転校生、本宮亜紀
本宮邸では、召し使いが忙しそうに歩き回っていた。いつもはとっくに起きているはずなのに、主人の少女はまだ自分の部屋にいるようだった。
「お嬢さま、お嬢さま! そろそろ起きないと、学校に遅刻してしまいますよ」
召使いの長い髪をした男は、部屋の扉をあけた。
彼の中で、亡くなったはずの女主人が目の前に立っているような錯覚を引き起こした。
昔に見た女性がベッドの先に座っている。
「お嬢さま…? 亜紀お嬢さまですか?」
「ええ、そうよ。メア・ルー」
「こんな、どうしていきなり姿が……」
召し使いは動揺していた。目の前で起きるはずのないことが起きていた。昨日まで七歳だった女の子が成長していた。
「早く私に合う服を持ってきて。私、あの人に…お父さまに会いたいの」
「あなたのお父さまなら、今、ロンドンですよ」
いつも通りを装ってメアが言うと、若い主人は首を振った。
「ちがうわ。もうひとりのお父様よ」
あきの言葉にメアは言葉に詰まった。
「何を言い出すんですか……」
「私には分かるのよ、メア」
何が、とメアは聞かなかった。そのかわりに、少女から目を離して、「おくさま」とつぶやいた。
数学の時間、みかるはいつも寝ていることが多い。それが、今日に限っては、まじめにノートに向かっていた。珍しい光景に、蓮が見入っていると、みかるが呪文のようにつぶやいた。
「当たりませんように、当たりませんように」
みかるのノートに書き込まれているのは、埋め尽くすような大量の五芒星だった。
ふいにみかるは、となりの席にいる蓮を見た。
「知ってる、蓮? ノートに星印を書きながら祈ってると当たらないのよ」
みかるは、教師に指名を受けないようにすることに、神経を費やしていたらしい。
蓮はこの時初めてみかるのノートの隅に書かれている星の意味を知った。前にノートを借りた時に、空白という空白に星が埋まっていたのだ。
「それ、効くのか?」
蓮が聞いた。みかるはにんまりと笑った。
「効くわ。これやってると当たったことないのよ」
「ちょっと、そこ~! しゃべってないの。
当てるわよ? 余裕でしょ、大道寺」
教師はみかると蓮に気づいていた。教師の矛先は数学の成績が悪いみかるに向く。
「ええっ?」
みかるの手から教科書が落ちた。
「効かないじゃないか」
床に届く前に教科書を受け止めた蓮が、教科書をみかるの手にもどしながら言った。
「これ、きっと、人に教えちゃだめだったのかも! わーぁ、蓮に教えたせいで効き目がなくなっちゃったわ!」
「何さわいでるの、大道寺!」
泣く泣くみかるは席を立って、数学の問題式を解きに行った。黒板に答えを書き終わり、みかるの答えに教師が意気揚々とぺけ印をつけた。
「不正解! 授業聞いてないねー?」
「……数学は苦手なんですっ」
みかるが精一杯の言い訳をした。
「数学だけじゃないと思うけど」
小学校のときからみかるの通信簿を見てきて、みかるの成績を知り尽くしていた蓮はつぶやいた。
そのとき、目の端で何かが蓮の気を引きとめた。窓の外の、校門の前に車が見えたのだ。その車の色が、一昨日と同じシルバーグレーだったことに蓮は気付いた。
チャイムが鳴って、教師が授業の終わりを告げた。
「昼休み、大道寺は職員室に来なさい」
「え~っ!?」
みかるの情けない声がして、クラスメートの笑い声が上がる。
「どうしたの、蓮」
戻ってきていたみかるが聞いた。
「え? あ、いや、なんでもない」
蓮が答えた。ちょうど車から目をそらしたところだった。
蓮はみかるの付き添いで職員室へ行くことになった。
廊下を歩いているときだった。
男の髪色は黒だった。蓮やみかると同じくらいの少女がとなりにいる。蓮は軽く会釈した。男は蓮に気がつかなかったのか、気がつかないふりをしたのか、ちらりとも蓮を見ずにすれ違った。
数メートル離れたところで、みかるが男を二度も振り返って、蓮の腕をゆすった。
「あの人写真の人じゃないのっ?」
小声でみかるが叫んだ。
「……みたいだな。だけど、あの子は誰だろう?」
「学校の見学に来たって感じね。この学校受けるつもりなのかしら」
「いや、それもそうなんだけど、あの子は俺が一昨日助けた女の子の家族なのかと思って」
「女の子って何歳くらいだったの?」
「小学一年か二年だったかな」
「じゃ、今すれちがった子の妹ね、きっと。妹を助けてくれたんだから、礼くらい言ったらいいのに。あの男の人もあいさつもしないで失礼よ」
もう会わないでくれと本人から言われていたので、それについては蓮は何も考えたくなかった。
「それより、みかる。職員室に行かないと」
「あ、忘れてた!」
みかるが廊下を走り出して、蓮はその後を追った。
その転校生が来たのは、この日のことを忘れかけた日のことだった。
「本宮亜紀です。よろしく」
淡々とした口調で彼女は紹介を終えた。
「あー、本宮さんはイギリスの学校から来たので、分からないこともあるかもしれないが」
補うように担任の先生が言った。
