第6話
いつものように寝室に着替えに戻ると、枕元の引き出しの上に、金色のランプは相変わらずあった。
イルスはそれをじっと見つめた。
二回。
すでに使ったのだろう。
スィグルは三回まで使えると言っていたから、あと一回は同居人を変えることができるはずだ。
汗を流すために水を使った後で、濡れた髪が鬱陶しかったので、イルスは横目にランプを見ながら、髪を束ねた。
もう使う必要がないだろう。
シュレーは僅かだが年上で、年齢以上に落ち着いて見える。これまで同じ年頃の子供と付き合いが薄く、大人としか暮らしたことがなかったイルスには、そういう相手のほうが居心地がよかった。
シュレーは部屋を散らかしまくったり、夜中に怒鳴り込んできて大泣きしたりしないだろう。
お互いに干渉することなく、ほどほどの距離を保って、気楽にやっていける。
夏は去りかけており、夕方ともなると、濡れ髪では寒かった。いつものように、居間の暖炉のそばに座りたくなって、イルスは部屋を出た。
素足で廊下の絨毯を踏んでいき、居間へと入ると、そこには異様な臭いが漂っていた。暖炉のそばにシュレーが片膝をついて座っており、火の中になにかを投じている。
羊皮紙の束だった。
シェルが観念して、返したのだろうか。
「手伝おうか。燃やすの」
イルスが声をかけると、シュレーはゆっくりと振り向いた。どこか大人びた横顔に、火影が踊っている。
「シェルのだろ?」
手の中にある羊皮紙に書かれた文字を見つめてから、シュレーはただ黙って、それを火の中に落とした。紙はあっけなく、めらめらと燃え上がり、独特の臭いをふりまいている。
「正史の写しは、どうしても手元に欲しいというので、取り上げなかった」
講義時間が終わって、学寮に戻ったので、イルスはもう着慣れた民族衣装を身につけていた。そのほうが落ち着くからだ。
しかしシュレーはまだ学院の制服を着ていた。髪が濡れているので、彼も戻ってから身繕いしたらしいが、そういえば夕食に現れる時でも、シュレーはいつも学院の制服か、山エルフ族の平服を着ている。それは自分と違って、半分は山エルフの血を引いているシュレーには、似合わないわけではなかったが、なんだかお仕着せをむりに着せられているようで、くつろげないのではないかと思えた。
シュレーの前髪が濡れて、額にある赤い聖刻が、いつもよりはっきり見えているせいかもしれない。シュレーが神官服を着ている姿を、イルスは見たことがなかったが、部屋ではそういう格好なのではないかと、勝手に思っていた。
僧衣がいちばん、似合いそうだったからだ。髪だってまだ、ほかの山エルフのように、短く切りそろえていない。たよりなく細い金髪を、肩まで伸ばした僧形のままだ。
案外こいつは、まだ神殿に未練があるんじゃないのか。
イルスはそう思った。その気になりさえすれば、髪を切るなんて、シュレーには簡単なことのはずだからだ。
「なにを燃やしてるんだ?」
世間話のつもりで、イルスは火の側にならんで膝をつき、シュレーが床に重ねていた紙束をのぞきんだ。
「恋文だ」
無表情に答えたシュレーの言葉に、紙に手をのばそうとしていたイルスは硬直した。
「読んだら殺す」
横目でこちらの顔をのぞき込んで、シュレーは念を押すように言った。
「……読まないよ」
イルスは無意識に両手を挙げて空手を示し、シュレーはそれをじっと睨んでいる。
読みはしなかったが、紙の上に綴られていた几帳面な文字は、おそらくシュレーのものだった。読もうと思えば盗み読めた。それは公用語で書かれていたからだ。
「……なんで燃やしてるんだ」
「書き上がったから」
さも当然のように、シュレーは小声で答えた。
聞いてはいけない話だという自分の忠告が、イルスの頭の中で囁き始めた。
そういえばシュレーは結婚しているのだった。
日頃はそんなこと、全く意識せずにいたが、それはシュレーがそんな話をいっさい話題に出さないせいだ。
寒いので、居心地のいい暖炉のそばにいたかったが、シュレーがあまり喋らないので、それはそれで居心地が悪かった。
こういう時に、シェルなら一人でべらべら楽しげに話したろうし、スィグルなら程々喋ったろう。しかしシュレーの沈黙は、手を伸ばせば触れそうな重い幕だった。
下手に動くと、沈黙が破られそうな気がして、イルスは椅子に引っ込むこともできず、そのまま暖炉のそばで片膝を抱えて座っていた。
部屋にいるときと、外にいるときで、人はどこか別人なのだ。その事実を、イルスは今ここで思い知っていた。自分が付き合いやすいと信じていたのは、シュレーの外面のほうだったのではないか。
