第185話  交渉






「──────ッはーッ!?げほっ……けほっ……っ!」




 目が覚める。何が起きたのか全く解らない。目を開けて、思考し始めたということは、今の今まで眠っていたということだ。しかし何故眠っていたのかがイマイチ解らない。解っていない。眠る前まで、一体何があっただろうか。


 床に倒れ伏し、頬を冷たい木製の床につけながらぼんやりと考える。考えて、頭がしっかりと稼働してくると、眠る前に起きたことを思い出し始めた。そうだ。自身は船に乗った。普通の方法では乗れないから、潜んで船の中に侵入し、適当な部屋に入って身を隠していたのだ。


 そうしていたら、誰かが来て……自身を見つけた。見つけられてしまった。あまり他者を傷つけたくないから、仕方なく気絶させようとしたら体が動かなくなって、純黒を身に纏う奴が手にし雷を帯電させて近づいてきて、それから……。




「──────驚いた。確実に死ぬだろう威力の雷を流し込んでやったつもりだったんだが、まさか意識を取り戻すとは」


「──────ッ!?ッぶぐ……っ!?げほっ……」


「殺したと思ったが、獣人はしぶといのだな。それとも無駄に頑丈なのか?どちらでも構わないが、死ななかった事は誇って良いと思うぞ」


「ふーっ……ふーっ……げほっ」




 血を吐き出す。全身に流れた高圧の純黒な雷が内臓にまでダメージを与えたらしい。致命的ではないものの、今の襤褸の人物の体調状況では致命的と言っても良いのかも知れない。食べ物も満足に食べられていないことから栄養失調で免疫力が低下している。水分不足で脱水症状だってある。


 栄養が摂れてないから体力が落ちている。そこへ加えて内臓にまで達するダメージである。襤褸の意識は朦朧としている。折角気を確かに持っているというのに、再び意識を暗転させてしまいそうだ。倒れて横を向いていた顔を前に向ける。視線の先には純黒のローブの裾と、しなやかで美麗な脚。


 声でも解ったが女だった。それに、今は見上げる力も無いので見えないが、3匹の使い魔が居た。抵抗する力すら無くなってしまったが、抵抗したところで気絶する前と同じように一瞬でやられることだろう。次、あの雷を少しでも食らえば、自身が死ぬことは察せられた。


 意識が霞んできて、目も光を失おうとしている。本当にこれで最後だろう。いや、最期と言った方が良い。ここまで頑張ってきたが、あと少しだったのに力尽きるのは実に悔しいものだ。でも、ここまで頑張れたのだから良い方の筈だ。そう思わないと、嗚咽を漏らしながら死んでしまいそうで嫌なのだ。


 全てを諦めて、訪れようとしている死を潔く受け入れようとした時、霞む視界に何かが映った。ことり……と、何かが置かれた。最初は何か判らなかったが、少しずつ霞んだ視界が元に戻っていき、置かれた物の正体が把握できた。それはパンだった。何の変哲もないただのパン。そこらの店でも可もなく不可もなくという味で売っているようなものだ。


 ただし、焼きたてのように微かな熱を感じた。離れていても感じるのだから、直で持てばきっと温かいだろう。パンのこんがり焼けた生地と、塗られたバターの匂いが胃を刺激する。口内に大量の唾液を分泌させて、一も二もなく襤褸の人物は即座に手を伸ばし、温かなパンを口に付けて齧り付いて頬張った。




「はぐっ……っ……ぐすっ……あむっ……うっ……うぅっ……はぐっ……ひっく……ぉ……い…しい……っ……ぁたた……かぃ……っ」


「その体で先の雷を受けきり、生きていたからな。特別に見逃してやる。だがその後に死なれても面白くない。それは餞別だ。精々味わって食うといい」


「ひっく……おいし……ずずっ……あり……が……とうっ」


「殺されかけた癖に礼とは……さては頭が働いていないな?まあ、その身形なら満足に飯を食えていないのは解るが」




 齧ったパンは、死の淵から脱するほどの美味さを持っていた。何の変哲もないただのパン。しかし襤褸の人物からしてみれば、そのパンはまさに生命の源。消えかけた命の灯火を再び燃え上がらせるに事足りる、素晴らしい食べ物で、最高に美味いパンだった。


 弱っていて1度に食べられる量は少ないが、それでも懸命に顎を動かしてパンを食べた。勝手に涙が溢れ出てくる。干涸らびるのではと思えてしまうくらい大粒の涙が頬を伝い、顎先に集まって雫として床に落として染みを作った。


 倒れ伏したままパンを頬張っているが、頬張る事に夢中だった。ゴミ箱を漁って食べていた、鼠の食いかけやカビの生えたパンではなく、本当に焼き上がって店頭に並べられた物をすぐさま買ったように感じるもので、美味しくて美味しくて仕方なかった。


 それを上から見下ろしているオリヴィアは怪訝な顔をしていた。そんなに泣くほど美味いか?と。それに今先程殺されかけた癖に、パンを与えられたことに対して礼を言うことにも。きっと栄養が頭に行き届いておらず、正常な判断が出来ていないのだろうと思っているが、襤褸の人物からしてみれば礼を言っても足りないくらいの施しだった。




