第97話 許可
懐かしい気配がする。前までは自身の近くにあるのが当然だったもののような気配だ。突如として奪われてしまい、取り戻すために汚名を被ってまで手を伸ばす理由。それが近くにある。
ぼやけたような視界の中、無我夢中で手を伸ばす。その気配があると思われる方向に。右へ左へと、手探りで探し当てようと必死になった。無くしたくないから。またずっと傍にあってほしいから。だから……。
『──────ティハネ』
「母……さん?」
『ティハネ。私の可愛い娘。私はあなたが無事なら良いのよ。無理しないで。元気にしてらっしゃい』
「そんなっ……母さんも一緒に行こう!私が必ず借金も全て返して、母さんを奴隷から救い出してみせるッ!!」
『大丈夫よ。私は……大丈夫……だから──────』
「母さん……?母さん……っ!!母さんっ!!」
声が聞こえる。大切な母親の声が。ぼやけた視界ではしっかりとした形の輪郭を捉えることはできないが、声のする方向には慣れ親しんだ母親の姿がぼんやりと映っている。しかしそれは少しずつ遠くなっていってしまう。
何故か感覚の無い脚を前へ前へと動かしているが、開いていく距離を縮めることはできない。こちらに向かって両手を差し出しているのが何となくわかる。だからその腕の中に飛び込みたくて進むのに進めないのだ。
奴隷に落ちた母親を、自力では救うことができない。最早自身とパーティーを組んでくれる探索者は居ない。だから足掻いているのに、まだまだ遠い。ティハネは己の無力さに苛まれながら、母親を呼んだ。
「──────母さんっ!!ぶっ……っ!?」
「ん?起きたか」
「え……?わ、私は……ぶはっ……っ!?」
ティハネは目を覚ました。今まで眠っていたようで、上半身を勢い良く起こした。前に見えるのは土の壁。見渡してもそれ以外には見えない。するとそこへ、何の掛け声も無しに大量の水を被せられた。相当な量だったのに意識していなかったので少し飲んでしまった。
しかもその後、オリヴィアを視界に収めたかと思えば、手に持った純黒の色をしたバケツの中身を正面からぶちまけられた。中に入っていたのは水だったようで、髪も体もびしょ濡れだった。ぽたぽたと前髪の先から雫が落ちていくのを眺めていると、思ったよりも肌寒いことに気が付いた。
視線を下に下げると、あったのは傷だらけの肌色。着ていた服は一切無く、生まれたままの姿だった。一糸纏わぬ裸体を晒していることを理解すると、顔を赤くして大事な部分を腕で隠した。胸は右腕で、股は左手でどうにか。まあ最も、気絶している間に全て見えてしまっていた訳なのだが。
「何で私は裸に──────ぶべっ!?」
「んー。あと3回くらいは掛けておくか」
「も、もう大丈夫だ!というよりも何故私は水を掛けられぶふっ!?」
「汗やら尿やらの臭いがして敵わん。率直に言ってお前はものすごく臭い」
「そ、そこまではっきり言わなくても……ぶふっ!?」
「……もう掛けるのが面倒になってきた。リュウちゃん。滝のように大量の水を頭から掛けてやれ」
「えっ……ま、待っごぼぼぼぼぼぼぼぼぼ……っ!?」
水責めとか拷問か何かだろうか。そんなことが頭を
どれだけの水をどれだけの時間掛けられていた事だろうか。考える事を放棄し始めた頃になってようやっと水の勢いが止まり、自由になった。石鹸などで洗った訳でもないので清潔感は出て来ないが、何もしないよりはマシだろう。少なくともある程度の汚れは落とせた。
魔法での創られた水により、再び全身ずぶ濡れになったティハネは大事な部分を隠す気力もなく、全裸で呆然とその場に座った。うつ伏せから解放されて座り込むティハネに、オリヴィアが近付いて服を投げて寄越した。脱がされていた服である。
「あ、ありがとう……。だが、できれば拭くものとかを……」
「贅沢を言うな。服が濡れるのが嫌ならば自然乾燥でもさせていろ」
「……我慢するか……」
服は濡れていなかったが、全裸でいるわけにもいかないので渋々着ることにした。水が服を張り付かせて着るのに苦労したが、どうにか着ることができた。しっかりと着付けても下着が見えてしまうのは、損傷が多い所為だと納得してそのままにする。どうせオリヴィアは同性なのだからと。
それよりもと、ティハネはチラリとオリヴィアの方を見た。腕を胸の前で組んで、爪先で地面をコツコツと打ち合わせている。如何にも不機嫌だと言っているようなものだ。心なしか肩に乗っている使い魔の視線も冷たい気がする。
「それで?」
「え?」
「……はぁ。何故扉の前に1人で居た?あの魔物はどこから引っ掛けてきた」
「あ、あぁ……あそこに行けば、あなたに会えると思って形振り構わず走って抜けてきたんだ。幸い道は地図に書いてあるからな。だが途中で地図を落として、追いかけてきた魔物を引き連れる羽目になり、結局あそこで逃げ回っていたんだ」
