第7話

 用心して扉を開けると、薄暗い廊下には、何だか良く分からないものが、こまごまと散らかっていた。うっかり踏みつけると足を怪我してしまう。

 イルスは自分の部屋で靴を履くのが嫌いだった。師匠の庵にいたころは、すぐそばに砂浜が迫っていたし、近隣の者たちも、靴を履いて出かけるのは、それなりの遠出をするときだけだった。

 ここには砂浜はないが、自分の部屋にいるときぐらいは、イルスは好きな格好をしていたかった。

 見慣れた姿を求めて、居間へ入っていくと、いつもの長椅子にスィグルがだらしなく寝そべって、巻物に描かれた極彩色の絵物語に見入っていた。

「おかえり」

 足音がしたわけでもないだろうに、スィグルはこちらの姿を見もせずに、ぽつりと挨拶した。

「三回しか使えないんだよ、イルス」

 訳を知ったようなことを、スィグルは言った。

 金のランプはもうただのランプで、魔法は使えない。

 別にそれでよかった。いつもと変わらないのが一番だ。

「お前、ちょっとは部屋を片付けろよ」

 暖炉のそばの椅子に腰掛けて、イルスがつぶやくと、スィグルが低い声で笑った。

「明日でいい? いまちょっと吐きそうだから」

 目を向けると、スィグルが眺めている絵物語は、創生神話を描いたものだった。

 竜が抱くふたつの卵から、様々な種族が生まれ、第四大陸(ル・フォア)を満たそうとしていた。天使たちは、それを牧した。スィグルは絵の中のブラン・アムリネスを見ていた。

「猊下はなんか言ってた?」

 スィグルは返事がかえるのを期待しているような声で、訊ねてきた。

 イルスは炎を見下ろし、少し考えてから答えた。

「お前もときどき肉を食えってさ」

「ふぅん……」

 スィグルは興味なさそうに相づちを打った。

「今夜のあの料理さ、あれはなんの肉だったの」

「猪だろ。あいつの得意料理だよ」

「そうか」

 絵巻物に埋もれて、スィグルは重たい息を吐いていた。

 大きすぎる獲物をまるのみした蛇が、苦しんでいるような姿だった。

「美味しいような気がしたよ」

 うめくように感想を述べて、椅子からずり落ち、スィグルは執事に用意させたらしい飲み水を、小卓からとって飲んだ。

「僕の言ったとおりだったろ?」

 浴びるように大量の水を飲み、スィグルはぜえぜえと苦しそうな息をしたが、こちらを見たスィグルの顔は、蒼白なまま笑っていた。

「なにがだ」

「いっしょに住むなら、僕がいちばんマシってこと」

 イルスは答えようとして、口を開いたまま、しばらく黙っていた。

 スィグルの言うとおりのような気もした。

「ひとりで住めるようになる魔法って、ないのか?」

「ひとりで暖炉の火と話すのかい? 耐えられないだろ、そんなの」

 ありえないというように、スィグルは笑って手を振った。

「イルスはさ、僕の部屋を片付けるためにいるんだよ。そのほうがずっと気楽だろ?」

 薄明かりに照らされた居間を見て、イルスはそこに散らかった物の多さにうんざりとした。

 確かにそうだ。ここには片付けるものなら、いくらでもある。片付けても片付けても湧いてくるように、仕事が増える。なにも考える暇がない。自分の本音なんて。

 乾いた髪をふりほどいて、イルスは立ち上がった。まだ微かに湿り気の残った髪の芯から、羊皮紙を焼いたような臭いがかすかに漏れ出た。

「どうしたの」

 長椅子にもたれて、だらしなく床に座り込んでいるスィグルが、通りすがるイルスを見上げた。

「掃除するんだ」

 答えると、スィグルはいかにも楽しそうに、ふっふっふと笑い声をたてた。

 いつもと変わらないその声は、イルスの耳にひどく心地が良かった。


【おわり】

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カルテット番外編「魔法のランプ」 椎堂かおる @zero

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