第5話
どんどん、とまた扉を叩く音がして、イルスは飛び起きた。
開いた扉の向こうに、シュレーが白い寝間着姿で立っていた。びっくりして、イルスはとっさに布団の上にあるはずの、例の羊皮紙の束に目を落とした。
しかし、そこには何もない。自分が寝ながら蹴飛ばした布団があるだけだった。
「寝坊した」
きっぱりとそう言うと、シュレーはまた勢いよく扉を閉めた。廊下を行く慌ただしい足音がする。
呆然と髪を掻きながら、イルスはシュレーも寝癖がつくらしいことを考えた。
シュレーは自分を起こしに来てくれたらしい。イルスの頭の中には、つい今まで見ていた夢の残りが留まっていた。故郷の海で魚をとっている夢だ。
寝ぼけ頭で、イルスは考えた。
眠っている間に、入れ替わったらしい。昨夜はシェルが同居人だったが、朝になったらシュレーと同室になっている。
魔法のランプ。
鈍い金色をしたそれは、寝入りばなに取り落としたまま、まだ布団の上に転がっていた。それを枕元の引き出しの上に戻して、イルスは寝台から降りた。
急いで着替えを済ませ、居間へ行くと、ちょうどシュレーが出かけるところだった。
声をかけると、シュレーは振り向いた。起こしに来たときにはあった寝癖が、すっかり消えている。学院の制服をまとった姿には、一分の隙もなかった。
「お前でも寝坊できるんだな」
イルスが感心して言うと、扉を開けながら、シュレーはふん、と、笑っているような、ため息のような音をたてた。
「昨日の夜、シェルと言い争ったので、腹が立って眠れなかった」
学寮の廊下を並んで歩きながら、シュレーは無表情な口調で話した。
羊皮紙は消えたが、シェルが正史を盗んだ事実までは消えてくれなかったらしい。シュレーがあくまで無表情に、行く先の一点を見つめているので、イルスは緊張してごくりと唾を飲んだ。
シュレーは怒れば怒った顔をする。彼が無表情になるのは感情を押し殺している時だ。たとえば激怒しているときなど。
「君は何か聞いているか」
シュレーはこちらを見もせずに問いかけてきた。
しらばっくれたところで、知っているものは知っている。イルスは観念した。
「正史の件か?」
「私は写本をとるなと言った」
イルスの質問に答える代わりに、シュレーはつっけんどんにそれだけ言った。早足のシュレーに少し遅れながら、イルスはうなずいた。
「私が愚かだった」
シュレーがどんな顔をして、それを言っているのか、イルスには見えなかった。
「あいつ、お前に謝ったんだろ」
「そういう問題ではない。謝ってすむ事ではない。彼が機密を故国に漏らせば、彼も私も責任をとらねばならなかった。私は気付かずに危ない橋を渡った」
「シェルを信用してたからだろ」
イルスが言うと、シュレーはその言葉に躓いたように、きゅうに歩調をゆるめた。
追い越しかけて振り返ると、シュレーは立ち止まっていた。
赤い聖刻のあるシュレーの顔は、あまりにも無表情で、そこに建っている彫像のようだった。
「さあ。信用していたんだろうな」
シュレーはこちらをじっと見て、あやふやなことを言った。
「彼が鍵を貸してくれとうるさかったので、貸したんだ」
「あいつら、ゴネ出すと聞かないから」
イルスはシュレーを慰めたつもりだった。シュレーはやっと、不機嫌そうな顔をした。
「そういう問題ではない。マイオスが歯止めのきかない性格なのは熟知していた。そもそも鍵を貸したのが間違いだ。私の責任だ」
シュレーは立ち止まっていた自分に気付いたように、また歩き始めた。
マイオスか。
イルスは少し驚きながら、シュレーの背を追いかけた。
シェルがなにを怒っていたのか、なんとなく察しがついた。
シェルは、シュレーが自分のことを洗礼名で呼んだのが嫌だったのだ。親しい友達の間柄なら、洗礼名でなく名前で呼ぶのが普通だし、神殿種のシュレーから洗礼名で呼ばれると、なにかひどく遠い高いところから見下ろされている感じがする。
