第3話

 帰ってみても、寮の部屋は片付いたままだった。

 同居人がスィグルだったときには、一日が終わって戻ってくると、我が目を疑うほど部屋が散らかっている時が多く、それだけで何だかどっと疲れたものだったが、今日、イルスの目の前にあるのは、朝出かけた時と変わらず、すっきり片付いた寮の居室だった。

 部屋つきの執事ザハルは、この学院の執事最古参というだけあって、まさに「自律せよ」という学則を体現したような老人で、学生の怠惰を許さない。

 故郷の宮廷で、飯を食うにも髪を梳くにも専属の侍女か侍従がいる生活に馴染んでいたスィグルは、当然といえば当然だが、自分が持ち出したものを自分で片付けるという発想を持っていなかった。飽きた物を放り出しておいても、故郷ではそれが、魔法のようにいつのまにか片付いていたのだろう。

 ザハルは初めのうちは、見かねて片付けてくれていたが、やがてスィグルの自堕落を放置するようになった。老執事は、スィグルと戦うことにしたのだ。彼の面倒をいっさい見ないという手段で。

 ザハルのこだわりは徹底したもので、使用人たちにいったん部屋を片付けてから掃除をさせ、そのあと散らかっていたものを元通りの場所に散らかし直させた。そのお陰でスィグルの寝室はいつも、極めて清潔に散らかっていたし、居間や廊下も、イルスが片付けないかぎり同様だった。

 ザハルが戦うのは自由だと思うが、ふたりの戦いの板挟みになって、自分が苦しまされるのは不当だと、イルスはいつも不満だった。

「お帰りなさいませ」

 突っ立っていると、背後から声をかけられ、イルスは驚いた。

 いつのまにかザハルがそこにいて、片手に持った盆に水の入った瓶を載せていた。

「着替えのお召し物は寝室に。飲み物は居間でよろしいですか」

 訊きながら、ザハルはイルスの答えを待たずに、飲み水を暖炉のそばの椅子に添えられた小卓へと運んだ。

 午後の最終講義のあとは、剣闘技の練習室か、馬場で一汗かくのがイルスの習慣で、居室に戻ってくると、ザハルが水と着替えを用意してくれている。

 講義室か食堂以外でスィグルと顔を合わせるのは、たいてい部屋に戻ったときだったし、着替えてから夕食までは、暖炉の傍でのんびり時間をすごして、スィグルとその日にあったことを話すともなく話すのが常だった。

 スィグルはいつもシェルとつるんで図書館あたりにいたし、イルスはひとりでいるか、気が向けばシュレーと剣の手合わせでもしている。改めて考えてみると、この時間帯に顔を合わせなければ、スィグルが日中なにをしているのかは、イルスにとっては、まったくの謎だった。

 部屋で着替えて居間に水を飲みに戻ると、いつもならスィグルがいる長椅子に、シェルがちんまりと腰掛け、ちょうどお茶を出しにきたザハルと、にこやかに話し合っていた。

 ザハルが笑えるということに、イルスは度肝を抜かれた。

 スィグルと違って、シェルは行儀が良かったし、スィグルがザハルにするように、卑しい召使いを見るような目で、不躾に見下したりもしない。

 ザハルは、この部屋に住んでいる学生が、スィグルからシェルに入れ替わったことに、なんの違和感も感じていないようだった。まるでずっと前から、講義明けの午後、この長椅子に座っているのはシェルだったみたいだ。

 ふたりは争っておらず、部屋は平和だった。

 魔法のランプ。

「ああ、イルス、お帰りなさい。ただいま」

 こちらに気付いて、シェルが複雑な挨拶をした。にこやかなシェルがいると、この薄暗い部屋も明るい雰囲気だ。

「今日の晩ごはん何かなあ」

 腹が減っているのか、シェルは真剣な顔をして、そう言った。

 長椅子の上には、シェルが図書館から借りてきたらしい本が、数冊積み上がっていた。本の背表紙には、持ち出し禁止を表す蝋封のようなものが貼り付けてあったが、シェルはそんなことを気にしている気配もない。

 写本はしない、翌日には必ず返すという誓いのもとに、シュレーがシェルに図書の保管庫の鍵を貸してやっているのだ。一時期そのことでシュレーはシェルにうるさく付きまとわれ、あの堅物もとうとう根負けして折れたのだった。

 その時の約束が守られているとしたら、シェルはこの本の山を、今夜のうちに平らげるつもりなのだろう。翌日返却の誓いが、翌々日になって、また一日延びて、というような事を、シュレーが許すはずがないからだ。

