第14話 症状
死んだ父親のことが思い出された。
ベッドの上にチョコンと座り、背筋を伸ばしてしきりに話をしている。誰かに話しかけているのか、時折「そうでしょ」「いやいや、そうじゃなくて」と、聞こえてくる。お客でもいるのかとのぞいてみるが、電気ストーブが赤々と点いているだけだ。しばらく聞き耳を立てていると、一人二役を演じていた。
声をかけようか離れようかと迷っている内に、父親の目にとまってしまい「いいところに来た」と、部屋の中に入るように手招きされた。「実はな…」と小声で耳打ちされたが、突拍子もない内容でとても尋常のこととは思えなかった。
「あの女はな」と、辺りを見回しながら妻のことを話し始めた。「あの女はな、人間じゃないぞ。夕べ見た」と、薄皮をはいだあとに、それはもう恐ろしい顔が出てきたと言う。耳にまで届こうかと思うほどに口が裂けていて、牙すらのぞいていたという。
今すぐ女を追い出すか、それともわしを連れて逃げろと言う。おそらくは今夜あたりにその本性を現すに違いないと、何度も何度も言う。そんな心配はないからと言っても、おまえは騙されているの一点張りで埒があかなかった。すぐにかかりつけの医師の元に連れて行った。
と今度は、わたしへの悪口雑言が始まった。高校時代における父親への反抗を、事細かに披瀝し始めた。身振り手振りを交えての熱弁ぶりに「いい加減にしろよ」と声を荒げてしまったわたしに、外で待つようにとと医師から指示が出た。
十分ほど経ったろうか、医師から声がかかり、思いもかけぬ言葉を聞かされた。
「痴呆の症状が出ていますね。お願いしたいのは‥‥」
医師の言葉が空を舞い、なかなかわたしの元へ降りてこない。必死の思いで医師の言葉をかき集めようとするのだが、どうしても指の間からこぼれ落ちてしまう。
「信じられないでしょうが、現実として受け止めてください。何度も言いますが、嘘を言います。でも、違うとか駄目という言葉は、極力避けてください。混乱するだけですから」
医師に手を握られて「一緒に頑張りましょう」と、肩を叩かれた。
兄嫁との折り合いが悪くなりわたしの元へと引き取って、まだひと月と経っていない。家に着いたとたんに「おまえにはなにもしてやれなかった。長男の妻だからと、わしの世話をしてくれるからと目をかけてやったのに、あの嫁ときたら」と、兄嫁に対して悪口雑言のかぎりを尽くした。そして妻に対して「あんたを実の娘と思うから」と涙ながらに訴えていた父親が不憫でならなかった。しかしそれらが、すでに痴呆の症状だったということになる。
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