冬眠

@scheme

冬眠

冬になると、男は深い眠りにつく。

冬といっても季節のことではない。

それは心の冬である。

語るべきものが語れないとき、学ぶべきものが学べないとき、作るべきものが作れないとき、男は決まって眠りにつく。


夢の世界は唐突であり、だけど必然であるから心地がよい。

男は見たこともない部屋で、到底買えそうにもないソファに座り、奇妙な液体を飲んでくつろいでいた。

巨大なテレビを眺めていると、不意に画面が砂嵐へと変わる。空が落ちたのだ。

こうなっては仕方がない。娯楽もいまいち覇気がない。夢の自宅も、案外つまらないものだ。

とうとう諦めた男は、生きるに足る金銭を持って街に出ることにした。


翼の生えたヒト──いわゆる天使である──が、あちらこちらを飛び回る風景は不穏だ。

しかし思い出せ、ここは夢であり、だから男は何の困惑もなく道を歩いていた。

この道は砂漠の真ん中を突っ切って、街へと続いている。

多分、一日じゃたどり着けないだろう。途方も無い道のりに、男は目眩がしそうであった。


一時間ほど歩いても、やはり一面の砂である。

きっと夜には冷え込むだろう。だけど今はギザギザの太陽光線に息も絶え絶えである。

男が家を出たことを後悔し始めたところで、酷薄な天使が後ろから声をかける。

「今、やっぱり帰ろうかな、なんて思わなかったか」

図星である。息を飲む。急に寒くなったような錯覚。

「のんきなもんだな。予想出来なかったわけでもあるまいに、現実を見て怖気づいたのか?

 そうやって、何一つやり遂げることのないまま、どっち付かずで死んでいく人生がお望みか?」

男は汗をだらだらと流し、振り向くことも出来ない。カラカラの喉で咳き込むように言う。

「い、いや、そんなことは思っていない! そもそも家に帰って、それでどうするって言うんだ!

 テレビもつかない、本を読むのも面倒くさい。寝るのだって、僕には怖いんだ……」

「ならば、何故家から出た? 面倒くさいし、怖いことばかりじゃないか。

 結局お前の行動は何一つとして整合的じゃない。

 お前はただ目の前の現実から逃げたいだけだ、違うか?」

「それは……」

答えられない。


冬になると、男は深い眠りにつく。

冬といっても季節のことではない。

それは心の冬である。

語るべきものが語れないとき、学ぶべきものが学べないとき、作るべきものが作れないとき、男は決まって眠りにつく。


夢の世界は唐突であり、だけど必然であるから心地がよい。

今、男はビルから飛び降りている最中にあって、さっそく飛び降りたことを後悔していた。

なぜならこんなにも怖い! 風を浴びる感覚、強烈な重力、そしてもはや回避不能な死!

男は情けなく神に祈る。

「おお、神よ。情け深い神よ。どうか愚かな私をお救いください」

そして、時は止まる。


男は、真っ逆さまのまま空中で止まっていた。

世界の色が反転している。時計の音が聞こえる。

理屈はわからないが、この現象が「神」であることを男は理解していた。

故にひたすらに祈る。ひたすらに祈る。すると、声が聴こえる。

──救われたいか、と。

「ああ、救われたい、何もかもがつらい、どうにかしてくれ

 こんなにも優しくない世界を、許せるくらいに優しくなりたい」

神は言う。ならば死ね、と。

耳鳴りがして、色は再び反転する。地面に吸い込まれていく。太陽に重なるように、天使の影が見える。

そして、男はただの肉の塊になった。


「死は眠りと似ていると思うんだ」

「いいや、逆だよ。死は目覚めだ」

「じゃあ、生きている間は夢を見ているとでも?」

「そう。僕らが見ているものは、結局のところ、全部夢に過ぎないんだ」

「だったら、僕らは何のために生きているの?」

「いい夢を見るためさ」


気がつくと、男は砂漠の真ん中に突っ立っていた。不快な笑顔で天使が見ている。

「なあ、何をしていたんだ。白昼夢なんか見て、なにか救われたか」

そうか、今のは白昼夢だったのか、と男は思う。ムカつく顔した天使を殴り、また歩き始める。


体力が尽き、道端に座り込んだところで、またさっきの天使が声をかける。

「なあ、お前。こんなことを続けていて楽しいか」

「つまらないよ。だけど楽しまなきゃしょうがないじゃないか」

「……ならば、もっと自分を騙すことだな」

そして、いつの間にか天使は消えていた。


いつの間にか太陽は沈んでいて、代わりに月が輝いていた。

満天の星! 都会のくすんだ空とは全く違う。

だけど、どうしてだろうか。落ちてきたはずの空がよく見える。

大体、何故都会の空を知っているのか。こんな砂漠の近くに住んでいて、都会の空など見たこともないはずだ。

そもそも「空」が落ちるって、なんだ?

突けば湧き出す矛盾に、男はいよいよ認めざるを得なくなった。

ここは、夢だ。それも、随分出来の悪い夢。

そもそも綻びのない夢なんてあるだろうか。そんなものがあれば、どれだけ美しいことだろう。

そのとき、男は落下する感覚を覚えた。


はっ、と息を吸い込んで、男は目を覚ました。

辺りを見渡す。ここは東京のワンルーム。

昼から寝始めて、もう夜になっている。空はくすんで星なんて見えない。

こんなに昼寝して、今日は朝まで眠れないだろう。音楽を作って時間を潰そうと考えているようだ。

明日の用事に間に合うかどうか。寝坊の危険で満ち溢れている。

だけど、どうやらいつもより明るい曲を作る気でいるようだ。

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