第3話
みやびさん……。
「何ぼんやりしてるんだよ、みやびさん。三番」
黒服の健志さんが私の横に来て、私の肩をトントンと中指で軽く叩く。その指には大きな銀色の指輪がある、彼女とペアで購入したものだ。強面の顔に似合わず案外フェミニストなんだからと私はフッと笑った。
昨夜の幸浩とのあれこれを思い出していた、お仕事の最中だったがビジネストークが繰り広げられて愛想笑いをすることにさえ退屈だった。
「失礼します。あとでまた帰ります」
私は思う、いいえ、もう戻りません。今日はこれでさようならです。
三番は私のパトロンの北口充、洛中病院の理事長先生とそのお付き合いのある人たちが三名座って私が来るのを待っている。そのあと十二時までまたたわいのない話をして、北口先生は私を伴い定宿にしているオークランドホテルに直行するのはいつものことだから。
あとの二名の病院のドクターはダミーなのである。
クラブで理事長先生のキープしている酒を飲んで、彼らの愚痴を聞き給料をもっと上げるとか、新薬がどうのこうの、年寄りの外科部長がうざいとか言う話を延々としている。彼らはそれが自分たちの仕事であるかのように上等の酒を飲んで、私以外の先輩ホステス相手にご満悦のご様子だ。支払いは全部北口先生なので、誘われる方もいつものことだと理解している。
北口先生は四十五歳、彼の父親が早くに引退したのでとても若くして理事長になった。それには理由があり、彼の父はアルツハイマー病の疑いがあるからだ。病院関係で病人がいることはできれば伏せたい。箱根の方に別荘があるとのことで、北口先生の父は隠居してしまった。
誰の目をはばかることもない、今まで頭を押さえつけられていた北口充という男はやっと自由になったと、私に話したことがある。彼の妻はできた女ということで、北口充という人物に執着はなくて子供の幼児教育とママ友との付き合いが大変なのだそうだ。
そんなことも、あんなことも私には全く関係がない。だが北口先生は私がこのクラブに入店してまだ慣れないうちから、指名してくれた。それが縁でわたしは北口先生の愛人の一人になった。
好き好んでそんなことをしようとは思わない、元々クラブホステスをすることもなかっただろう。でも、生活のため、芸術にはお金が掛かると流れで話しをすると援助を申し出ると同時に、ママからアフターの誘いがあることを耳打ちされた。
それが何を示しているかなど、驚くほど私は純情な女ではない。その時には大学の先輩で彼氏の幸浩の顔が浮かんだが、それもこれも全部が私であり、幸浩にバレなければ、私という女は何も変わらないはずだと勝手に気持ちの折り合いを付けた。入社して一年の幸浩の月給も知っている私には、迷いも戸惑いもなかった。
「分かってるわね、無理ならこの場で断って。向こうでごねたら困る」
「はい、大丈夫です。ママに恥をかかせるようなことはありません」
「みやびちゃん、あんた」ママは顔色を変えずに言った。
「北口先生なら、いいです。嫌いなタイプじゃありません」
紫に白い百合の柄の和服に身を包んだママは私の顔を見ずに、グラスの水を飲み、いつもの胃薬を口に含んでまっすぐに店を見回して言った。私はママの横で立ったまま、返事をした。ママはまだ若くて三十歳代後半だろうか。
「みやびちゃん、あんたが選り好みする? 生意気よね」
「すみません、ありがたくお受けします。だけで良かったのですね」
私は嫌じゃないということが言いたかっただけなのに、もしかしてママの前の男だったりするのだろうかと気を回した。怒らせてしまったのかも知れない。
「あ、ごめん。言い方きつかったね」
「いいえ。大丈夫です」
慣れている、叔母の家で家政婦のように扱われていたことがあり、涙など枯れてしまった。こんな言葉の一つや二つなどなんということはない。これでお金が動くなら、たとえ殴られても蹴られても平気だと私は思った。
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