第6話 あやかし

心の底に存在する、忘れてしまった記憶。そして大事な名前。

沼の底に沈んでいく。自分を感じながら。映像が心に現れた……


木のてっぺんは風が思ったより強く吹いていた。

空には星が見えて、もう少しで登り始める月の光が、山と山の間から漏れている。


いつのまにか僕は右手に黒い物を丸めて握っていた。

 森の一番高い木に登り、黒い物を空中に広げると、それはみるみる大きくなって、たくさんの羽を抱いた翼になった。

「これで、本当に空へ飛べるの?」

 隣の男の子が答える……男の子? 誰だ?

「おまえが、飛べると思えばな」

「思わなかったら?」

「さあ、そんな事は考えたこともない」


 僕を不思議そうに見る男の子。姿は、古いデザインで教科書で見る昭和初期のもの。髪と瞳は深い緑の色だった。

「鳥は空を飛べるかなんて考えているか? 魚は海で泳げると考えるか?」

「それは動物の話しだろ? 人間は頭が良いから恐れたり、結果を予想したりするんだ」

 僕の言葉に、不思議そうな顔をした男の子が質問した。

「知恵があるという人間は……例えばおまえの母親。おまえを産む時に、産めるかどうかなんて考えていたか? おまえは忘れている、幼い時に見た事、そして感じた驚き、安らぎ、あたたかさ、あやかし……全てを忘れている。恐れるな。世界に産まれる出る事に比べれば、空を飛ぶことなどなんでもない」


 液体のような風が吹いた。

 僕の全身を包み込む。


 まるでプールの中に服を着たまま飛び込んだような感覚。

 でも、服が濡れたり髪の毛が濡れたりはしなかった。

 翼は風を含み空へと飛び上る意思を見せた。

 今まで感じた事のない高揚感がこみ上げてくる。


「空への想い」


 一歩。踏み出した瞬間、心が空へと向かった僕は、大きな羽に抱かれ、一気に上昇を始める。

 登り始めた月の光を浴びて、銀色に輝く翼は、風と僕の想いを受けさらに高く舞い上がる。

 眼下には森や田畑、駆け抜ける風と重なり自由に飛び続ける。


 こんな感触は今まで味わった事が無い。いや、前にあった。確かあったはず。

 不思議な男の子の声が聞こえた。

「おれの名はカイト。覚えておくがいい」

 大きく頷くと髪は夜風に流れて……身体ごと風を切って飛び続ける。 



底なしの沼は動きが取れないそして冷たかった。

どんどん身体はいうこと聞かなくなる。息も続かなくなった。

少しは泳げるはず、でも人口のプールと自然の沼は全然違っていた。

身体が重くなり、緩やかに感じ始める沼の水の感触。

意識が薄くなった僕の身体は沈んでいく。


「僕は……溺れて死ぬのか」

 死なんてずっと先のことだと思っていた。


 考えた事も無かった。

 自然は僕に穏やかな居心地を与えてくれていた場所。


 だが奇妙な時間が重なり、廃屋に閉じ込められ、見知らぬ女の子に連れてこられて……でももういいか……水の底は穏やで夏の曇りの無い空のように蒼い。ずっと上に揺らめく光が見える。


「あれが水面……かぁ……とぉ……い」

 ほんの数メートルの高さが、木のてっぺんで見た高い空に感じられた。

「空……男の子の名前……は」

 意識がなくなる、最後に思い出した不思議な男の子。その名前は……

「カイト……言って……た」

 その名前を口にした瞬間、自分のポケットに生まれる感触。

 最後の力で手を伸ばし触る、ポケットの中身……黒い翼。

「やっぱりあったんだ……僕は持っていたんだ」


 突然身体を揺さぶる大きな流れ……沼の中は澄み切り、僕の四方はどこまでも続く無限の蒼い空間となった。見えない深い沼底から、僕に大きな気泡が当たる。


「はぁあああ」気泡の中で空気を吸い込む僕。身体に力が戻る。


 そして聞こえた水中を揺らす音。何かが近づいてくる、それはとても大きい……。


 身体が激しく揺れる、水底から一気に近づいてきた者はあまりに大きく、何者なのか把握出来ない、ただ身体の一部、金色の目が僕に向かって笑ったように見えた。水底から溢れるたくさんの気泡は、僕の身体を包み蒼い水の中を、まるで空を駆け上るように持ち上げ浮上させた。



「夢?」

 目が覚めた僕の目には、久しぶりに訪れた同窓会、飲みすぎた後に、眠りに落ちた小さなホテルの天上が見えていた。

グッショリと濡れた僕の寝間着と、心臓の鼓動が思い起こさせてくれた。

あやかしを。

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