雨の日の出会い
学校からの帰り道にいた蓮は、早足で雨の中を歩いていた。
傘を打つ雨は強い。ローファーの中にも水が染みてきている。
いつも一緒に、帰る同じ高校生の幼なじみは今頃家についていることだろう、と蓮(れん)は思った。
この日というかいつもそうなのだが、女子テニス部のほうが部活が終わるのが早い。
いつも、蓮の男子テニスの練習が終わるまで待っててくれる彼女だが、今日は台風がきてるということで先に帰っててもらった。
とり止めもないことを考えているうちに家から一番近くにある橋にきた。
風が強く、傘が曲がり、進むのもやっとだった。
その時、近くから不吉な音を聞いた。大きな水柱の上がる音。
暗い景色の片隅で、真っ赤なものが飛んだ。小さな子供用の傘だった。この時点で蓮が分かったのは、子供が川に落ちたらしいということだった。
「大丈夫か?!」
蓮は呼びかけたが、雨音で自分の声もよく聞こえない。
大雨で川が氾濫している。かなり危険だった。それでもこのまま通り過ぎて見殺しにはできない。かといって周りには人気が無い。助けを呼ぶ時間でさえ今はおしかった。蓮は心を決めた。
かばんを投げ置くと、川に足を踏み入れた。自分の傘が風に飛ばされていったが蓮は気にしていられなかった。
数歩進んだだけで、蓮の腰に水が浸った。前に進みにくくなる。蓮は手を伸ばした。
女の子のようだった。
蓮は女の子をつかんだ。
小さな女の子ひとりなら引き上げられると思ったが、あまかった。水の重さと水圧で川の中に引きずられる。
「だれか……!」
だれでもいい。
それなのにだれもいない。
水が顔に近い……と、あっというまに蓮の体は水中に沈んだ。
流れに押されて流されるままに流された。
だが、いつのまにか流れが収まった。
閉じた瞼の裏が明るくなってきて、蓮は目を開けた。
そこには、ふしぎな光景が見えた。
女の子の中に光がすいこまれていくように見えたのだ。そして、その光は人間の姿をしていた。長い光の髪がゆれている。女性だ。
水の中であることは知っているはずなのに、蓮はそれを当たり前のように見ていた。
そして、光が消えていくのと共に意識を失った。
「お嬢さま! お嬢さま!」
目が覚めると、蓮は地面に横になって灰色の空を見上げていた。雨は顔へ穏やかに降りそそいでくる。先ほどの暴風雨はどこへやら、雨風はやさしくなり目の端の雲は青空をのぞかせていた。
起き上がると、となりにいた体が身動きした。女の子が目を開けるところだった。
助かったのだ。
蓮の心にあたたかさが戻った。
「どこかにお怪我は」
助けてくれたらしい男が蓮に尋ねた。蓮は礼を言いかけて、驚いた。
若いその男は外人のようだった。ぬれた長い髪の色は灰色に近い銀色をしていた。
体のどこも痛みはないのを確認し、蓮は首を振った。
すると男が目をみひらいた。
「あなたは……」
銀髪の男は考え深げに蓮を見ていた。
「どこかで会いましたか?」
蓮が聞くと、男は目をふせた。そのまつげまで銀色だということに気づいて、蓮はまばたきした。
「……いいえ。すみません、人違いでした」
男は連と女の子を車道に停まっていた車に案内した。
車のトランクからタオルを取り出して、女の子と蓮に手渡した。男はタオルを使わなかった。いつの間にか、髪も乾いていた。
「お嬢さま! どうしてこんなところに来たんです? 心配したんですよ」
女の子の頭をふいてやりながら男が言った。
「めあ、ごめんなさい」
少女が本当に申し訳なさそうに謝った。
「朝顔がしんぱいだったの」
そう言ってから、女の子は、あっ!と声を上げた。
「どうしよう! どこかに朝顔おいてきちゃった!」
「それならここです」
男が後部座席をあけると、そこには、ビニールでおおわれた長細い鉢が置いてあった。
「橋にあったのを見つけたんですよ。これを見つけなければ、ここに来ることはできませんでしたからね。朝顔に感謝しなければなりませんね」
「うん、ありがとう。よかったぁ」
女の子が朝顔の鉢を抱きしめて言った。
「ええ、本当によかったです。一秒でも遅かったら……。とにかく、あまりに帰りが遅いので心配しましたよ。詳しい話は後で聞かせてもらいますからね。さあ、帰りましょう」
