第6章

翌日から潤一郎は川田とともに、取引先へ同行した。川田は営業用の車を運転しながら、これから行く店はとてもいい店だと潤一郎に話して聞かせた。潤一郎は、川田が窮屈そうに大きな体を丸くして運転席に座っているのを見ると、自分まで窮屈な空間にいるように思えてならなかった。

 到着したのは立派な木造建築の古風な老舗の料亭だった。駐車場に小さな庭があり、片隅に天然石灯籠がある。きっと夜になると仄明かりが灯るのだろう。その石灯籠の足元には苔がしっとりと生えていた。その庭は奥行きがあり、表玄関へ導いてくれるようだ。道筋には飛石が連なっており、その周りには敷石が敷かれている。風情のある庭が心を和ませる。両脇には念入りに手入れをされた紅葉や松の木が青々と茂っている。潤一郎はその庭をよく見てみたかったが、庭とは反対にある垣根に囲われた裏口に案内されたので川田に着いていった。垣根の先には上品な竹扉があり、その引き戸を開けると広いスペースがあり、雑多に積まれた空き瓶のケースや、野菜の入ったダンボールがある。隅にはホースのついた手洗い場やゴミ捨て場がある。飲食店のバックヤード的な場所だった。そして中央に料亭の勝手口のドアがある。川田は引き戸をくぐり、奥のドアに向かう。ドアを開けると厨房につながっていた。


 厨房には料理長の佐伯新治がいた。年齢は五〇代前半だろうか。肌は黒く額には長年料理と向き合ってきた老練なしわをもっていた。漁師の太陽にあたり潮を浴びた固い皮膚のように、厚く頑丈そうな皮膚をもっている。東京の料理人の繊細な肌と日に焼けない白い清潔な腕とは違い、佐伯の腕はたくましく筋肉が筋だっていて太い腕だ。

「ここは伊豆でも屈指の名店で、どれも絶品ですよ。僕もよく家族で祝いごとや法事で使わせてもらっています」

川田は言った。

ちょうど仕込みを終えた佐伯が川田と潤一郎のもとへやってきた。

「あぁ川田くんご苦労さん。新入りかね」

「ええ。こちら岡崎くんです。今日はご挨拶に参りました」

「岡崎潤一郎と申します。配属されたばかりです。どうぞよろしくお願い致します」

「うちは食材にこだわっていてね。僕が山菜をとりに山へ入ったり、市場でせりをして仕入れをしている。飯野フーズの社長とは長い付き合いがあって、そちらを通して漁協から仕入れたりすることもあるんだ。彼は顔が利くからね。普通じゃ買えないものが手に入る。和食はだしが重要だろう、飯野さんで卸しているかつお節は、伊豆の老舗のかつお工場が特別にうちみたいな料亭で使ってほしいってことで作ってくれているんだよ」

そういいながら鍋から掬った一匙のだし汁を渡された。みりんを薄めたような色をして透き通っている。

川田はそのだし汁を一口すすると満面の笑みになり、

「旨い!」

と瞳を輝かせた。

「いやぁ〜美味いなあ美味いなあ」

と川田は何度も言った。

「ほら君も」

潤一郎は佐伯に差し出された匙で、一杯のだしを掬うとゆっくりと口元へ近づけて啜った。 

口へ含むと、めまいがするほどの旨味が広がった。濃厚なだしのまろやかさと爽やかな口当たり。鼻に抜けるかつおの芳しい香り。ほのかな甘味と旨味が体中に染み渡った。

潤一郎は言葉にできない感動に打たれていた。目頭に熱いものが込み上げ、ふと真奈美の味噌汁を思い出した。それとはちがう、でも同じぬくもりが岡崎を包み込んだのである。思えば潤一郎は真奈美を失ってから、手料理を食べていなかった。

 佐伯は黙ってうなずき、この青年の率直な反応に好感を持った。そしてこのときわずかに潤んだ潤一郎の瞳から青年の抱えた深い傷まで感じ取っていた。佐伯には、愛に飢えた子供がはじめて心を動かした瞬間のように見えた。

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石廊崎 やまゆり🌿 @gamichan

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