イルスもシュレーが自分のことを、フォルデスと呼ぶと、いやな気持ちがした。
でも、そういう事は時々起こった。シュレーはイルスと名前で呼んでくることもあったが、上の空だと洗礼名を使うことも多かった。それをいちいち訂正していては会話にならない。
「あいつも悪いと思って、謝ってんだから、許してやれよ」
「もう許した」
あっさりと、シュレーは言った。
「だが、マイオスは納得がいかないらしい。写しを渡さないと言っている」
またマイオスか。
「私には理解できない。なぜそんな意味不明なことをするんだ」
「写しを持っていたいんだろ」
「それをシャンタル・メイヨウに送られると私は困る」
シュレーはシェルの父である森エルフ族族長に、それにふさわしい敬称をつけるのを忘れていた。山エルフのふりをするのを忘れてる。
「送らないって約束させて、持たせておけばいいんじゃないか?」
「馬鹿な。鍵を貸したときに、写本はしないと約束したんだぞ。それでも写しをとった。あいつは私をコケにしてる」
「甘えてるんだよ」
イルスが言うと、シュレーは苦い顔でかすかに振り返った。
「
歩きながら、シュレーは憎々しげに呟いた。
その声はひどく感情的で、イルスは何とはなしに嬉しくなった。
「
ひそやかな声で、シュレーは早口にぶちまけた。
「見つけ次第、ぶっ殺してやる」
あは、とイルスは思わず声をたてて笑った。シュレーの顔が怒っていたからだ。
「シェルにそう言ってやれよ」
「彼は怒るだろうな」
「ああ、そうだな。ケンカしろ」
イルスが背中を叩くと、シュレーは、ふん、と面白くもなさそうな笑い声をたてた。
「あれが相手じゃケンカにもならないよ」
「そうでもない。あいつもけっこうすごい文句言うぜ」
「誰が舌戦だと言った。一発殴ってやりたい」
「だったら殴ってやれば」
苦笑して、イルスは言った。
シュレーがそんなことをするとは到底思えなかった。
「無理だ。手が痛いから馬鹿らしい」
「お前どうせ、君のせいじゃない、私の責任だ、マイオス。とか言ったんだろ?」
イルスが指摘すると、シュレーは少し意外そうに、横目でちらりとこちらを見た。図星のようだった。
「鍵を貸した私の責任だ。写しを返してくれれば許すと言った」
「あいつ、お前に謝ったんだろ。悪いと思ってんだよ。責任とらせてやれよ。書架の鍵もとりあげないでおいてやれよ。もう二度としないだろ」
シュレーは顔をしかめて、思い悩んでいるふうだった。
「一度裏切った者を、もう一度信じろというのか」
「そうだよ。友達だろ?」
シュレーは、さも面白いことを言われたように、珍しく声をあげて笑った。
廊下にいた連中が、それを見てぎょっとしていた。シュレーが笑うのは、たいていは最高潮に激怒しているときだと皆知っている。
でも今は違うだろう。シュレーは気恥ずかしくて笑ったのだ。
「君らしい発想だな」
「シェルを信用してやれ」
「信用している。それが、そもそもの問題だ」
シュレーはそう言って、食堂の扉を開いた。
目の前に、いつもの黒大理石の床が広がった。
定席の食卓には、シェルが徹底抗戦と書いたような顔で座っており、膝の上には大量の羊皮紙の束を持っていた。
「それを返してくれ。そしたら無かったことにしてやる」
座っているシェルの前に立って、シュレーは命じるように言った。シェルはぎゅっと唇を引き結び、いかにも頑固そうな顔で、そんなシュレーを見上げている。
「いやです」
「なぜいやなんだ」
「山エルフ領内に
「そうか。じゃあ調べるがいい」
矢継ぎ早に言いつのっていたシェルは、シュレーがあまりにあっさりと許したので、拍子抜けをしたように、ぽかんとした。
「……いいんですか?」
「なぜ私に相談しなかった」
「それは……それは、なんででしょう。分かってもらえない気がして。それに、全部調べてから、話そうと思って。あのう……僕、勝手なことして、すみません。楽しくて、調子に乗ってたんです」
「まったくその通りだな、このお調子者が。私をなめるな。君のせいで肝が冷えた」
