第2話 溺れる者は藁をもつかむ


 清楓さやかと男の追いかけっこは続いていた。


 彼女もそろそろ体力の限界だったが、男の方もこのまま走って逃げるのは得策ではないと気づいたようで、複雑なルートで少女をく事にしたのか建築途中のビルの鉄骨の隙間に体を滑り込ませた。ビルの建築現場はほぼ機械化されており、現場自体に人影はないが、監視カメラを見ていた事務所の作業員が侵入者に気付き、慌てて稼働中の機械を止めると続けて不法侵入の通報する。同時にその部屋にいた二人の警備員が飛び出して行った。


 男が建築現場に入った事を少女はしっかりと見届けており、後を追って続けて滑り込む。赤い警報ランプが点灯し、動いていた機械類はすでに停止している。

 薄暗い中でカンカンと鉄筋の仮設階段を駆け上がる足音が、男の位置を知らせてくれる。もう追い詰めたも同然だった。


 怪しい男と女子高生という取り合わせが目立ったおかげで、防犯カメラ映像や目撃情報を頼りにした警察車両の音が近づく。それに続いた工事現場の事務所からの通報で、位置を完全に特定する事が出来ていた。


 階段を登るという愚行を侵した男は疲れて足がもつれ、ついに段差に躓き、転んでバッグを取り落とす。

 清楓さやかの二キロまでという制限のかかった弱い超能力でも、そのバッグを取り戻すために使うのには十分だった。

 少女は意識をバッグに集中すると、離れた位置から手元に一気に引き寄せる。


「あっ、くそ!」


 初めて男が声を上げた。

 少女はバッグを両手でつかみ取ると、今度は鬼と子が逆転して逃げる清楓さやか、追う男という形になる。


「返せ、クソガキ!」

「元々、うちのおじいちゃんのだよ!」

「待ちやがれ」

「待つわけないじゃない」


 しかし暗くなりつつある複雑な建築現場で、少女は下る階段を見失ってしまった。


「やだ、どっち?」


 男の足音が一気に近づいて来るのがわかり、彼女は当てずっぽうに適当な方向に走り出した。少し進むと警察車両が付近に到着したらしく、サイレンの音が聞こえる。とにかく警察官が来るまで逃げ切るか、このバッグだけでも警察に渡せたら。

 彼女はそう思って、とにかくサイレンの音が聞こえる側に向けて走った。


「この付近のようだ」

「あっちのビルだ、急げ!」


 十数人の警察官が建設途中のビルの、仮設の階段を駆け上って行く。

 富沢とみざわ達も到着し、状況を見極める。超能力を持つ子供のカルテを狙った理由を犯人から聞き出す必要もあったし、富沢とみざわとしては、”柏ひなつこども病院”のカルテと言う部分が気になった。

 超能力発現との関係性が疑われるヴィルケグリム症候群の手術が行われた、唯一の病院である。


 路上にいた複数の警察官がビルを指さし次々と声を上げるのを見て、富沢とみざわもそこに目線を向けて仰天した。


 張り出した鉄骨の上に、バッグを抱えた女子高生が追い詰められているのだ。にじり寄る男。そこは地上五階、落ちれば助かるような高さではない。時折吹く強風に、続けてぞっとした。

 犯人を女子高生が追いかけていたという情報があったが、今、追い詰められているのは少女の方。どうも彼女が持っているバッグに、男の目的であったカルテが入っているようだった。


 何とか警察がいる場所が見える位置にたどり着いたのに、投げ落とすには、少々高すぎたのが清楓さやかには誤算だった。足元を見ると、目がくらみそう。鉄骨の幅は四十センチ程しかない。


「さぁ、お嬢ちゃん、黙ってそれを返しな」


 男の手にナイフの危険な光る銀色が見え、少女はバッグを強く抱え直す。絶体絶命の今となっては、なけなしの超能力に頼るしかないと彼女は覚悟を決めた。


 正面をしっかり見据えると、彼女はナイフを持つ相手に向かって一気に走りだし、男と地上にいた人間を驚かせた。彼女は男が触れるか触れないかの絶妙な距離で、歩いた方が早いという、”一メートルしか移動できないテレポート”で道を塞ぐ男を空間ごと飛び越えたのだ。


「こ、小娘!」


 男は反転しようとしてよろめいて、危うく足を踏み外しそうになり、慌てて体勢を整える。

 清楓さやかはビルの内部に戻らず、外壁の足場を伝って下に降りようとした。だがバッグを片手に持っているので、とてつもなく危なっかしい。

 現代においては、このような足場を使うのは機械のみなので、人間が安全に通れるようには作られていないのだ。


「やだ、やっぱ怖い」


 思わず弱音が出るが、行けそうな場所を見つけては移動して男から距離を取り、組まれた足場を盾にする。

 懸命な時間稼ぎの末、ついに警察官と警備員が到着し後ろから次々と男に殺到して抑え込むのが見えた。


 全員が、ほっと胸を撫でおろしたその瞬間、同じくほっとして気が抜けた少女は、うっかりその手を滑らせてしまった。


「あっ」


 薄暗くなりつつある紺色の空を背景に、地上五階の外壁に組まれた足場から、ゆっくりと落ちて行く少女を地上にいた全員がスローモーションで見た。

 誰も動けない。

 例え動けても、出来る事はないのだが。


 誰もが思わず目を背けそうになる瞬間、身体が地上に触れるか触れないかのその位置で、少女はに一メートル、テレポートした。


「あいたっ!」


 ドサっと不器用に背中から落ちる音と、少女の気の抜けるような悲鳴。

 彼女は、上に向かってテレポートする事により、実質一メートルの位置から落ちただけのダメージで済んだのだが、見ていた側の腰が抜けるような出来事だった。


 金縛りが解けたように、慌てて数人の警察官が駆け寄って来た。


「君、大丈夫か」

「危な過ぎるぞ、本当になんて事を」


 そこに富沢とみざわが歩み寄って、地べたに座っている少女に、PSI管理局サイかんりきょくの局員カードを見せながら名刺を一枚差し出した。


「強奪された物の、内容を確認をさせてもらいたい。それを渡していただけるか」


 少女は身分証明書になっている局員カードを確認し、名刺を受け取って確認すると、不安げに警察官の方を見る。その警察官が頷いて見せたので、抱えていたバッグを富沢とみざわに手渡した。


「いい子だ、お嬢さん。だが、勇敢と無謀は違う」


 ポンポンと子供扱いするように頭に軽く触れると、男は颯爽と背を向けて、あっという間に離れて行く。

 バッグを抱えて車の方に向かっていく短髪の男を、清楓さやかは見続けていたがほどなくして救急車が到着し、彼女は祖父の経営する病院に運ばれた。


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