第9話 彼のいない世界

 あれから、春海さんが屋上に来ることはなくなった。僕は毎日あの場所に通いつめるけれど、空っぽのコンクリートだけ確認して家に帰る。

 彼が出てくることもなくなった。嫌なことがあっても、僕一人でその痛みを請け負った。彼の苦しみを知った気になれたけれど、特段悔やむこともなかった。そんなことよりも一日を独占できる喜びの方が大きかった。

 友達もできた。ヤマダ君とタナカ君。ヤマダ君は少し太ってて、目尻に黒子がある。タナカ君は痩せてて、上の歯が少し出っ歯。僕らはいつも三人で家に帰って、ランドセルだけ置いて、近くの公園とかゲームセンターで遊んだ。

 ヤマダ君がアラタ君と仲が良かったこともあって、アラタ君からのちょっかいも少なくなった。

 

 最高の日々だった。僕は独りじゃなくなって、嫌な目で見られることもなくなった。けれどもやっぱり僕の心の奥には、どこか暗い何かが広がっている。


    ◆◇◆◇◆◇◆◇


 ある日の夜のことだった。夕食を食べるとお母さんが話を切り出した。


「長老様がね、そろそろ戻ってきてもいいんじゃないかって」


 ここ数日、お母さんは笑顔が多かったけれど、その中でも特段の微笑みだった。


「『排斥者』じゃなくなるってこと? 」


 僕は訊いた。


「そうよ。また集会に行けるの。皆にも会えるし、楽園にも行けるの」


「そうなんだ」


 正直僕は、集会も楽園も興味がなかった。僕には僕の友達がいるし、楽園だって行けたって行けなくたって今はどっちでもいい。ただ、それでお母さんが喜ぶんだったら———


「戻ろうかな」


 一拍置いて僕は答えた。

 お母さんは喜ぶ、というよりもホッとした顔だった。そして僕を抱きしめて「ありがとう」と言った。僕は少し誇らしげな顔をしていたと思う。


    ◆◇◆◇◆◇◆◇


 久しぶりの集会への道は、雨のせいで少し濡れていた。さっきの土砂降りが今も続いていたら、大変だったかも。そんなことを思いながら、水溜りを避ける。

 僕は想像以上に普段通りの心持ちだった。普段通りすぎて、この道も酷く退屈に思える。

 お母さんは他の「姉妹」と一緒に向かうから、話し相手もいない。だけど帰りはお母さんと外で食べる予定がある。それだけが楽しみだった。


 家と集会のちょうど間にある自然公園。いつもは真っ直ぐ通り抜けるけれど、今日は少し散策をする。

 本当は早く着くべきなんだろうけど、早く着いても暇だろうし、お母さんも「姉妹」につきっきりだろうから、ここで時間を潰す。

 自然公園の内にある並木のいくつかは葉に黄色がかって、秋の匂いがした。落ち着いた、しんとした香りだった。

 僕は並木を通る。心が安らぐ。あまりここに来たことは少ないはずだけど、屋上の時のような既視感があった。

 もしかしたら、ここも彼の場所だったのかもしれない。そう思うと少し嫌な気になって、道端の銀杏を踏む。

 銀杏はくしゃっと潰れて、中から汁が溢れた。臭いが鼻の奥を刺激する。それが何だか楽しくて辺りの銀杏を潰してまわった。潰す、潰す、潰す。彼のいる世界を壊しているようだった。


 そうしているうちに僕は公園の端の方まで来ていた。木の茂みが濃くなって、銀杏は少ない。時計を見ると集会の二十分前になっていた。

 そろそろ行こう。そう思った矢先、視界の隅に一人の女性を捉えた。

 女性は、春海さんだった。

 

 


 

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