第4話

 イルスは疲れた。

 夕食の料理は成功裏に完成し、食卓に並べられた。シュレーは夕方、狩猟に出たらしく、とってきた兎がオーブンでこんがり美味そうに焼かれて、どこかの本で見たという怪しいソースをかけられることとなった。

 そのソースが果たして本当に正しく作られたのか、それは誰にも分からない。山の部族の伝統料理らしく、それを作ったシュレー本人を含め、その場にいた誰も食べたことがなく、味のほうは正直言って微妙なものだったからだ。

 まずいというほどではないが、美味くもないような気がした。

 まさにそのソースと同様、兎肉をひとくち食べたシュレーの顔も、かなり微妙な表情だった。

 食卓に現れた肉の塊に、スィグルは文句ばかり言い続けていたし、シェルは本人が言っていたように、夕食に現れなかった。

 シュレーは、批評しろというように、食事の間中、イルスの顔をじっと見るし、普段ならシェルが引き受けている大絶賛する役目を、イルスが引き受けることになる。

 それも料理が迷いもなく美味ければ、言ってやれることもあったが、率直に批評すれば、まあこんなもんじゃないか、といったところだった。

 しかしイルスはシュレーの機嫌をそこねたくなかった。

 口下手が世辞を言おうなどと試みるものではない。

 イルスの嘘は一瞬でバレて、シュレーのご機嫌は急降下した。

 どうせ険悪になるなら、素直に言えばよかった。「うまくも、まずくもない」と。

 うっすらとした自己嫌悪に浸り、イルスが寝ようと寝床に潜り込んだ時だった。

 どんどん、と、寝室の扉が叩かれた。

「イルス……」

 青い顔をしたシェルが、捧げ持ったランプに顔を下から照らされて、ゆらりと扉の向こうに現れた。

 なんとなくそんな予感はしていたが、イルスは羽根枕に顔を埋めてうめいた。

「どうしたんだシェル……腹が減ったんだろ、どうせ」

 もともと空腹だったらしいシェルが、シュレーと顔を合わせたくないばっかりに夕飯抜きだったのだ。腹が減って寝られないのだろう。

「ちがいます……」

 亡霊のように、白い夜着の裾をひきずって入ってきたシェルは、左手に灯火、右手には、分厚い羊皮紙の束を抱えていた。

「僕の話を聞いてください……」

 そう言って、シェルは床に灯火を置き、紙束をざらざらとイルスの布団のうえにまき散らした。

 そこには、公用語でびっしりと文章が書き連ねられ、あるものにはインクのあとも精緻な絵が描かれている。文字はシェルのもののようだったが、絵はどう見ても、スィグルが描いたものだった。

 これが、二人がこそこそと、禁帯出書架から盗み出した、山エルフ宮廷の隠された正史からの抜粋に違いない。イルスはそんなものを見せられたくなかった。

「これです、これ!!」

 羊皮紙に青みがかった黒インクで描かれた絵を、シェルはまだ寝床に倒れたままのイルスの眼前に見せつけた。そこには、カタツムリのようなものが描かれていた。

「これがなにか分かりますか!?」

 カタツムリだろう。イルスはそのようなことを口の中で答えた。

「違う! 違います!! これは守護生物トゥラシェです。そうに違いないです!!」

 シェルはイルスの耳元に断定の叫び声をあげた。夜でなくても、勘弁してほしい声の大きさだった。

「禁帯出書架の本にあった、山エルフ族の正史に載っていたんです。初期のころに、こういうドラグーンが現れたって。でもこれは絶対に守護生物トゥラシェです。ほらここに、目が銀色だったって! 書いてあるでしょう、読んでくださいよ、ちゃんと!!」

「銀色でも金色でも俺にはどうでもいいよ! なんでそんな話をしにくるんだ」

 イルスがカタツムリの絵を押し返すと、シェルは信じられないという、衝撃を受けた顔をした。

「だって守護生物トゥラシェが契約する主もなくさまよっているなんて、可哀想すぎます」

「じゃあお前が契約してやれ。俺は寝るから」

守護生物トゥラシェは長期間誰とも契約しないと、野生化して、凶暴になるんです」

「だからお前が契約してやれよ。俺は寝るから」

「この守護生物トゥラシェは村々を襲ったので、殺されてしまったんですよ! 可哀想に……」

 巨大なカタツムリに襲われた山エルフ族の村人のほうが、よっぽど気の毒だ。

「ほかにもまだ、離れになった守護生物トゥラシェがいるかもしれません。守護生物トゥラシェは自分で主を選んで、呼びかけてくるんです。山エルフ族のなかに、感応力を失っていない人がいても、守護生物トゥラシェのことを何も知らなければ、呼びかけに応えられないんじゃないですか?」

