第40話

 あ、出た。


「俺も言い忘れてた。俺デカいハンバーグ2個は食うから」


「孝寿がハンバーグ好きなのは直くん分かってるよ。ねえ、まだやってない?」


「まだ女に触ってもねーよ」


「その女に指一本も触らないで、今すぐうちに来て」


「は?!」


「えーと、5分以内ね。5分以内に来て」


 すぐに飛び出せば、サッカーやってる孝寿なら来れるかもしれない。少しでも女とやろうとしたら、絶対に間に合わない。


「あのな。いくらお子ちゃまでも俺が今から何しようとしてるか、分かるよねえ? ナチュラルボーンビッチさんー」


「分かってる」


「俺を試すつもり? 杏紗ちゃんを選ぶか裸の女選ぶか、みたいな? もー。いらんこと考えるなよー」


 一瞬で見破られてしまった……。


「察してくんない? 俺今超やりてーの。だから、こんなどうでもいい女に裸でベッドに寝っ転がらせてんの」


「言い方ひどくない?! 今目の前にいるんだよね?」


「杏紗ちゃんの言ってることの方がひでーよ!」


 キッチンの小さなデジタル時計を手に取る。


「とにかく! 指一本も触らないで、よ。その女の人には丁重に謝罪した上で、5分以内に来て。ちょうどもうすぐ12分になるから、17分までね。18分になったらタイムオーバーね」


「お願いだからさー、俺がどんな状況か考えてよー。今、目の前に、裸の、女がいるの!」


「10秒前ー」


「どうせ代わりに杏紗ちゃんがやらせてもくれねーんだろ?」


 孝寿が訴えるのを無視してカウントする。


「5ー4ー3ー」


「俺そんなチャレンジやんねーよ?」


「2ー1ー0!」


 電話を切った。


 やんねーよって言われちゃったよ。何よ。チャレンジ前から選ぶことないじゃん。


 手の中の時計を見る。こんなもん、見てても仕方ない。孝寿はチャレンジすらしないんだから。


 時計と反対の手にスマホを持つ。ニュースアプリの通知が来てる。へえ、おしどり夫婦が離婚ですって。ご愁傷様です。


 画面左上の時計が目に入る。もう、2分も経ってる。早いな。5分って、思ったよりあっという間じゃないかしら。


 ……あ……関係ないんだった。孝寿はチャレンジなんてしてないんだから。


 でも、孝寿じゃなくて直くんが帰って来るかもしれないから、玄関の鍵開けとこうかな。


 鍵を開け、狭い玄関前の廊下の壁にもたれて、ぼんやりと時計を見る。あー、あんなこと、提案しなきゃ良かったなあ……。


 もう17分だ。残り30秒……何私、時計見てるのかしら。バカバカし。


 壁から離れ、時計を玄関の靴箱の上に置いた。こんなもん、見てたって仕方な……え?!


 マンションの廊下をドタドタと走る音がする気がする。近付いて来てる気がする。もう、すぐそこまで来た気がする!


 時計を見た。18時17分55秒。56秒。57……


 ドアが開いた。孝寿だ。孝寿が入ってくる。


「……あー……しんど……」


 玄関に座り込む。かなり息が荒い。


「ちょっとくらい、オーバーしてても、セーフにしろよ。あー、きっつ……俺技巧派なんだよ、足は速くねーんだよ」


「普通にセーフだよ! 57秒だった!」


「マジで? さすが俺だな」


 すごい……本当に来た! すごくしんどそうだけど、来た!


「チャレンジしないんじゃなかったの?」


 まだ孝寿はハーハーと肩で息をしている。開いた膝に腕を載せて下を向いて座り込んでいる。


「少しは期待してたんだろ。俺が裸の女より杏紗ちゃんを選ぶって。杏紗ちゃんに期待されたら、やるしかねーだろ。あー、しんど」


 孝寿……女の子のような顔が見えないせいかしら。孝寿なのにかなりドキッとした。かなり。声だけは男っぽいんだもん。


「分かってんだろうな」


「え? 何が?」


 玄関で座り込む孝寿が後ろに立つ私の方へ顔を向けた。前髪がハラリと流れて眉毛が見えると、いつもの女の子のような孝寿じゃなく、かなり男っぽくて驚いた。


「え?! ちょっと靴脱いでこっち向いて!」


 靴を脱いだ孝寿の体がこちらを向くと、私も膝をついて孝寿の前髪を上げた。


「男の子じゃん!」


 特に眉が太い訳でもないのに、まっすぐな眉が出てるだけでまるで女の子には見えない。どうなってるの?! 孝寿が男の子になった!


「男の子だよ。今の俺にこんなに近付くとは、いい度胸してんな」


「え……」


 しまった! 顔にびっくりしたものだから、だいぶ接近しちゃった! 孝寿の前に膝立ちで、片手で前髪を上げて、もう片手は孝寿の肩に置いてしまっている。孝寿が私のせいでおあずけ状態なのもすっかり忘れてた!


 孝寿が私の両腕を両手で掴んだ。離す気はないって、言われなくても分かる気がする。


「場所だけ選ばせてやるよ。ここがいい? ベッドがいい? 風呂とかベランダとかでも俺はいいよ」


「え……ちょ……ちょっと待って」


「待つと思う?」


 眼光鋭い目で見られるのは元から苦手なのに、前髪を上げた男っぽい顔でやられると、もう、逃げられないと諦めてしまいそう。


「ほら、選んで。どこがいい? 杏紗ちゃんなら、俺どこでもいい」


 優しく微笑む。孝寿って、コロッコロ表情が変わる。ダメだ。微笑まれてもドキドキする……。


「じゃ……じゃあ……」


 ドアが開いた。


「おわ! びっくりした! 玄関で何やってんの?」


 買い物袋を両手にぶら下げた直くんが驚いている。


 直くん! あっぶなー。いい所で帰って来てくれた!


「マジかー。ここで帰って来んのかよー」


 また孝寿が下を向いてしまった。


「どうしたの? 孝寿」


「あ……わんぱく坊主だから、走って疲れちゃっただけ!」


「てっきとーなこと言ってんじゃねーよ! 直ー、杏紗ちゃんひどいんだよ! 俺がゴールデンリバーで裸の女といたのにさー、電話してきて今すぐ家に来いって言ったんだよー」


「ハンバーグの電話よ! 直くんが電話してって言ったから!」


「今すぐ家に来いってのは言ったの?」


「え……言ったけど」


「ひどくない? 目の前に裸の女がいたんだよ」


「それはひどい。なんでそんなこと言ったの? 杏紗」


「だって……本当に来ると思わなかったんだもん。そもそもゴールデンリバーで電話に出る方が悪くない?」


「別に、出れるんなら出るんじゃない?」


 そうだ。直くんも出たわ。出る派だった、この人。


 ハンバーグは大好きだからか、いつもは食べる量が多い分孝寿の方が私より食べ終わるのが遅いのに今日は早かった。


 孝寿が座るソファに後から私が座る。


「孝寿のせいで私ひどいこと言ったみたいになったじゃん」


「いや、実際ひどいんだっつーの。俺結局消化できてないからね? ハンバーグに満足しただけで」


「美味しかったよね」


「うん。直、料理の腕上がりまくってるよな」


 胃袋を掴まれるって、こんな感じかしら。孝寿も私も、すっかり直くんの作るごはんが楽しみになってる。

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