第8話 肩もみ

「ご主人さま。麗香をかわいいと思っていただけますか? でしたら、お部屋に入れて下さい。いつまでも玄関先だなんて、麗香、淋しいです」

 肩をすぼめて、軽く嫌々をする。思わず抱きしめたくなる衝動にかられた。そういえば…。別れた妻もこんな仕草をよくしたものだ。

「そ、そうだね。ここは寒い、風邪を惹いちゃうね」

 わたしが言うが早いか、人形は嬉しそうに「じゃ、行きましょ」と、わたしの手を引っ張る。

「麗香ちゃんの手、暖かいね」

「でしょ、でしょ。ご主人さまの心が暖かいと、麗香の手も暖かくなるんです。ご主人さまが良い人で良かった」

 にこやかにほほえみながら、両手でわたしの手を包んでくれた。そうだ、仕事から帰ったわたしの手が寒さで硬くなっている折には、妻がこうやって包んでくれたものだ。そしてそして、その手を妻のセーターの中へと…。

 なぜだ、なぜに別れた妻と同じ行為をこの人形はするのだ。その前に、どうして麗香という名前が付いているのだ。アンケートに書いた覚えはない。なのになのに、なぜこの名前なのだ。

 こたつに座ると同時に「それじゃ、肩もみしますね」と、にこやかな表情のままわたしの肩に手を置く。ゆっくりとした動きでもって、背中全体をなでるようにさすり始めた。じんわりとした手の暖かさが、体に染み込んできた。

「でも、ご主人さまの中に妬みやら怨みなどの負の思いが強くなると、麗香は」

 苦しげな声でそこまで言うと、ポトリと首筋に冷たい物が落ちた。わたしの心の中に負の感情が充満すると、それに人形が反応するということか。そしてそれが悲しくて、人形が泣いてくれたということか。思わず

「大丈夫、大丈夫だよ。麗香ちゃんを悲しませるようなことは、決してないから。今のわたしは、十分に幸せな日々を送っているから」と、人形の手に手を添えた。

「麗香、嬉しいです。それじゃ、頑張りますね」

 驚くほどに気持ちの良い肩もみだった。指がツボに当たるときには強く、外すときには弱く、そして手のひらの丘でもって、ゆっくりと力強く押してくれる。それにしても、肩を揉まれるなど何十年ぶりのことだろう。幼い娘の、戯れごと的な肩揉み以来ではないか? 思わず熱いものがこみ上げてきた。どうにも最近は涙もろくなってしまって仕方がない。

 悲しいニュースはもちろん、嬉しい出来事にも、テレビに向かって「良かったね」と声をかけながら涙してしまう。さらには、絵空事と分かっているドラマや映画にすら、涙することがある。

「高齢になると、涙もろくなるものですよ。うちの親なんかも、しょっちゅう泣いてますよ」。「特にあんたは独り者だからな」とは、周囲からの慰めともとれる言葉だ。

 そういえば、近所の七十を超えた女性に聞いたことがある。元ご亭主が飼っていた老犬の引き取り手がなく、不憫に思われて連れてこられたという。始めのうちこそ面倒だと思っていた犬の世話が、今では生きがいになったと笑っておっしゃられた。朝と夕の二回ほど散歩に連れ出すらしいのだが、そのおかげで知り合いが増えましたよと、嬉しそうに話された。そしてわたしにもお飼いなさいなと勧めようとして、言葉を呑み込まれた。市営住宅ではペット禁止なのだ。

 高齢者には特例として認めるべきよと強い言葉で言われる。なるほどと思う反面、ペット嫌いの者も居る。わたしがそうなのだ。どういうわけか、ペットには嫌われる。人なつこい犬にも吠えられるし、猫に至っては近づくだけで目を大きく見開いて唸られる。

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