 必死の形相で、シェルは訴えてきた。

 イルスには、それがどれくらい悲劇的なことなのか、見当もつかなかった。

 そもそも守護生物トゥラシェは長らく、海エルフ族にとっては敵が使役する怪物で、それをいかにして殺すかという話や、それにいかにして殺されたかという話だけが伝わり、子供だったイルスの耳にも、銀色の目をした怪物の逸話は、ひどく恐ろしいものとして吹き込まれた。

 シェルには済まないが、守護生物トゥラシェが可哀想だと感じることは、イルスには無理だった。

「呼びかけに応えられなかったら、どうまずいんだ」

「えっ」

 シェルの頬が、ぴくりとかすかに震えた。

「ど……どう、って。悲しいですよ」

 シェルは、理解されなかったことがよほど悲しかったのか、急にぽろぽと涙をこぼし始めた。

 イルスは目を閉じて、それを見ないようにと枕に顔を押しつけた。

 シェルが泣くのでいちいち動揺していたら、やっていられない。

 イルスは男が泣くものじゃないと躾けられたが、森エルフは悲しくなれば涙を流すのだ。それに深い意味はない。可笑しかったら笑うのと同じことだ。

「悲しいのは分かったけど、だったら何なんだ。俺に走っていって誰か呼んでこいってことか?」

「違います!! 正史を調べて、山エルフ領内に過去現れた守護生物トゥラシェを探したいんです。まだ生きているのがいるかもしれません」

「正史っていつのだよ。守護生物トゥラシェはそんなに長生きするもんなのか?」

「ものによっては、します。アシャンティカなんかは……僕の父上の守護生物トゥラシェですけど、何百年も生きているんですから。どこかに潜んで生きているものが、孤独に耐えきれずに凶暴化したらどうするんですか!」

「どうって……」

 守護生物トゥラシェを殺すことは困難だが不可能ではない。実際に、同盟により戦いが止む以前は、森エルフ族との国境で、対・守護生物トゥラシェ戦が日々繰り広げられていた。

 しかし、その話をシェルにすべきでないことは、イルスには分かっていた。

「イルス……言いにくいですけど、守護生物トゥラシェは人を食べます」

 シェルは深刻そのものの顔をしている。イルスはシェルに教えられなくても、そんなことは知っていた。

「どこかにいるんだったら、早く見つけなきゃ」

 唇を噛んで、シェルはうつむいた。

「だから、僕は禁帯出書架にある正史を調べたいんです。ほんとは王室書架も見せてほしいんです。でもシュレーがそれは絶対にダメだって」

「あいつがダメだっていうんなら、ダメなんだろう」

「どうしてシュレーもイルスも分かってくれないんだろう」

 シェルは涙に濡れた顔を覆って、おおげさに嘆いている。

 シュレーが分かってくれない理由は簡単に推測できる。シュレーもイルスと同意見で、凶暴化した守護生物トゥラシェなんてものが実際に現れたら、殺すしかないと思っているのだ。

「殺すなんてひどすぎますーっ」

 わっと泣き崩れて、シェルは叫んだ。

 イルスはぎょっとした。そんな話は口に出していないはずだ。

「僕、ちゃんと全部話して謝りましたよ。シュレーにも事情は話したんですよ! でも燃やせって言うんです。写しを父上に送ったら僕を学院から追い出すって!!」

 イルスは開いた口が塞がらなかった。

 シェルは山エルフ族の秘密の正史を書き写して、族長シャンタル・メイヨウに送ろうとしていたのだ。本人が分かっていなくても、それは間諜スパイのやることだった。山エルフ宮廷に属しているシュレーが、そんなことを許せるわけがない。

「おっ……お前、そんなことシュレーに話したのか!?」

「イルスが話せって言ったんじゃないですか」

 シェルはいかにも、お前のせいだと言うようにイルスをなじった。

 その話を聞いて、シュレーがどんなに激怒したかを想像すると、イルスの頭は真っ白になった。だまされたとはいえ、機密漏洩の片棒を担がされた結果になったと知れば、平静ではいられないだろう。