 禁帯出書架の書物は、山エルフ王室の財産で、本来、おいそれと貸してやっていいものではない。

 ふと見ると、分厚い古書のところどころに、細長い栞がいくつもはさんである。

「課題でもやってるのか」

 首をかしげて、イルスはシェルが大事そうに抱いている本の山を眺めた。

「この栞ですか? これは写しをとっておきたい場所です」

 シェルはそのことに話を向けられて、嬉しくてたまらないという顔をした。

「お前、写本はしないって、シュレーと約束したんだったろ?」

「写本はしてません」

 えっへん、という態度で、胸をはり、シェルは自慢げに答える。

「栞をつけたところを、明日返す前にスィグルに読んでもらって、丸暗記してもらうんです。あとからそれを僕が口述筆記します。それなら写本じゃないでしょう?」

 スィグルは読んだものや見たものを、まるごと憶えて忘れないという、突飛な特技を持っていた。一度見たことがあるものは、いつでもそれを思い出して、絵でも文章でも、そっくりそのまま紙に書くこともできる。

 その特技のおかげで、スィグルは講義にも出ず、ろくに勉強をしなくても、いつも学院の教授をうならせるような答案を出すことができた。主に憎しみのうなりではあるが。

「シェル、お前なあ。シュレーは写しをとられたくないから、写本はするなって言ってたんだろ。そもそも山エルフじゃないお前が読んじゃまずい本なんだからさ。そんな騙しみたいなことして、シュレーを裏切るなよ。卑怯だぞ」

 面罵すると、シェルはうっと怯んだような顔をした。

「でも、シュレーはスィグルに読ませるなとは言いませんでした」

「そんなこと、いちいち言うかよ。お前を信用してたんだろ」

 シェルは、うううっ、という顔をした。初めから本人も分かっていただろうが、シェルは知識欲に勝てない性分なのだ。

 この山エルフ族の学院で、あるいは宮廷で、ずっと昔にどんなことが起きたか、そんな今の自分たちには、これっぽっちも関係のない些細な知識を得るために、友達の好意を裏切ろうというシェルの気持ちは、イルスには理解しがたかった。

「でも……でも、山エルフ族は正史を秘密にしているんです。僕の部族と、ここの人たちは、大昔にはひとつの部族だったらしいのに、いったいどこで分かれたのか、知りたくないですか。森から来たんだったら、彼らの守護生物(トゥラシェ)はどこに行ったんでしょう。気になりますよね?」

「ぜんぜん気にならねえ」

 イルスは正直に答えた。気になるのは、シェルの裏切りをシュレーが知ったら、どうなるかという事のほうだ。

 シェルはイルスの返事があまりにも意外だったのか、口をぱくぱくさせて驚いている。

「お前さ、飯の時にシュレーに白状して謝れ。それから写したやつは、ぜんぶ燃やせ」

「いやですっ。イルスお願いだから黙っててください!!」

「俺があいつに告げ口したりするかよ……」

 あっというまに涙目になるシェルに弱って、イルスは腕組みした。

 イルスは自分からシュレーにご注進するつもりは、さらさらなかった。シュレーの身になれば、このての話を他人の口から教えられるほど、いやなことはない。

「お前が自分で話せよ」

「そんなぁ……。イルスなら分かってくれると思ったのに」

 なにを分かれというのか、さっぱり分からない。

 スィグルもスィグルだとイルスは思った。そんなこと、シェルに頼まれた時点で断ればいいのに。

「飯行くぞ」

 髪をかき上げながら、イルスはシェルを促した。

 シェルは未練がましく本に抱きついて、いやいやと首を振った。

「僕は今日はお腹がすいてないので行きません。イルスだけ行ってください。絶対にシュレーには黙っておいてくださいね。もしバレたら、僕、禁帯出書庫の鍵をとられちゃうから」

 それどころか図書館自体に出入り禁止だろう。

 シュレーは自分の顔をつぶしたシェルを絶対に許さないだろうから。

「あんまり、あいつを怒らせんなよ。しょうもないことで簡単に怒るやつなんだからさ。お前とスィグルと二人がかりで毎日毎日向かっ腹立てさせられたら、あいつも参っちゃうよ」

「そんなのシュレーの勝手です。僕らは普通にしてるのに、シュレーが勝手に怒っているんです!」

 今日は朝からオムレツがうまかったらしく、けっこう機嫌が良かったのに。

 知らぬが花だ。

 イルスは少し後ろめたかったが、スフレ・オムレツの効用が続くかぎりは、あえてシュレーのご機嫌をそこねるような事はしないでおこうと思った。夕食でなにか、さらにシュレーの厨房の美学を満たすようなものが、ひと皿ふた皿作れたら、もっといいのだが。

 そればっかりは、運しだいだった。

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