「私が来るまでずっとか?阿呆かお前は。他の探索者とパーティーを組んで地道に来れば良いものを。私が近い内に来る保証は無かったろうに」
「だから賭けだったんだ。来てくれたならばどうにかなる。間に合わなければ死ぬ」
「何の為のパーティーだ」
「それは……」
「ふん……──────『骸剥ぎ』」
「──────っ!!」
肩が跳ねて反応した。オリヴィアの口から出てきた単語は、最近言われるようになってしまった汚名である。周囲の探索者の間ではすっかり定着してしまった不名誉な二つ名。だが実際のところはその通りである。言い逃れできない名前なのだ。
何故、その単語のことを知っているのか……と、問おうと思ったが少し考えれば自然と解ってしまう。自身がどうにか金を得ようとしている事は探索者達が知っている。ならばダンジョン攻略で得られる報酬に目をつけると思うのは当然。そして単独で、それも1日で十何階層攻略した者が現れれば警告でも何でもするだろう。
そんな諦観に似た感情を持った事が瞳にも表れたようで、黙り込んだティハネに察してオリヴィアが何故知っているのかを話し始めた。
きっかけは、今日ダンジョンに向かう途中、大通りを歩いていた時だった。国の外行きで身なりを整えた男が話し掛けてきたのだ。探索者をしている者だが、同じく探索者をしているティハネという女には気をつけろと。それに何故かと返せば、奴は『骸剥ぎ』のティハネと呼ばれていることを教えてくれた。
更に詳しく聞くと、『骸剥ぎ』と呼ばれるようになったのは、ティハネとパーティーを組んだ者がダンジョン内で死に、身につけていた筈のいくつかの装備が剥がされていた事に起因する。死んだとしたら、所属している探索者ギルドが一旦預かる決まりとなっており、殉職した者に家族が居る場合、預けられた物が渡されるのだ。
それが無いということは、近くに居た誰かが剥ぎ取ったということであり、事実ティハネは剥ぎ取った持ち物を売却していた。その事の繰り返しをしていれば、必ず誰かが気づく。それにより疑いが確信に変わっていって、誰もティハネと組む者は居なくなった。組めば偶然を装って殺され、剥ぎ取られる事になるから。
今ティハネが捕まっていないのは、その殺したという証拠を掴んでいない為だ。剥ぎ取られているのも防具や武器といった分かりやすいものではなく、個数がいくつかあって無くなっても注意しないと気づかないものだからだ。小さな魔道具や回復薬といったものだ。
「お前は、仮に私とダンジョンを攻略した後、適当に殺して攻略報酬を全て奪い取り、尚且つ私の持ち物も売り捌くつもりだったのか?」
「そんなことはしない!確かに死んでしまった探索者の小物はいくらか売るような真似はしてしまったが、そこまでの事はしない!」
「信用ならんな」
「そんな……」
「それだけの事をしていたんだ。信じてもらえると、本気で思っていた訳ではあるまい?」
「…っ……っ!」
「お前を襲っていた魔物は全て私が殺した。後は接敵しないよう登ってダンジョンを出るんだな」
「──────っ!!」
パーティーを組んでくれた探索者の事を実際のところ直接は殺していない。後ろから不意打ちで殺そうとは何度も思ったが、人をその手に直接掛けたらそれこそ終わりだと自覚して、直接殺してはいないが、戦闘になれば死ぬだろう魔物のところへは誘い込んでいた。
B級探索者ではあるが、実力はAでもやっていけるほどのモノを持っているので、気配で大きく強い魔物を察知して、どうにかその方向へパーティーを誘い込むのだ。疑いが掛けられて自身の言うことを信じてもらえなくなれば、居ない方を示せば自ずと警戒して逆の方向へ歩みを進める。そういった手を使ってきた。
直接殺してはいないが、間接的に殺している。限りなく黒に近いグレーの行為を繰り返し、父親に持ち逃げされたとはいえ、短期間で100万Gという金を貯め込んだ。全ては目的のため。最早直接手に掛けること以外ならば何でもするという意気込みだった。
故にオリヴィアに拒否されるのも当然だ。殺されることはまずないと考えても、そんな奴と一緒に居たいとは思わない。というよりも、そもそもリュウデリアと2人っきりでダンジョン攻略をしたいので、ティハネは邪魔でしかないのだ。
自身を連れて行くつもりは毛頭無い。それが解ってしまうくらい軽い足取りで隣を抜け、ダンジョンの先へ向かおうとするオリヴィアを見て、どうにかして縋らないと無理だと判断し、ティハネはその場で額を地面に擦り付けて頭を下げた。
「頼むっ!私を連れて行ってくれ!自力で行くから魔物に襲われても助太刀しなくていい!命以外なら何でも差し出すからっ……頼むっ!!」
「連れて行ったら常に前か後ろを警戒していなければならないのだが?それにお前は何の役にも立たないしな」
「…っ……何か不審な行動をしたら殺してもいい!進む道に意見を一切口にしない!数歩分離れたところにも居よう!邪魔はしない!」