数日前にすれ違った時には気がつかなかったが、彼女はなかなか整った顔立ちをしていた。肩まで伸びた黒髪は、清楚な印象を与えた。スカートの丈は、長くて膝をほとんど覆い隠している。
彼女の姿を見ながら、やはりこの間会ったあきという女の子に似ていると蓮は思った。みかるが言っていたように姉妹なのかもしれない。
転校生は、先生の目が届きやすいようにするためなのか、窓側の列の最前列に席を決められた。
一時間目からみかるの大嫌いな数学だった。みかるは早々と机に突っ伏していた。頭には教科書をのせている。
「寝る気なのか?」
蓮が聞くと、みかるはだるそうにゆっくりと顔だけを蓮にむけた。
「うん。本来、あたしの体内時計では、数学の授業は寝る時間なのよ」
「……また夜遅くまで、ゲームでもやってたんだろ」
「そう。『爆走ランナー』やってたから寝不足なの」
みかるがあくびをまじえながら答えた。
爆走ランナーとはみかるのはまっているテレビゲームのことだ。みかるはこれを一度やりだすと、二時間近くぶっ続けでやってしまうので、何度か蓮が預かってみかるにやらせないようにした過去がある。先週かえしたばかりだったのだが、もう再発していたらしい。
「来週からテストだぞ。ノートだけでとっておけよ」
「うーん……」
この時点で、みかるは半分夢のなかにいる様子だった。
授業が始まって十分もたたないうちに、
教師がみかるを見つけた。
「コラ! 大道寺、寝てんじゃないの! まだ学校にきたばかりでしょ!」
「ほら、起きろみかる。目だけでも開けて寝てろ。マジックでまぶたの上に目を書いてやろうか?」
みかるのひじを揺り動かして、蓮が呼びかけた。
「……う~…」
首をぐらぐらさせながら、みかるは頭を起こした。
みかるが起きたのを見て、教師は目の前の席におとなしく座る転校生に目をうつした。
「ごめんねー。この学校レベルが低くて。本宮さんは、イギリスの有名な大学にいたんでしょ? ちょっと授業ものたりないかもしれないね」
教師の言葉にクラスがざわついた。
「大丈夫です」
本宮亜紀が答えた。
「じゃあ、試しに難しいの解いてもらおうか。ここの子たち、夏休み前でたるんできてるからさ。いい刺激になるだろうし」
そう言って教師は黒板に、蓮たちが見たことのないほど長い式を書いた。
「解ける?」
本宮亜紀は無言で立ち上がると、答えが見えていたかのように手を止めることなく答えを書ききった。
そして、決まっていたかのようなタイミングで教師が「正解!」と言った。
「ほら、大道寺、本宮さんを見習いなさいよ」
蓮のとなりの幼なじみは、むすっとした表情をしていた。今ので眠気も飛んでいったらしい。本宮亜紀が席に着くまで、みかるは彼女の背中に目を据えていた。
「本宮さんて、頭いいんだねー」
転校生に興味を持った女子たちが三人話しかけていた。
本宮亜紀は何も答える気はないようで、立ち上がると、教室から出て行った。
「なにあれ。やな感じねー」
見ていたみかるが、頬杖で顔をつぶしながら言った。
「おまえも見ていていい感じではないけどな。……頬杖やめろよ。顔の骨がゆがむぞ」
「ぷーん」
みかるがそっぽを向いた。頬から手を離すのは忘れずに。
本宮亜紀は、次の休み時間もひとりでぽつんと一人でいた。もはや、誰も彼女に話しかけなくなっていた。英語の授業でも、彼女は完璧な英語を話して、クラスメートとの格の差を見せ付けた。英語の教師が賞賛するたびにクラスが静まりかえるのがなんとも、居心地が悪かった。
昼休みになると、みかると定食を買いに食堂へ行った。蓮は和風ハンバーグセット、
みかるは散々迷った挙句にカツカレー定食にした。
席を探して歩いていると、本宮亜紀が一番隅のテーブルで一人大きな弁当箱を広げているのを見つけた。
みかるも彼女に気づいて、少し離れたテーブルに決めた。
「次、教室の移動よね」
みかるが話しかけたので、蓮は孤立した転校生のことを考えるのを中断した。
「ああ、音楽だっけ。授業十分前には移動しないとな」
授業前十分前になった。食器を片付け終わって連たちはテーブルを離れた。しかし、本宮亜紀は立ち上がる様子がない。次の授業が移動だとは知らないのだ。
「本宮に教えてあげたほうがいいんじゃないのか?」
蓮がみかるに言った。
「いいわよ。ほっておきましょ」
「でも、音楽室がどこにあるかも知らないだろうし」
蓮はみかるが止めるのを聞く前に本宮のテーブルに近づいて行った。
「元宮。次、教室移動で音楽室だから」
「……そう」
転校生は蓮を見て、何を思ったのか、蓮のテーブルについた手に自分の手のひらを重ねようとした。そこに、みかるが割って入った。
「言葉が通じたんでしょうね?」
痛烈に言い放って、みかるが蓮のワイシャツを後ろに引っぱっていった。
「あの子変!」
廊下に出るとみかるが叫んだ。
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