第5話
堤 聡史は、美佐には何も言うつもりはなかった。あんなに華のような笑顔を自分に見せる女の子に自分はもうすぐ死んでしまうのだと言えるはずもない。かといって、他の女性と結婚をするとか、愛が覚めたなどと言うこともできない。
純真で無垢な恋心を残酷な、一番残酷なやり方で傷付けることだけは避けたかった。自分が脳腫瘍で手術もできないなどと言えるはずもない。
「ねえ、花火。行きましょうよ」
「暑いから嫌だな、人が多いし」
「じゃあ、来年琵琶湖ホテルを予約して!」
美咲は屈託のない笑顔で自分の腕をつかんで離さない。来年はもう自分はこの世にいないだろう。この子を残して死にたくない。美佐が大学を卒業したら、仕事をして大人の女性になれば、いつか結婚しようと言うはずだった。
「そうだな、今から予約すればいいかもしれないな」
聡史は祇園祭りの人混みを避けて、ロイヤルホテルの和食店の座敷を美咲との最後のデートに選んだ。こんなに幸せなのに、こんなに愛しているのに、もう二度と会えないのかと思うと胸が詰まった。七月末には入院する予定だった。信州のホスピスに行くために自分の家は売りに出した。年老いた母は他界して、姉は結婚して東京に住んでいたが病気のことはまだ話していない。
「鮎のお菓子おいしいね」
美佐の一言で聡史は我に返った。
「ああ、良かったら、僕のもあげるよ」
「ねえ、さあ、早く外に行きましょうよ」
紺色に白い百合の柄の浴衣を着こなしている美佐はとてもきれいだ。髪をまとめると、とても大人びて見える。この姿も全部この目に焼き付けておく。腫瘍がどれだけ悪さをしても、美佐のことだけは忘れない。
聡史は信州へ行く時に美佐に別れを告げると決めていた。
自分と言う痕跡を残さないように、手を繋ぎ、肩を抱いてやる。でもそれ以上の思い出は残さない。美佐には自分以外の男と出会い、幸せになって欲しいと思っていた。
かき氷のブルーハワイを食べると舌が蒼くなるね。
二人で笑って食べる氷の冷たさ、これももう最後だ。
美佐、僕のことを忘れて幸せになるんだ、と黒髪に手を伸ばした。美佐は僕の手を取り強く握る。
「次はヨーヨーすくい、しましょう」
生きたい、まだまだこの手を離す訳にはいかないと聡史は思った。
涙が出そうになるほど美佐はかわいい、愛している。こんなにも。
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