第45話 背中に爪を立ててしまいましたの

 朝から、レオに求められるなんて思ってもいませんでした。

 それが嬉しくて、とても幸せですわ。

 肉体的にはまだ、痛みが伴いますから、辛さの方が勝っているのですけど。

 互いに想いだけが先走っていて、きちんと出来ません。

 焦る必要はないのに心だけでなく体でも繋がりたいと思ってしまう。


「お嬢さま、急に爪の手入れなんて、どうされたんです?」

「え、ええ? 何となくですわ」


 朝とお昼を兼ねた食事会を終え、各自夕食まで自由に過ごしていいことになったのです。

 珍しく持てた自由時間ですから、アンに爪の手入れを頼みました。

 アンは手先が器用で髪もいつもきれいに手入れしてくれます。

 それもほぼ独学で学んだものですから、すごいですわ。

 前世ではお洒落に気を遣っていなかったと自嘲するように言ってましたもの。


「怪しいですねぇ。何か、ありました?」

「どうして、分かりましたの?」

「お嬢さまは意外と分かりやすいんですよ」


 アンに隠し事をするのは無理ですわね。

 正直に打ち明けることにしましょう。

 下手に隠し立てするよりも一緒に考えてもらう方がいいですもの。


「そうでしたの? 実はレオの……背中に爪を立ててしまいましたの」

「あっ、あぁ。そういうことですかぁ。お嬢さま、無理に求めに応じなくてもいいんですよ? 殿下は優しい方なんだから、分かっていただけるのでは?」

「それは……確かにそうなのですけど」

「お嬢さまには無理ですよね。しょうがないですねぇ」


 経験が無いのはアンも同じなのにちょっと思案するだけで察するのね。

 いわゆる恋愛物はアンの方がよく読んでいるせいかしら?

 でも、こればかりはどうにも出来ないのですわ。

 止められないのです。

 私もレオも。


「はい、お嬢さま。出来ましたよ」


 さすが、アン。

 爪やすりで形を整えてくれただけではなく、赤い花を絞り生成された赤のマニキュアが色素が薄い髪や肌に合うようでコントラストがとても美しいですわ。

 これで爪がきれいになりましたし、レオに痛い思いをさせなくて済みますわ。


「ありがとう、アン」

「お嬢さまのお世話するのがあたしの幸せですからぁ」


 爪の手入れが終わったのに手を握ったまま、放してくれません。

 そんな上気したように頬を桜色に染めて、見つめてくるのはなぜかしら?


「わちしもそれ、やってー」


 そんな空気を吹き飛ばすかのようにテーブルの下から、元気な声とともに急に現れたのはニールでした。

 現れた場所が正確には私のスカートの中でしたから、不思議で仕方がないのですけども。

 小さな子供なら、十分に隠れられるほど裾が長いスカートとはいえ、本当にそこに隠れられるものかしら?

 幼い頃、私は体に合わない魔力と流れ込む膨大な記憶のせいでかなり我が儘できつい性格でしたから、このように可愛らしい仕草をした覚えがありません。

 もしも、あのまま成長していたら、アンが言うとやらになっていたのかもしれないですわ。


「あのお嬢さま……爪尖らせて、どうするんですかっ!」


 ニールの小さな手を取って、慣れない爪の手入れをしたのですけど会心の出来だと思うのです。

 ところがアンが微妙に怒っているのです。

 どうしたのかしら?


「爪は戦う為のものでしょう? ニールには身を守れるようにありとあらゆる力を与えましたの。ですから、爪もより鋭くて……え?」

「ええ。色々と間違ってますよねぇ」


 アンはこめかみを押さえ、しかめっ面と言わないまでも苦い表情をしております。

 どうやら、何か間違えたようですわ。


「お嬢さまは大人しく、座って待っていてください」

「ええ……」


 仕方ありませんわね。

 盛り上がる場面まであと少しというところまで読み進めていたロマンス小説の続きを読むことにしましょう。


 🦊 🦊 🦊


 このところ、夜はしっかり働いているせいか、朝からずっと寝たままのオーカスをの起床係をアンに任せ、バノジェでとる最後の夕食にふさわしい、いいものがないかと探しに出ることにしました。

 ちょっとした探検のようで楽しみですわ。


「レオは何をしてましたの?」

「うん? 僕はほら、夕食の為に町をぶらりとしてたんだ。そういうリーナこそ、何してたの?」


 様々な店が軒を連ね、色とりどりの看板に彩られた目抜き通りをゆっくりと散策します。

 通りを行きかう人々は種々雑多。

 ほぼ人間しか見かけない帝都に比べ、獣人やゴブリンの商人が露店を出しているこの風景がいかに自由なものか、良く分かりますわ。


 レオと指を絡め合い、手を繋いだまま、往来を歩くのは久しぶりのことでしたから、ついついはしゃいでしまう自分がちょっと恥ずかしいわね。


「アンに爪の手入れをしてもらいましたの」


 レオに見せようと思って、今更のように気付きました。

 左手はレオと手を繋いでいて、右手はニールと手を繋いでいるのですから、不可能ですわ。


「ですから、もうレオに怪我させるようなことはありませんのよ?」

「じゃあ、もう少し、無理しても平気かな?」

「しょ、しょりぇは……駄目でしゅ」


 私としたことが噛むとか、ありえませんわ。

 レオはくつくつと笑っていますけど、噛んだことに笑っているというより、私の反応が面白かっただけなのでしょう。

 普段はこのような失態、見せたりしませんもの。


「お嬢さま、殿下。あのお店なんて、どうです?」


 オーカスの手を引き、後ろを歩いていたアンが赤で塗装された大きな板に金色の文字で”焼肉 牛郭”と書かれた派手な看板を指差しています。

 焼肉?

 まさか、あの焼肉ですの?


「焼肉屋さんもありましたのね」

「ロースターとか、あるのかな」


 レオ、そういう問題ではないですわ。

 こんなにも焼肉屋さん然としている焼肉屋さんはあちらの世界の知識がなければ、ありえませんもの。


「原理としては炎の魔法を応用した魔道具で製作出来そうですけど、それで焼肉屋さんを始めるという発想が生まれないと思いますの」

「だよね。バノジェってさ。ちょっと多すぎるんじゃないかな?」

「恐らく、件の邪教(混沌の神の一柱を崇める深き者ディープワンを中心とした異端の教団の教え)のせいではないかしら? あの教団、異世界から勇者を召喚したかったようですもの」

「そうなんだ。今は珍しい物を食べられるし、感謝しておこうかな」


 レオがこちらに戻ってこれたのはその勇者召喚がきっかけなのですから、何とも因果な話ですわね。

 それよりも気になるのはレオとアンの視線が焼肉屋さんから、離れないところかしら?

 どうやら、今夜の夕食は焼肉に決まりそうですわ。

 白身魚のムニエルのようにあっさりとしたものが食べたかったのですけど、焼肉屋さんにあっさりとしたメニューって、あるのかしら?

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