シュレーがぼやくと、シェルの向かいの席で気怠げに頬杖をついていたスィグルが、気持ちよくてたまらないというように、くつくつと笑い声で喉を鳴らした。
シュレーはそれを少しの間じっと見下ろしていたが、やがて何か思いついたように指輪をはずして食卓に置いた。そして、痛快なまでに音高くスィグルの横っ面を平手で殴った。
椅子から転がり落ちかけながら、スィグルはびっくりした顔で、シュレーを見上げた。
「い……痛いよっ」
「忘れたか?」
スィグルを威嚇するように、シュレーはもう一度手をふりあげた。紙束に抱きついて、顔面蒼白のシェルがひいいっと悲鳴をあげた。自分も殴られると思っているのだろう。
「なにを!? なにを忘れるんだよっ」
「羊皮紙は燃やせても、君はさすがに燃やせないからな。暗くて狭い学生牢に三日も寝泊まりすれば、天才的な君の記憶力も、少しは薄れるだろうか」
「いやだよっ、そんなの拷問じゃないか」
椅子の背にしがみつき、スィグルが血相を変えていた。
スィグルは暗くて狭い場所に閉じこめられるのが嫌いなのだ。虜囚時代の心の傷だろう。その理由を察すると、哀れすぎて普通はできない処遇だと思うが、シュレーには難しいことではないらしい。
「忘れた! ぜんぶ忘れたよ!!」
スィグルは今なら求められれば何でも言うといった雰囲気で悲鳴のように答えた。
「そうだろうか?」
シュレーは目を細めて、疑わしげに呟く。
イルスは笑いをこらえて顔を擦った。シェルもスィグルも本気でびびっているが、シュレーはたぶん遊んでいるだけだ。
「懺悔しろ、スィグル・レイラス・アンフィバロウ」
シュレーに神官ぶった声で言われて、スィグルは首をすくめた。
「僕はシェルに頼まれたことをやっただけだよ」
「いいや君は止めるべきだった」
「機密だなんて思わなかったんだよ」
「この嘘つきめ」
シュレーが殴るふりをすると、スィグルは身を固くしてそれを待った。
しかしシュレーは、結局スィグルを二度は殴らず、ため息をひとつついただけで、食卓から指輪をとりあげて指に戻した。
「今朝はもう時間がないから、簡単なもので」
制服の袖をまくりあげながら、シュレーは厨房のほうに歩いていった。それを見送ってから、イルスは彼が自分に話しかけていたのだということに気付いた。
はああ、と深い息を吐いて、スィグルが脱力した。
「何で僕がこんなめに……」
「お前ら、毎度毎度、こうなるのが分かっててやってるんじゃないのか?」
イルスは不思議になって聞いてみた。しかしシェルもぼけっとしていて何も答えようとしない。
怖いもの見たさというか。シュレーをからかって根性試しをしているとしか思えない。そんな目に遭いたくなければ、そもそもシュレーを怒らせなければいいだけなのに。
びびらされるのが気持ちよくてやっているんじゃないか、こいつら。
「お前ら、朝飯食うの?」
イルスが確かめると、スィグルとシェルは、どこかぼんやりしたまま何度も黙って頷いた。
食うんだ。
見た目の割に、あまり堪えていないらしい二人に、イルスは呆れた。やっぱり楽しんでやっているんだ。こういうことは今後も果てしなく続くにちがいない。
厨房に行くと、シュレーが神妙な顔をして、じゃがいもを剥いていた。
「あれで許してやったのか?」
手ぬるいんじゃないかという意味合いで、イルスはシュレーに訊ねた。
シュレーはなんだかんだであの二人には甘い。だからまた、しょうもない事でちょっかいをかけられるのだ。本当に迷惑なら、もっとガツンと言ってやればいいのに。案外こいつも、あの二人と戯れるのを楽しんでいるのかな。
イルスがそう結論付けようとしたとき、ふふふ、と笑って、シュレーがつぶやいた。
「今日はスィグルに肉を食わせてやろうかな」
まだ全然許していないらしかった。
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