思えば今まで、シュレーとは必要な話しかしたことがない。話すともなく、二人きりでただ雑談する機会が、今まで無かったのだ。そういう機会がこうして突然やってきても、イルスはシュレーと何を話していいか見当がつかなかった。
イルスが話の糸口をさがして、そわそわしていると、彫像のように黙っていたシュレーが、とつぜん話し始めた。
「二人は反省してくれたようだ。特にスィグル・レイラスが」
「そりゃあそうだろうな……肉まで食わされちゃ」
少しほっとして、イルスは返事をした。
夕食の食卓に、シュレーは肉料理ばかりを出した。猪肉の煮込みは、今夜は特に上出来だった。シュレーの得意料理のひとつだ。
いつもなら、肉が食べられないスィグルのために、シュレーは野菜料理もわざわざ作ってやっていた。まさか干されると思っていなかったらしいスィグルは、食卓に自分が食べられるものが何もないので、きょとんとしていた。
イルスにとって意外だったのは、シュレーがスィグルにも肉料理を取り分けて出したことではなく、スィグルがそれを大人しく食ったことのほうだ。
その場で吐くのではないかとイルスは心配したが、スィグルは与えられた肉を全て食べてから、ふらりと部屋に戻っていった。
「肉によって味が違うだろう。兎と鴨と鹿は違う味がする」
火の中に手紙を放り込みながら、シュレーが突然のように言った。イルスは話の意図が見えず、相づちを打ちそこねたまま、シュレーの横顔を見た。
「彼が食べた肉は、どんな味だったんだろうな」
イルスは瞬きを忘れて、その話をしているシュレーの口元に目を奪われた。シュレーが言っているのは、スィグルが今夜食べた煮込み料理の話ではないだろう。
暖炉に乾かされた唇を湿らせるため、シュレーが無意識らしい仕草で、唇のはしを舐めた。白い歯列に、不似合いに鋭い犬歯が見えた。
「そんなに罪深いことか。生きるためにやったことが」
「お前が、そう決めたんだ」
それを言うべきかどうか、イルスは迷いながら、シュレーに教えた。
「公用語を話す種族は、人だから、食ってはいけないと、天使ブラン・アムリネスが定めた」
大陸には実に様々な種がひしめきあっている。どこまでが人で、どこからが獣か、その境界線は曖昧だった。
およそ人語を解するものは人ゆえ、獣のごとく相喰らうことはならぬと、はるかな昔に天使ブラン・アムリネスが命じ、その言葉は戒律に記されている。神殿が各部族の王族に神殿語で洗礼名を授けるのも、その流れを汲んだ習慣だった。
ブラン・アムリネスが、獣でなく人だと認めた種族には、公用語の名を与えた。これを喰らってはならぬと聖別する意味で。神話の中では、天使はすべての大陸の民に名前を与えたというが、今では実際にはそんなことはしない。王族にだけだ。
洗礼名を持つのは、支配者であることと同時に、被支配民であることも意味していた。民に君臨し、神殿に隷属する。
「フォルデス」
シュレーはどこか厳しい声で呼びかけてきた。
「君は公用語を話すから人なのか」
イルスはほつれた髪をかき上げた。シュレーの理詰めは苦手だった。
「そういうわけじゃない」
「そうだな。もしそうなら、君はもっと公用語の練習をしないと、いつか間違えて肉屋に売られるかもしれない。君の肉はどんな味がするんだろうな」
たちの悪い冗談だった。
イルスは何となくぞっとしたが、シュレーはほんの軽口のつもりのようだった。
シュレーは狩猟を好み、ときどき一人で森に入って獲物をとってくることがある。昨日の夕食に出た兎もそうだ。学院の調理人に頼めば、採ってきた獲物の下処理を任せることができるのに、シュレーはたいてい自分でそれをやる。
自分が殺めた獲物を、自分で調理して食うのは、筋が通っているようにイルスには思えた。学院の学生のなかには、遊びで狩りをする者も沢山いるが、シュレーはそうではない。
それには共感できるはずが、イルスは、シュレーが獲物の血抜きをするのを見るのが苦手だった。シュレーが実際楽しんでいるのは、狩猟ではなく、獲ってきた獲物を捌く作業のほうなのではないかという印象があったからだ。
以前は何度か付き合ったことがあるが、神聖さを帯びた白い手が血にまみれるのを見るのに、とうとう嫌気がさしてからは、誘われても一緒に行ったことがない。
「君たちエルフ族は肉食の種だ。肉を食わないと健康を保てないよ。気の毒がる気持ちはわかるが、あいつにも時々は肉を食わせろ。痩せている」
「スィグルは肉を食うと具合が悪くなるんだと思ってたんだ」
実際、自分たちが食べている肉料理の皿を、スィグルはいつもうとましそうに見ていた。一緒に食事をするほうを選んで、我慢しているが、ほんとうなら見るのも嫌なのだろうと思っていた。
