番に教えたい奴って、瑚子ちゃんだったんだ!
「何も気にする必要ねーよ。俺があんなあばずれ狙う訳ねーだろ。馬鹿だな、直。あの女絶対浮気するよ。杏紗ちゃんにしとけば浮気の心配なんかねーのに」
「まーでも、俺浮気されてもあんまり気にならないから」
あ、そっか。直くんは脳内で上書きできるんだった。浮気されても、自分がやれば浮気相手が消えて自分が上書きされるんだ。
瑚子ちゃんも効率化のために体使っちゃうような子だし、何これ、もしかして倫理観の欠如した同士のベストカップルなんじゃないの?
いつものように、3人でダイニングテーブルを囲む。
「なるほどね、直くんがなかなか帰って来ないことが分かってたから、晩ごはん買ってくるなんて言ったんだ」
孝寿はどこまで計算してたのかしら? 拓人が来ることや、私が心変わりすることなんて読める訳ないのに。
「ま、そーいうことだな」
「何の話?」
「直を信じてたって話だよ」
と、孝寿が直くんに笑いかける。直くんも嬉しそうに微笑む。
「あー、かわいいな、孝寿。俺、孝寿にもう会っちゃいけないと思ったら寂しかったよ」
私は?!
「俺、直に会えなくなるなんて嫌だ。俺のお兄ちゃんなんだよ? 何も気にしないで、飯作りに来てよ」
「そうだよ、直くん。気にせず、ごはん作りに来て。瑚子ちゃんももう自由にこの家に来ていいから」
「……君ら2人とも料理できねーもんな」
「そうそう」
「そうそう」
「しょうがねえなー。分かったよ、飯作りに来るよ」
「やったあ! ありがとう、直! もー俺達、直の作る飯なしじゃ生きられないんだよー」
「しっかり胃袋掴まれちゃってるからね」
みんなで笑う。あー、良かった。目まぐるしくたった数時間でガラッと変わっちゃったけど、笑えて良かった。本当に、良かった……。
当然、直くんはうちを出ることになった。直くんの鍵が孝寿に渡される。
実家暮らしで高校生の瑚子ちゃんとは暮らせないから、直くんは今日から実家に戻ることにした。
私は、この家で初めてのひとり暮らしが始まる。
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