「写しを預かってください。明日になったらシュレーに渡すように約束させられてるんです」

「そんなもん預かれるかよ。素直にシュレーに渡せ!」

 シェルはだだっ子のように激しく首をふり、いやだというような事を繰り返し口走った。

「だって助けなきゃ。ここに置いておいてくれるだけでいいんです。イルスは知らなかったことにしてくれていいんです」

 シェルはイルスの枕元にあった引き出しに、持ってきた紙束を詰め込もうと突進してきた。その勢いに、引き出しの上に置いてあった鈍い金色のランプが転がり落ちた。

 イルスはとっさにそれを受け止め、泣きながら引き出しに羊皮紙を片付けているシェルを見つめた。

「落ち着けよ、シェル。そんなことしても無駄だ」

「僕はなにも悪いことしてません」

 大事そうに紙束を胸に抱き、シェルは訴えかけてきた。

「いや、してる。してるって……シュレーが怒るのも当たり前だ。お前、いっぺん冷静になって考えてみろ。お前に悪気がなかったのは分かるけど、そういう問題じゃないだろ?」

「イルスはどうせ、いっつもシュレーの味方なんですよね。僕やスィグルには、大人みたいな説教ばっかりして。どうせ僕らは幼いですよ! そんなに気が合うなら、シュレーと住んだらどうですか。イルスになんか話さなきゃよかったです。話さなければ、こんなことにならなかったのに!」

 足を踏みならしそうな勢いで、シェルは文句を言った。無茶苦茶なことを言われていると思ったが、イルスは呆気にとられて、なにも言い返せなかった。責任転嫁もいいとこだ。

 シェルは言いたい放題言い終えると、きゅうにめそめそ小声になった。

「イルス、僕は守護生物トゥラシェが心配だっただけなんです。悪気はなかったんです。確かに短慮だったかもしれませんけど。だからって、シュレーも少しは僕の気持ちを理解してくれたって、いいんじゃないですか。頭ごなしに怒らなくても……」

 要するに、シェルは拗ねているらしかった。

 もともと言葉のきついところがシュレーにはあるが、怒るとさらにそれが極まる。罵詈雑言を吐くわけではないのに、ちょっとした一言で、相手をぐさっと傷つけることができるのだ。

 そういうシュレーの冷たいところが、シェルには我慢がならなかったのだろう。それで意地になっている。どうせそんなところだ。

「たまにはイルスも僕の味方をしてください」

「そんなのスィグルにやってもらえ。あいつなら喜んでシュレーと戦う」

「イルスは嫌なんですか?」

 寝台のうえに半身を起こしたまま、イルスは顔を擦った。眠かった。

「嫌というか……俺、この問題になんの関係もないよな?」

「僕たち四人は仲間じゃないですか」

 がつんと頭を殴られたような顔を、シェルはしていた。

「そうだけど。これはお前とシュレーの問題だろ? サシで解決しろよ。お前が一方的に悪いんだからさ、シュレーの言うとおりにして、許してもらえよ」

 そうする以外になにか解決法があるか?

 イルスは考えたが、そこから先は頭が回らなかった。謝れば、シュレーは許すような気がした。問題はまだ取り返しのつく範囲内だ。写しをとった羊皮紙の束を焼き払い、シェルから書架の鍵を取り返し、スィグルには箝口令を敷く。スィグルはどうせ、おもしろ半分でシェルに手を貸したのだから、シュレーに「それじゃあ黙っておいてやってもいいけど」みたいな事を恩着せがましく言ってやれれば満足するのだ。

 あの二人はなんだって、やたらシュレーに絡もうとするのだろう。方向性は違うが、二人そろってやっていることは同じだ。シュレーも短気で、いちいち怒りはするが、結局いつも二人のわがままを許してきたのだから、今回だって許せないはずはないだろう。

「僕、イルスと同室じゃなきゃよかったです。だったらこんな事になってなかった」

 捨て台詞を吐いて、シェルは走って部屋を出て行った。

 イルスは頭を抱えた。布団にぶちまけられた機密文書が、そのまんまだったからだ。

 お友達付き合いもいいが、あいつは自分が他国にいるという緊張感が足りなすぎるのではないか。仲間じゃないですか、の一言で、自分や、スィグルや、シュレーを問題に巻き込んでもいいと思ってる。

 あれは一種の甘えで、シェル自身も危ないことをやっている自覚はあるらしいが、それを誰かと共有したい気持ちのほうが強いのだ。

 あいつなりに、異国で寂しいのだろう。

 分かるけど、イルスは惨めな気分だった。

 シェルが自分に無茶苦茶なことを平気で言うのは、それを言っても大丈夫だと信じているからだろう。笑って受け流せる程度に強いだろうと期待されてる。

 そうだろうかとイルスは思った。

 金色のランプに、いかにも惨めそうな表情の自分がうつっている。

 だっせえな、と悪態をついて、イルスはランプを袖でこすった。

 疲れた。

 機密書類だろうが何だろうが知ったことではなかった。イルスは羊皮紙ごと布団をかぶって、意地でも眠ることにした。

 今夜はできれば故郷の夢を見たかった。あの青い海を。

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