「ダンジョン攻略した際の報酬が半分になってしまうのだが?見つけて回収した物品の金もだ」
「そ、それは……」
「……ふん。もういい。扉の前まで自力で、それも1人で来た根性と阿呆さ加減に免じて連れて行ってやる。ただし。私の意に反した行いをすればその場で殺す。目障りなことをしても殺す。言っておくが、私は本気で殺すからな。脅しなんかではない。殺して、発生した魔物の餌にする。パーティー申請をギルドに通していないから元々ソロとなっている私には、何の疑いも掛けられないからな。……金がそこまで欲しい訳でもないし。何より勝手についてきそうだしな」
「……………………。」
「──────っ!!わかった!それでいい!ありがとう……っ!本当にありがとうっ!あなたに対するこの恩は絶対に忘れ──────」
「喧しい。黙れ」
「……っ」
不機嫌そうに、ふんッと振り返ってダンジョンの奥へ進んで行くオリヴィアの後を、機嫌を窺うようにそっとついていく。黙れと言われてしまったので、口を手で覆いながら懸命に何度も頷く。もしそれでも話してうるさくしていれば殺されていたのは、肩に乗っている使い魔からの魔力で十分伝わっていた。
自身の魔力もそこらの者達と比べれば相当に多いと自負していたのだが、オリヴィアの使い魔にすら負けているともなると、彼女との魔力差及び実力差は隔絶とした壁を設けられているのだろうと思う。
一時は置いて行かれそうになったが、連れて行ってもらえるようになったので、ティハネは10歩分の距離を離しながら小さくガッツポーズをした。金も恐らく半分分けてもらえる。そうすれば取り敢えず母親を奴隷から解放するだけの金は集まる。残りの借金は、返済日までに何とか用意して、返済能力があるのだと示して少し待ってもらえばいい。
それにもしかしたら、『最深未踏』には未だ見ぬすごい品が眠っている可能性すらもある。それを売ったときに得られる金をほんの少しでも分けてもらえれば、大分借金の返済に当てられる。そこはもうオリヴィアに頼み込むしかないが、きっとやりきってみせると気合いを入れた。
「そういえば、お前の武器は刃毀れしていて使い物にならないと思うが、どうやって戦うつもりだ?」
「いざとなれば素手で戦う。もしくは魔物が持っている武器を奪ってでも戦う。だからあなたは私のことを気にしなくていい。ついて行かせてくれればそれだけで十分なんだ」
「ほう……?
「……?」
オリヴィアがどこか含みのある言い方をして、クスクスと笑った。まるで何が起きるのな分かっているかのような物言いに、何だか少し嫌な予感を感じながら、ごくりと喉を鳴らして後をついていく。
空中で紙とペンが独りでに動いてマッピングしているところを見て驚いたりしながら、ティハネは軽くなった肩にホッとしている。だが彼女はまだ重要なことに気が付いていない。
このあと、オリヴィアが言っていたことを大いに理解して、大いに自身の発言に後悔することとなるとは、この時は知りもしなかったのだ。
──────────────────
ティハネ
『骸剥ぎ』の不名誉な異名で呼ばれている美しい女性の探索者。今回どうにかしてオリヴィアの同行を許してもらえた。邪魔をしたりすると殺されるので、10歩後をついて歩いている。
『骸剥ぎ』と呼ばれるようになった由来は、彼女とパーティーを組むと彼女を残して全滅してしまい、持っている小物などを剥ぎ取られて売られてしまうから。
直接手を下せば心が押し潰されてしまうので、魔物に任せた間接的な殺人を行っていた。腕は確かなので他の者達が全滅しても、彼女だけが生きてその場をやり過ごすことができる。
臭いと言われて結構ショックだった。
オリヴィア
ティハネの諦めない心と、根性に少し思うものがあったので、今回特別について行って良いと許可を出した。ただし、意に反した行動や不審なことをすれば即座にその場で殺す。躊躇いはない。
パーティー申請をギルドで行っていないので、現時点でオリヴィアとティハネはソロ同士が一緒に行動しているだけという扱い。なのでティハネが死んだとしても疑われる心配がないので余裕で殺せる。それに死体は魔物に食わせて証拠隠滅するか、魔法で跡形もなく消し飛ばす。
リュウデリア
なるほど、連れて行くのかと思っていた。仮に殺しに来てもあくびをするように簡単に殺せるので問題はないと考えている。けど、人間大のサイズになって技を試したりすることができないという欠点に思うところはある。まあオリヴィアが決めたことなので反対はしないが。
マッピングは通常通りやっているが、ティハネがその事に驚いて観察している事に気がついている。はッ、見て観察したところでお前程度の人間にはできんわ。と頭の中で罵倒している。実際とんでもない魔力操作技術が必要なのでできない。
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