第3話 想い出

 その麗香という名前に、甘酸っぱい思い出が蘇ってきた。

 小学五年生の時に転校してきた渡辺麗香という女子児童がいた。彼女が転校してきた日は、朝からどんよりとした曇り空で、窓際は比較的に明るいものの、わたしの座る廊下側の席は薄暗かった。しかし彼女が教室に入るとパッと明るくなった気がした。そして自己紹介しなさいと担任に促されて「渡辺麗香です」と、声を出したとたんに、ほぼ全ての男子児童ーもちろんわたしもだけれどーから大きな歓声が挙がった。俯いてはにかんだ表情を見せる彼女の横顔を見て、なぜかわたしもまた恥ずかしさを感じたことを覚えている。

 教室の壁には掲示物等が、貼られている。時には、課題作品ー習字や作文が貼られたりもする。その中で特に優秀な作品は、学校の玄関口に掲示されたりもする。多分現在もそうだろうと思うけれども。

 今は、先日に行われた写生大会の絵が教室の後ろ壁に、ところ狭しと貼られている。今回の写生大会では、残念なことにわたしのクラスからは優秀作は出なかった。しかし今回の絵に関してだけは、わたし自身密かに期するものがあった。

「見たままを描いても、それだけのことだ。大事なことは、本質をとらえることだ」とは、敬愛する七歳年上の兄の言葉だ。兄の描く絵は、当時のわたしにはさっぱり訳の分からないものだった。ピルと街灯、そしてネオンサインを描いたものだという説明で、灰色とオレンジ、そして赤に青の絵の具が使われていた。しかしそれらのどれもが原形をとどめてはおらず、横殴りの線になつていた。兄から、強い風が吹く中でのことで、右に左にと色が流れていく様を描いたと説明された。そして、今はこういった抽象画が絵画の主流なのだと断じる兄を、畏敬心ををもって見上げたものだ。

 皆が皆、公園に咲く草花やら樹木、そして滑り台やブランコといったものを、その形通りに忠実に描いていた。そんな中わたしだけが、横殴りの線を画用紙いっぱいに引いた。色にしても、空は青色に花は黄色で草は緑色と決まった色を使う中、わたしだけは違っていた。空の色を黄色にしてしまった。

わたしにしてみれば、夕暮れに近づいていく途中の空で、青色から茜色に移りゆく一瞬前の色にしたつもりだったのだが、担任にはその意図が分かるはずもない。得意満面の思いで色を選んだのだが、「うそはだめよ」という担任の言葉に反発しつつも、青色をかぶせた。そして得体の知れない青色やら黄色やら灰色に赤色の横殴りの線が画用紙に飛び交う作品になった。内心では、教室内での掲示、いや玄関口での掲示をと意気込んでいたのだが、どこにもない。

 たまたま隣の席が空いていたことで、席を並べることになった。天使の輪ができる黒髪で、肩まで届く長い髪だった。風が強い日にはかぐわしいバラの香りが、わたしの鼻腔をくすぐったものだ。当時にわたしが住んでいた田舎では固形石けんでの洗髪が主流で、シャンプーなる代物が流通していることすら知らなかった。花の精の化身ではないかと思っていた。〝女子たちが言う花の精って、この子じゃないのか〟そんなことを思ったと記憶している。ひと目で好きになったけれども、あれがわたしにとっての初恋だった。しかしその結末は散々なものだった。

 教科書が揃うまでの十日ほどだったが、教科書を共有するがために机を寄せ合うことになった。そのことから男子児童たちから「おまえ、女くせえぞ!」などとはやし立てられたものだ。それがやっかみだと分かってはいたが、彼女を好きになったと知られてはならぬと突っ慳貪な態度をとってしまった。男子児童たちからのはやし立てがなくとも、案外に冷たい態度やら悪戯を繰り返していたかもしれない。

 机が離れたことを機に「変なにおいで困った」という言葉を投げつけて、女子児童からの大反感を買ってしまった。「ひどい!」と詰られ、「女の敵ね」と、何かにつけて反発を受けた。転校生であることから遠回りに見ていたことも忘れて、「大丈夫よ、あたしたちは味方だから」と、慰めの言葉がかけられた。今思えば、そんなわたしの言動によって彼女は救われたことになる。

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