「後は自分でどうにかするんだな。西の大陸へは何日間の船上の旅になるかは知らんが、空腹で死んでも潜り込んだお前の自己責任だ。甘んじて受け入れるが良い」


「ぁ……待っげほっ……待って……くれ」


「うん?舌足らずとはいえ、もう喋れるのか。獣人の生命力の賜物か?」


「取引……を……してほしいっ」


「取引ィ……?何も持っていないお前が、何を差し出して何を得ようとすると?どうやら完全に頭をやられているらしい」


「確かに……今の私は……何も持っていない……けど!西の大陸へ渡り……家に帰れれば……あなたの望むものを……差し出そうっ!」


「そうか。では、その取引で釣れる魚が網に掛かるのを待っているといい」


「……ッ!?お願いだ……っ!お願い……します……っ。助けて……ぐすっ……助けて……ください……」




 オリヴィアは一切掛け合おうとしなかった。目の前の見窄らしい獣人が野垂れ死のうが何だろうが、全く興味が無いからだ。確かに初めてじっくりと見る獣人ではあるが、西の大陸に付けば良く目にするとナイリィヌから教えてもらっている。つまり獣人の彼女に希少価値など一切無いのだ。助けてやる義理も無い。


 取引を持ち掛けようとしても、応じる気配が一切無いまま踵を返して部屋を出ようとするオリヴィア達に、獣人は焦りながら頭を下げて額を床に擦り付けた。見窄らしい姿で行う土下座は、どこまでも見窄らしい。見ていて可哀想にすら思えてくるものだ。


 でも、獣人の女からしてみれば必死なのだ。ここで帰られてしまえば、もう後が一切無い。帰りたいという想いの元船に乗り込んだが、食料や水のことなど全く考えていなかったのだ。持ち合わせもなく、この部屋には食べられない無機物だけ。だからオリヴィアに帰られると、あとは見つかって捕まるか、空腹による栄養失調で死ぬかしかないのだ。


 土下座をしながら、あまりにも惨めな自分と生へしがみ付く必死さから涙が流れる。ぽつぽつと落ちる涙に、口から漏れる嗚咽。それを見ても別に何とも思わないオリヴィアとリュウデリア達だが、一体何を差し出してくるのか少し興味を持ったので、話を少し聞いてみることにした。




「では、取引内容は何だ。お前は何を求め、何を差し出す?」


「も、求めるのは……西の大陸に着くまでの……食料と水。対価は……金を──────」


「金は要らん。既にそれなりに持っているし、これ以上あっても特に意味は無い」


「うぐっ……で、では……その……武器とかを……」


「既存の物よりも魔力で造った方が切れるし、長さの調整も効く。なまくらは要らん」


「……っ。何か……他に何か……っ」


「提示できるものは無いようだな。残りの船旅を楽しむといい」


「……っ!!料理っ……それに酒や……えっと……魔導書も……何でも……何でも差し出すから……だからっ」


「……ほう。その料理や酒は美味いのか?魔導書があるということは、他にも本があるという意味で捉えても問題ないな?」


「そ、そうだ!西の大陸にも……美味しい料理は……山とあるっ。それに本も……読み切れないほど……あるっ!」


「お前がそれをどうやって差し出すかは知らんが、良いだろう。お前には山ほどの料理と酒、魔導書を含めた本を私に差し出せ。そうすれば、西の大陸へ渡るまでの飯と水をくれてやろう」


「分かった……っ!その条件を呑む……っ!」


「──────交渉成立だな。吐いた唾は飲み込めんし、飲み込ませんからな。交渉内容を反故にした場合、その安い命で償うといい」




 ここに、神と獣人による交渉が成立した。獣人は生へ手を伸ばすために食料と水を求め、神はそれらを与える代わりに多くのものを貰い受けることとなった。やっぱりあの時のことは取り消したい、そんなこと言っていないは通じないし、通じる相手でもないので、それを言えば最後、無惨に殺されることだろう。


 交渉が成立したことにより、オリヴィア達から食べるものが与えられる。上に魔法陣が展開され、次々とパンやらハムやらソーセージやらが降ってくるのだ。それも焼かれていて出来上がっているものばかり。獣人の彼女は天の恵みだと言わんばかりに両手を広げ、食べ物を受け入れた。





















「──────ぷはぁっ……ありがとう。本当にありがとう。助かった」


「交渉したからな。それで、お前の名は」


「あぁ、自己紹介が遅れて申し訳なかった。私はツァカル。ジャッカルの獣人だ。よろしく頼むよ」


「私はオリヴィアだ」




 内臓にダメージを受けていて、弱りきっていたというのに、与えられた食べ物を残さず全て食べた襤褸を被った女の獣人……ツァカルは頭を下げてオリヴィアに礼を言った。リュウデリアが教えたとおり、彼女はジャッカルの獣人であった。


