第44話

「お前か……」


「帰れよ、さよなら」


 孝寿が玄関で靴を脱いで、私の前に立った。……私を守ってるつもりかしら?


 孝寿の茶髪の髪を見上げる。表情は見えないけど、高校生が30代に立ち向かうって、しんどくないかしら……。


「杏紗、これが最後のチャンスだ。俺んとこに戻って来いよ」


「なんだよ、未練タラタラかよ。別れてどれだけ時間経ってると思ってんだよ。戻る訳ねーだろ」


「お前に言ってねーんだよ」


「帰れ。それだけだ」


 拓人が高笑いをする。酔ってる分声が大きい。不快だわー。


「お前杏紗と結婚するとか言ってたな、ガキのくせに。言っとくけどこの女、何もできねーぞ? 料理もできねーし家事全般ろくにできねえ。やったらやったで家電壊して余計な金かかりやがる。金の計算もできねーし杏紗に任せてたら水道が止まるんだよ」


「俺がやればいい。問題ない」


「仕事も中途半端なことしやがるし。教育実習まで行って小学校教員免許取ったくせにフラフラフリーターになって、やっと就職したと思ったら塾講師って」


 拓人の高笑いが耳につく。


 ……全部、拓人の言う通りだ。悔しいけど、私は何もできないし、おばあちゃんにもいい歳なのにフラフラしてるって心配されるくらい、全てが中途半端だ……。


「天職を見付けるのに時間がかかっただけだ。杏紗ちゃんは生徒ひとりひとりに寄り添える立派な塾講師だよ。何も中途半端じゃない」


 顔を上げて、孝寿の後ろ姿を見る。……孝寿……ありがとう。


「若さと体くらいしか取り柄がねえんだよ。その若さも年々失われるんだよ。もうアラサーだろ、分かってんの、杏紗? 俺は体しか取り柄のねえ杏紗でも結婚してやるって言ってんだよ」


「もうお前しゃべんな!!」


 孝寿が拓人の太ももを蹴った。拓人が顔を歪めて足をかばう。


「黙ってニコニコやらせてりゃいいんだよ! それくらいしか存在価値ねえんだから!」


 ひどい―――


「しゃべんなっつってんだろ!! お前が黙れ!! まだ杏紗ちゃんとやれてねー俺への当てつけだ、そんなもん!!」


 孝寿が拓人をガンガン蹴る。


 当てつけ? ……そうなのかしら? ……そうかあ?


「お前、痛てーんだよ! マジで!」


「帰れ!!」


 拓人が蹴りをかわそうと動いて、後ろ姿だった孝寿の横顔が見えた。


 一際、眼光鋭い。怒ってるんだ……。


 孝寿がこんな目していたのを、私1回だけ見たことがある。孝寿に初めて会った、孝寿のおじいちゃんのお葬式で。


 おじいちゃんの友達だって人が、こんなに早く死にやがって馬鹿野郎! って言ったのを、おじいちゃんが馬鹿にされたと言葉通りに思い込んだ3歳の孝寿が殴りかかって行った。


 おじいちゃんに謝って帰れ! って叫びながら、たった3歳の小さな体でめちゃくちゃに暴れて手が付けられなくて、最後は孝寿のママが抱きかかえて斎場から連れ出して、2人とも戻って来なかった。


 あ、孝寿に2回目に会った歩美ちゃんの結婚式の時も孝寿は暴れてた。


 隣のテーブルにいた新郎の親戚が酔っ払って、あんな貧乏な家の女もらいやがってって歩美ちゃんの家を馬鹿にして盛り上がってた時だ。


 小6の孝寿が、お前のとこの新郎様が貧乏な女しか捕まえられねー器なんだよ。なんだあの顔、歩美ちゃんみてーな綺麗な女を嫁にできて感謝しかねーだろ。はい、お礼言おうかーおっさん。ありがとうごーざーいーまーすー。って、冷めた目で馬鹿にしてた新郎親戚が全員ありがとうございますって言うまで蹴り続けてた。


 止めようとしない孝寿のママに、


「またキレてるけど大丈夫なの? おじいちゃんの時みたいに止まらなくなるんじゃない?」


 って言ったら、


「大丈夫よ。おじいちゃんのことは大好きだったけど、歩美ちゃんとは今日初めて会ったんだから孝寿はキレてないわよ。嫁ぎ先で歩美ちゃんが馬鹿にされることのないように説得してるだけよ」