男が車の後部座席を開けた。蓮は車に詳しいわけではなかったが、目の前の車が高級車だということはわかった。色は男の髪色に近いシルバーグレーだった。
「あの、ありがとう」
車に乗る前、蓮におずおずと少女が言った。小さくおじぎをすると、逃げるように席に飛び乗った。
「きみも乗りなさい」
男が蓮を見ていた。
「え、でも……」
「体が冷えているのはあなただけではないんですよ。お嬢さまが風邪をひかないうちに早く」
言うべきことを言う義務があるというように、銀髪の男は告げた。
着いたのは、大きな屋敷だった。蓮は、これほど大きな家を見るのは初めてだった。家と呼ぶよりもホテルとよんだほうがしっくりくるかもしれない。
客用のシャワールームがいくつかあるらしく、蓮にもそれを使うように言われた。蓮は本当にホテルに来てるような心地で、なぜ自分がここにいるのか分からなくなった。シャワーを出ると、バスタブにタオルと着替えも用意されていた。ぬれていた制服も元通りに乾かしてたたまれていた。いつ客が来ても持て成せるようになっているようだった。
広くてシックな落ち着けるテーブルのある部屋に通された蓮は、女の子と同じソファに座っていた。
「すごい家だね。本当にここに住んでるの?」
天井につるされたスモーキーブラウンのガラス製シャンデリアを見上げて蓮が聞いた。
「うん、そうよ。わたし、あきっていうの」
「俺は蓮だよ。九条蓮(くじょうれん)」
「あの人は、メア・ルーってなまえ。わたしのおてつだいさんなの」
ちょうど、銀髪の召使いが、ティーセットを運んできたところだった。
「お茶でもしながら話を聴きましょう」
メア・ルーにあたたかい紅茶を入れてもらって一口飲んだあとに、あきはぽつりぽつり話をはじめた。小学校で、夏休みまでに持って帰らないといけない朝顔の鉢をじぶんだけ学校に忘れていたこと。それを、心配して一人で小学校にもどって取りに行ったこと。橋を通る途中で、傘が風に飛ばされて取ろうとして橋から落ちてしまったこと。
「おこらないでね、メア」
「怒りませんよ。あなたが無事だったので」
メアは微笑んだ。それから蓮の方を見た。
「さて。そろそろ車で自宅までお送りします」
「ああ、いえ。そこまでしてもらわなくてもいいです」
「また雨が降り始めています。あなたの傘はどこかへ失くしてしまわれたのでしょう?」
「九条……くん」と、呼び慣れないようにメアが声をかけた。
「じゃあお願いします」
「またきてね」
そう言ったのは、はにかみながら笑うあきだった。
帰りの車では、蓮もメアも終始無言だった。
家の近くの公園の前で車を止めてもらうことにした。
「あの」
車を降りる前に、遠慮がちに蓮が話しかけた。
「……なんですか」
あの、の先を聞きたくもなさそうに長い銀髪の召使いが蓮を見た。蓮も一瞬言うのをやめようかと迷った。
「あのあきっていう女の子のことなんですけど……俺が川に落ちたとき、なんだか変なことがあったんです。うまく言いにくいんですけど、女性の形をした光……いや、光が女性の形をしていて、それがあきに入っていったんです」
蓮の話を聞いていたメアの顔色が変わった。
「そのことについては忘れてください」
「え。でも……」
「あなたには関係のないことです」
メアの瞳は深い蒼色をしていた。どこの国の人なんだろうと蓮が考えていると、彼は蓮の手のひらに紙をはさみこんだ。よく見ると、紙幣だった。
「こ、困ります!」
メアの行動が理解できていないまま、蓮は言った。メアの国の習慣なのかもしれないが、蓮にはチップをもらった経験がない。
「こんなもの、もらえません」
「お嬢さまを助けてくださったお礼です」
返そうとした蓮の手に男が再度紙幣を握らせた。
「お嬢さまは、あのように言っていましたが」
メアの言葉にはため息が混じっていた。
「お嬢さまにもう会わないでいただけますか」
そして、彼は最初から決めていたかのようにこう告げた。
「つまり、ここへは二度と来ないでほしいということです」
返事は待たれなかった。銀髪の男が車のドアを閉めて、走り去る音がした。見ると、車は遠くになっていた。
「なんなんだよ……」
すっきりしない気持ちのまま、蓮は手の内側の紙幣をぐしゃりと潰した。
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