「そんなはずはない。あれは甘えているんだ。今夜は久々に飢えを満たして眠れるさ」
シュレーが紙でなく、新しい薪をとって、暖炉に放り込んだ。火はぱちぱちと
確かにスィグルは肉を全部平らげた。シュレーがそれを食えと命じたからだ。いやなら、いつものように罵詈雑言を吐き、席を蹴って出ていっただろう。よそで食事ができないわけではないのだから。
なぜ食ったのだろう。
イルスにはそれが、天使が肉食を許したからのように思えた。
ブラン・アムリネスは、人語を解する種族どうしがお互いを食料とすることを禁じた。その戒律は、同時にもうひとつの基準を作った。共通語を解さない種族は、人ではないから、食って良いという基準だ。
「お前って、ひどいことするよな、時々」
「そうかな」
とぼけているのか、シュレーは曖昧なことを言った。
「お前でも、好きな女には優しいのか」
つい先刻には、詮索するまいと思ったことを、イルスは聞いてみた。とにかくシュレーにも、人並みの感情があるのだということを、確かめたかった。
「さあ、どうだろう。私は彼女とはほとんど会ったことがないんだ」
暖炉のそばには、もう何枚かしか羊皮紙が残っていなかった。その送られない手紙の中に、どんなことが書いてあるのか、イルスは見てみたい気がした。
こいつの心の中にも、愛だとか、相手を思いやる気持ちがあって、愛しいと思える相手には、それなりの言葉を吐くのだと思いたい。
「私は君たちにも優しくしているつもりだが、君はなにが不満なんだ」
シュレーは本気で言っているらしかった。
「不満?」
イルスは不満を訴えたつもりはなかった。
「君は今、私が優しくないと文句を言っている」
シュレーは苦笑していた。
言われてみれば、その通りのようにも思えた。
「……やりすぎじゃねえのか。スィグルは確かに、お前をコケにしたかもしれないけど、だからって」
「いい機会じゃないか。彼は誰かが許してくれるのを待っている。それをやるのに私より適任な者が?」
よき牧者だ。
翼ある者、天より来たりて、これを牧す。
聖典に書かれてあり、共通語の訓練のために師匠から繰り返し読まされたその文章を、イルスは連想した。
神殿種は、
シュレーは最後の羊皮紙を暖炉に投げ入れ、それが身をくねらせて燃え尽きるのを、じっと見守った。あれには何が書いてあったのだろう。
愛の言葉が?
そうだといいのだが。
イルスは恨めしく、火影をうつしたシュレーの横顔を見つめた。
「俺さ……」
呼びかけると、シュレーは気安い友の顔で振り向いた。
「お前の本当の心なんて、見たくねえや。あいつらと同じになりそうでさ」
イルスは、シェルやスィグルがシュレーを怒らせようと躍起になる理由が、何となく理解できた。怒っている時のシュレーが、いちばん分かりやすい。自分と変わらない年頃の仲間だと信じていられる。からかえば怒って、自分たちと同じところにいてくれる。
「今日の私たちは、いつもより余計に口をききすぎたんじゃないか?」
床に座るこちらを心持ち見下ろして、シュレーはそう言った。
「私も君の本音は、剣闘技室で聞くだけにしたいな」
シュレーはまた、薄く苦笑していた。
剣闘技室では手合わせをするだけで、会話らしい会話をしたことがない。シュレーが言っているのは、武器越しに見交わすときの、言葉でないやりとりのことだろう。
確かに、自分が気が合うつもりだったのは、そのときのシュレーだ。
「なにをそんな惨めしそうな顔をしているんだ。腹でも減ったのか」
飢えた飼い犬に、残り物の骨でも放ってやるような口調で、シュレーは言った。その声は優しかった。
「靴をはけ、フォルデス。怪我をしている」
燃えおちた羊皮紙の臭いを残して、シュレーは暖炉のそばから姿を消した。
なんであいつは白い神官服を着ていないのかな。
イルスはそれがどうしても不思議で、満たされない気持ちになった。
もしそうなら、命じる口調で言われても、こんなふうに複雑な気持ちにはならないだろう。もともとあいつには、支配する血が流れていて、自分はその猟犬だ。友ではなく、火のそばに座って、主人の言葉をただ聞いていればいい。森で獲物を追うのなら、それについていく。
イルスは小さな傷の残っている、自分の裸足の足を眺めた。
魔法のランプ。
あれはまだ、あと一回働いてくれるはずだ。
自分はこのまま、この部屋で暮らしていると、そのうち人語を話せなくなるのではないか。そんな気がして、イルスは逃げ出したかった。
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