第87話 嫌な臭いがしません?

 護衛する隊商がオルレーヌの関所に着いたのはその日の午後、まだお日様が天に輝いている時間帯でした。

 正式な認可を受けた隊商であり、認識票があるにも拘らず、日が落ちて、夜の帳が下り、辺りが宵闇色に染められても関の外に留め置かれたままなのです。

 保存食による簡素な夕食も終わり、慣れない馬車の旅で長時間揺られ、疲れているニールとオーカスをアンが寝かしつけています。

 私もレオと仮眠を取るべきなのですけど、それどころではないようですわね。


「ねぇ。嫌な臭いがしません?」

「あまり、感じないけど……何か、いるの?」

「ええ。最初から嫌な臭いがしていたのですけど、どんどん増えていますわ。もう完全に囲まれていたとしたら、どうされるおつもりかしら?」


 レオにやや強引に肩を抱かれ、自然と彼にしな垂れかかってしまい、無意識のうちに上目遣いでレオを見つめていました。

 彼の瞳には焦りや怯えの色はなく、むしろ好奇心と闘争心が入り混じった紅蓮の炎でメラメラと燃えているようにすら見えますわ。

 この目に弱いのです。

 見つめられると何でもしたくなるのはなぜでしょう。

 レオは見つめられたら……何でもしてくれるのかしら?


「狙いは僕らではないってことかな。面白くなってきた」


 そうよね。

 レオはそういう子ですわね。

 より強い相手と戦いたいと楽しむ性格なのを忘れてましたわ。

 私と彼が初めて、会ったのも戦場でしたし、第一印象は最悪でしたのよ?


「狙いはあの大きな荷物だと思うのですけど」

「アレか。アレは確かに怪しいね」


 本当に大きいですものね。

 あのサイズで連想されるのはドラゴンなどの大型魔獣の死体くらいではないかしら?

 それにしては腐敗臭もしなければ、その類の魔力も感じません。

 一体、何があの幌の下に隠されているのか、気になりますわね。


 そう。

 もう一つの気に掛かっていることが頭をよぎったのです。

 隊商を率いるオレル商会の会頭オレク・オレルの娘タチアナ。

 薄い栗色の髪と白く透けるような肌で年は確か、十四歳だったかしら?

 その割に細くて折れそうな身体で儚げな印象を受ける子なのよね。

 常にどことなく揺れるような鳶色の瞳は彼女の置かれている状況があまり、幸福ではないことを示唆しています。

 この三日間で彼女のことをターニャと愛称で呼べる程に距離を縮めることが出来たのですが、不思議に思うことがあるのです。

 彼女の持つ魔力が人としては異常な程に高いのです。

 一言で言えば、とても危うい存在。

 目を離してはいけないと言ってもいいですわね。


「仕掛けてきそうかな」

「そのようですわね」


 向こうは待ってくれないようです。

 むしろ、『わざと待たせていた』が正解かしら?

 包囲するのに時間稼ぎをしていたのでしょう。

 寝ぼけ眼を擦って、まだ半分寝ているニールに元の姿に戻り、アンとオーカスを連れて、上空で不可視インビジブルを保ち、待っているように伝えます。

 不可視インビジブルはニールに触れている者にも効果を及ぼすので上空にいる限りは安全なはずです。

 『マーマは行かないの?』と心配そうに顔を歪めるニールの不安を消したくて、そっと抱き締めてから、送り出しました。

 これでいいのです。

 私とレオなら、問題ないのですわ。

 わざとこの場に残るんですもの。


 🔥 🔥 🔥


 空が闇色に彩られるのを合図とするかのように火の手が上がり、森の中から異形の集団が姿を現した。

 高さはゆうに五メートルを超え、大型の魔物として知られるオーガやトロールより一回りは大きい。

 全身が金属質の外骨格を思わせる硬質な物質で覆われており、人のように直立し、二本の足で歩行しているもののやや背が曲がっているせいか、猫背気味の体形になっている。

 頭部には赤く輝く単眼が周囲を窺うように動いており、それが目の役割を果たしているのだろう。

 その数、およそ二十数体。

 あるモノは成人男性と同じくらいの大きさをした長剣を手にしており、あるモノは本体と管状の部品で連結された長い筒を手にしていた。

 長筒の先からはチョロチョロと舌のように炎が顔を見せていることから、この武器が炎を生み出し、隊商を焼き尽くそうとしているのは明らかだった。

 逃げ惑う人々に容赦なく火炎が放射され、怒号と悲鳴が入り混じった絶望の声が響き渡る。

 炎の蹂躙から逃れた者も大きな刃の餌食となり、肉の焼け焦げた匂いと血の臭いが立ち込めていた。


「お父さん! 早く逃げないと」


 父オレクのいる天幕に足を踏み入れたタチアナはひゅっと息を飲んで固まった。

 オレクは椅子に腰掛けているが顔に血の気が無く、青褪めている。

 その身体には何本かの矢が突き刺さり、痛々しい。

 脇腹も大きく赤く染め上げられており、何かで身体を貫かれ、致命傷になったのだということが知識の無いタチアナにも分かった。


「……行け……これ…………を……着ろ……お前があ…………」


 オレクの血塗れの指先が指し示すのは濃い紫色で染められた服だ。

 体を覆う生地が少なく、手と足も完全に露出する奇妙なデザインをしており、一見すると少々、過激なデザインの水着のようにしか、見えない。


「え? わ、わたしには無理よ。お父さん、早く一緒に……」

「お前なら出来……お前し…………」

「お父さん?」


 オレクの瞳から光が失われ、最後の力を振り絞り、ようやく上げられていた腕が役目を終えたかのようにだらりと垂れ下がった。


「いやあああああああああ」


 頭を抱えて蹲るタチアナだったがひとしきり、喚いたことで何かが吹っ切れたのか、糸の切れた人形のようにふらっと立ち上がった。

 父が今際の際に伝えた言葉に従い、着ていた服を全て、脱ぎ捨てた。

 一糸纏わぬ姿になると水着(仮)を手に取り、身に付けていく。

 その双眸からは止め処なく、涙が零れ落ちていくが彼女は一切、気に留めない。

 やがて、涙を拭ったタチアナは大きな溜息を吐くと燃え始めた天幕を後にするのだった。

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