 ってバクバク食べながら言われた。


「説得? あれ説得って言うの?」


「おじいちゃんの時に懇々と言って聞かせたの。人間同士には言葉があるんだから、言葉で攻めればいいのよって。孝寿頭いいでしょー、すっかり言葉を駆使できるようになっちゃって」


「いや、暴力と言葉のハイブリッドができあがっちゃってるんだけど?!」


 式場の人が駆け寄って来ると、孝寿は何事もなかったかのように自分の席に戻ってかわいく笑って会釈したから、式場の人が困惑してた。


 あの時、孝寿のママが言ってたな。


「孝寿は学校でもちょこちょこ暴力事件起こしてるけど、いつも誰かのためよ。本気で怒ってキレたら手が付けられないけど、あの子がキレるのは本当に大切な人のためだけだから大丈夫」


 って……。


 本気でキレた孝寿を抑えるには、どうするんだっけ。そうだ、抱きかかえて連れ出すしかないんだ。


 無言で蹴り続ける孝寿の背中にピッタリくっついて、孝寿の体を抱きしめる。


「孝寿、やめて」


 孝寿の動きが止まった。


 孝寿が初めてうちに来た時、私の顔を見て杏紗ちゃん! って言った孝寿の笑顔を思い出した。


 あんな笑顔で、何年も何年も、孝寿のママから私の話を聞いてたのかしら。


 私がフラフラ軽ーい恋愛ばっかりしてたことも日記に書いてたから、彼氏がどうのこうのって話も聞いたのかもしれない。どんな気持ちで、どんな顔で、聞いてたのかしら……。


「私と、結婚してください」


「はあ?!」


 拓人が大声を上げる。


「お前正気か? こんな奴と結婚なんて、DV受けるだろ、絶対!」


「孝寿は自分勝手な暴力は振るわない」


「お前は馬鹿だから分からねーだけだ!」


「孝寿、蹴っていいわよ」


 私が離れると、孝寿がまた無言で蹴る。


「なんでこんなガキに! なんでたった年に一度っきりの浮気くらいで、なんで! 杏紗!」


「年に一度だろうと、浮気くらいって考え方が嫌なのよ! 帰って!」


「絶対、結婚なんてうまくいくはずない! DV受けたら俺に連絡して来い! 俺がコイツ警察に突き出してやる!」


 毎度捨て台詞吐いてくな。ほんと、かっこ悪い。


 靴を手に持って、足を引きずりながら拓人が出て行った。沈黙が流れる。


 静かに高ぶっていた気持ちが、少し落ち着いてくる……。


 私、さっき何言った?!


 頭を通さずに、言葉が口から出てったんだけど?!


 孝寿がゆっくり振り向いた。優しい笑顔で私を見つめる。


「試合であんなに走らされたりしなきゃ、もっと威力ある蹴りができたのに。俺もまだまだだな」


「十分でしょ」


「大丈夫? 杏紗ちゃん」


「私は、全然大丈夫」


 孝寿が力いっぱい、抱きしめてくる。やっぱり、この子は荒っぽいな。


「絶対、幸せにする。約束、守ってくれてありがとう」


「うん……こちらこそ、ありがとう」


 すごいな、孝寿は。私が忘れきってた3歳の時の約束を果たしてしまうなんて……。私が約束忘れきってたのって、その後の孝寿のブチ切れが印象的過ぎたせいな気もするけど。


 でも、ダメじゃん! 私、うっかり順番間違った!


 ちゃんと直くんと別れてから、孝寿とのことを考えないといけないのに勝手に感情が先走ってしまった。


 ちゃんと、別れないと……直くんの顔が頭に浮かぶ。


 私に言えるかしら……直くんの顔を見て、別れたいだなんて。


 直くんを傷付けてしまうんじゃないかしら。今日、田中さんに彼女として紹介されたばかりだって言うのに……。


 でも、ちゃんと顔も見ないで別れるなんて、もっとできない。


「杏紗ちゃん、少しの間、1人でも大丈夫?」


 何も言わず、私の顔を見ていた孝寿が言った。


「え?」


「俺と杏紗ちゃんの結婚が正式に決まったって、1番に教えたい奴がいるんだよ」


「え? まさか、直くん?」


 孝寿が笑顔で私の頭をポンポンとする。


「直には、杏紗ちゃんから話するべきだろ」


「……うん……そうだよね」


「すぐ戻るから! あ、帰りに晩ごはん買ってくるよ、直の分と3人分。何がいい?」


「晩ごはん?」


「何がいい?」


「えーと……パスタ」


「分かった! 行ってきまーす!」


 孝寿が靴を履いて出て行った。……晩ごはん?

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