第4話 僕がいなければ

「僕のこれは、治るんですか」


 週に一度のカウンセリングの日、僕は香苗先生に訊いた。「躾」が今後も続くのか知りたかった。

 香苗先生は、少し気まずい表情でゆっくりと言う。


「……あのね、あまり言いにくいことなんだけど、カナタ君のものは、まだ医療的にしっかりと判明してなくて、勿論、治った例もあることにはあるんだけど……」


 香苗先生は言い淀んだ。その素振りが僕の予測をはっきりとさせる。

 ああ、そうか、僕はずっとこの「サタン」と付き合っていくんだ。僕は、多分、「重度」だ。一日に一回は彼が顔を出す。それが一生続いて、僕は彼に夜を渡したまま、死んでいくんだ。


「ありがとうございます。先生。僕は、もう、大丈夫です」


 出来る限り笑顔で僕は返した。それがお世話になった先生のせめてもの礼だと思ってたけれど、先生は涙を目に溜めていた。


    ◆◇◆◇◆◇◆◇


 家から暫く歩いた先のマンションの屋上に僕はいる。病院から真っ直ぐ家に帰らずここまで来た。ここは、屋上の鍵がかかってなくて、人気も少ない。そんな根拠のない覚えがあった。多分、もう一人の僕の記憶だろう。

 フェンスに手をかけると、風が僕の背中を押す。早くしろって急いているみたいだった。フェンスは何処か温かくて、登りやすそう。

 足をフェンスにかけて、より上の方に手を伸ばす。そうして、力を入れてゆっくりと登る。背後から差し込む光は煌々としてて、僕の影法師を生き生きとさせた。

 

 あと少しでフェンスを超える。そしてその先に、僕のすべきことがある。怖いけど、脚がすくむけど、仕方がない。僕がいるから、なら、僕がいなければ———


「何してるの?」


 声がした。太陽の方向から、少女の声だ。

 僕は振り返らない。


「ねぇ、そこで死ぬの、辞めた方がいいよ」


 少女は僕に再び投げかける。でも僕は無視して、先に登る。すると、


「ねぇ、ってば!」


 左足を掴まれた。下へ下へ力が引っ張られる。僕はそれに対抗して、両腕と右足に力を込めたが、地面に向かうそれの方が少し強かった。


「邪魔しないでくれよ!」


 僕は初めて口を聞いた。彼女は答える。


「そこで飛び降りても……死ねないよ。下の茂みがクッションになって、ただの重体……」


 力が抜けるのを感じた。それから、おめおめと下って、僕は彼女の顔を見ず、だらしなく泣く。

 情けなかった。苦しかった。死ぬことすら満足にできない自分を恥じた。でもその裏には、僕を止めてくれた彼女へのどうしようもない安堵もあったと思う。


「貴方、名前は?」


 僕がひとしきり泣いた後、彼女は訊いた。今度は声の向く方にちゃんと顔を向ける。

 息を呑んだ。僕が少女と思った相手は大人びた女性だった。目を惹かれる長い黒髪に、凛とした顔つき、どこか憂うような瞳……どれもが美しかった。そして、彼女は僕と同じ中学の制服を着ている。

 

「僕は、カナタ」


「カナタ、ね。……少しなら話、聞くよ」


 彼女は僕に手を差し伸ばした。その手はガラスみたいに白く輝いている。僕がその手を握ると、柔らかくて暖かい感触が僕の身体をくすぐった。

 

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