 生命力が人よりも強いのか、舌足らずで途切れ途切れだった口調が元の状態に戻っていた。窶れた顔や体はそのままだが、光には生気が戻っている。そんな彼女からはやはり臭いがキツいので、オリヴィアが魔法を発動している……と見せてリュウデリアが魔法陣を展開し、ツァカルの頭から足先まで透過させた。


 汚れもある程度落とされて、強烈な臭いが無くなる。風を生み出したクレアが部屋の中の空気を部屋の外に押し出し、廊下を通らせて外に出した。これで部屋の中に充満していた臭いが消えて、リュウデリア達の呼吸がしやすくなった。


 臭いが無くなったツァカルだが、彼女は長い間あの臭いと一緒だったので鼻が慣れてしまい、部屋の中に強烈な臭いが無いことに気がついていなかったが、オリヴィアが何かしたのだろうなということは解った。


 念の為に買っておいた予備のコップを取り出して水を入れてツァカルに差し出す。食後の水で口の中を潤すと、彼女はまた頭を下げてこれでもかと感謝の言葉を伝えてきた。自覚できるくらい死の淵に立っていたのだろう。オリヴィアに攻撃されたのは、自分から攻撃したことが原因なので文句は言えないので、理解しているつもりだった。




「気になったが、私達が居た南の大陸では獣人は居ないだろう。昔に起きた戦争やら何やらで受け入れ難いと聞いた。ならば何故、お前はこっちに居た?」


「……私は家出をしたんだ。少し面倒な家の事情で嫌気が差したのが始まりで、当てもなく彷徨っているところで船を見つけた。全く知らない場所へ行くという怖さがあったが、当時はそんなことよりも家に帰る方が嫌だったんだ。それが災いして忍び込んでみたところ、南の大陸へ行ってしまった」


「まさか大陸を渡ることになるとは思いもしなかったが、新天地として降りたと?」


「あぁ。なんと考え知らずなのかと、今でこそ思う。お陰で獣人を受け入れていない南の大陸では食料確保も儘ならなくなり、貧困の限りを尽くした。最初こそ魔物や野生の動物を狩って食べていたんだが、獲れる量も減って体力が落ちて……それを繰り返して今のザマになったという訳なんだ」


「つまり自業自得だな」


「ははは……本当にそうだな……自業自得だ。自身のアホさ加減には笑いすら出ない」




 苦労してきた今までを思い出しているのか、遠い目をしていた。涙はもう流れない。南の大陸へ渡り、心細かった時などには小さくなって泣いたものだが、今ではもう泣くことすらできない。自身のした選択の果てに訪れた苦難だったので、泣いても仕方ないと割りきっていたのだ。


 それでも、理不尽だと思ったのはやはり、例の通り魔の話だろうか。何もしていないのに、強いて言えばゴミ箱を漁っていただけなのに住民を襲って殺したと糾弾され、追いかけ回され、果てには魔法や武器で攻撃された。人なんて傷つけていないと誓えるのに、そう訴えても聞く耳を持ってくれなかった。


 港町から離れようとも考えたが、外に行って魔物に襲われれば、逃げ切れるか解らない。人の足からなら逃げ切れるが、魔物ともなると少し違ってくるだろう。それにゴミを漁って漸くどうにか生きていられているのに、それさえ無くなったら餓え死にするしかなくなってしまう。故に港町から出られなかった。船があと少しでやって来るので、タイミングを逃したくないということもあるが。


 港町の事を思い返すと良い記憶は無いが、オリヴィアに助けられるのはこれで2度目だということに気がつき、急いでまた頭を下げた。2度に渡り命を救ってくれたオリヴィアに、ツァカルは尊敬に似たものを瞳に宿して見つめ、ニヘラと笑った。






 何でいきなりお礼を言って頭を下げたかと思えば笑っているんだ?と、オリヴィアはツァカルの行動の意味が解らず訝しげにしていた。








 ──────────────────



 ツァカル


 襤褸を着たジャッカルの獣人の女。死ぬ一歩手前までいったが、どうにか交渉をして食べ物と水を与えてもらい、一命を取り留めた。生命力が獣人でも強い方だったのが幸いした。


 南の大陸へ来てしまったのは、家出をして適当な船に乗ったのが原因。南の大陸では獣人は受け入れられていないと教えられていたが、大丈夫だろうと高を括って降りてみたところ、迫害とは言わなくとも、全く相手にしてもらえなかった。





 龍ズ


 ツァカルが臭くて本当に嫌だった。オリヴィアが交渉した内容で別に構わないと思ったので黙っていた。魔法で綺麗にして部屋の臭いを外に放ったのは自分達のため。そうしないと、臭いの原因であるツァカルを消し飛ばしそうになったから。





 オリヴィア


 ツァカルを助けてやったのは、与えたものよりも多大なリターンを得るためだけ。可哀想なんて微塵も思っていないし、死んだら死んだで適当に船員に報告してやろうとしか考えていなかった。


 取り敢えず、ツァカルに求めるのは大量の料理に酒。そして魔導書を含めた本の数々。大陸が違えば本の内容も違ってくるだろうと思ったから。つまりリュウデリアのため。




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