第38話 祈りの場所
伊佐の市街地に入った。
あいかわらずさびれた町並みだ。
この街には未来がない。
国道から伊佐高校に向けて右折する交差点が赤信号だった。だいぶ手前からアクセルを緩めてブレーキの衝撃を少なくして停止した。
「やっぱり、あんたって、運転がうまいよね」
「そうかな」
「ヤマトってさ、どんな車でも下手。あいつ、仕事大丈夫なのかって心配になっちゃうよね」
「もうすぐお父さんになるのにな」
街は静かだ。ウィンカーの音だけが際立つ。
沙紀がつぶやく。
「あんたさ、ちょっと時間ある?」
「買い物?」
「郡山八幡神社まで連れて行ってよ」
沙紀が大きなお腹をさする。
「予定日がクリスマスだからさ、たぶん初詣には行けないと思うんだよね」
ああ、なるほど。
「安産祈願と、ついでに来年の運勢もお願いしておこうと思って」
僕はウィンカーを消して、交差点を直進した。
道路脇の畑がうっすらと雪に覆われている。
伊佐市は南九州だけど、盆地にあるせいで寒暖の差が激しい土地柄だ。鹿児島の北海道と言われるくらいで、氷点下の気温も珍しくない。
ファッションスーパーしもむらの前を通り過ぎて、三叉路を脇に入る。神社正面の空き地に車を止めた。
よっこいしょと荒い息をしながら沙紀が車を降りる。
「体が重いし、バランス悪くて大変よ」
中学ぐらいからずっとバランス悪いと言い続けてきたから、いまさらな気がする。でもまあ、石畳につまずいて転ばないように気をつけてあげないとな。
僕は少し後ろについて歩いた。
「大丈夫か。寒くない?」
「うん、妊婦は体温高いから」
そういう問題なのか?
「最近はお腹が冷えるってないのか?」
沙紀が不思議そうな顔で振り向く。
「ほら、中学の頃、セーラー服に隙間ができてお腹が冷えるってカイロ貼ってたじゃんか」
「ああ、それのことね。妊婦用の服ってよくできてるのよ。制服もこうだったらよかったのにね」
いや、胸は大きかったけど、お腹は膨らんでなかっただろ。
「そんな制服必要なのは沙紀ぐらいなもんだろ」
「売れなくて制服屋さんつぶれちゃうか」
伊佐市には全国チェーンの制服屋さんの縫製工場があって、パートで働いている人も多い。
ただでさえ産業のないこの街なのに、沙紀のせいで雇用が減ったら大問題だ。市役所職員としても非常に憂慮すべき案件となってしまう。
参道の途中に記念撮影用のベンチが置かれていた。
十年前、彩佳さんと二人で写真を撮ったあのベンチだ。
「まだあるんだな」
思わずつぶやいた僕を沙紀が見ている。
「あんた、スマホ出しなよ」
「なんで」
「いいから」
スマホを渡すとカメラを起動させて僕に向けた。
「写真撮ってあげるよ」
「いいよ、べつに」
「座りなさい」
境内に甲高い鳥の鳴き声が響く。
僕は仕方なく言われた通りにベンチに腰掛けた。ちょっと湿っていて、お尻が冷たい。
「じゃ、撮るよ」
カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ。
「ごめん、連写になっちゃった」
沙紀が苦笑しながらスマホを返してくれる。
写真は僕の隣の左半分が大きくあいている。
画面に映る僕は笑顔だった。
あの時の彩佳さんの笑顔と僕の笑顔が重なる。
そうだ。
そうなんだ。
僕の心に君がいて、君の心に僕がいた。
僕たちは出会えたんだ。
僕たちはつながっていたんだ。
同じ時、同じ場所、同じ気持ちで結ばれていたんだ。
I wish I were a bird.
If I were a bird, I could fly to you.
鳥にならなくても、飛んでいけなくても、いつでも僕の心に君がいてくれたんだ。
沙紀がお腹をさすりながら僕を見下ろしている。
「そろそろ彩佳を許してあげなよ。あんたも苦しんだかもしれないけど、一番さびしいのは彩佳だよ。あんたにずっと責められ続けているんだからさ。彩佳はあんたと幸せになりたかったんだし、あんたと会えたことを何よりも喜んでいたんじゃん。それなのに、いつまでもそうやって彩佳のことを責めていたら、あの子がかわいそうだよ」
僕の心にあたたかなものがわき起こってくる。
「彩佳がさ、彩佳がね、一番苦しかったんだよ」
そうだ、その通りだ。
「彩佳だって、あんたに気持ちを伝えたかったんだよ」
沙紀の言葉が染みこんでくる。
「あんたが幸せになることを誰よりも願っているのが彩佳でしょ」
ごめんよ、彩佳。
ありがとう、彩佳。
好きだよ、彩佳。
彩佳。
何度でも呼ぶよ、彩佳。
涙で写真が見えない。
でも、大丈夫だ。
僕の心の中には彼女の笑顔がくっきりと浮かんでいた。
あの夏に見たオクラの花みたいに鮮やかな笑顔だ。
恋の病。
違う。
花言葉に意味はないんだ。
それは呪縛なんかじゃない。
それは僕らの愛の証なんだよね。あの花に僕らは誓ったんだから。
大丈夫だよ、彩佳。
僕はもう君を悲しませたりしないよ。
だって、そうだろ。
君の笑顔が僕の宝物なんだから。
「あんたに出会えてよかったって、彩佳が誰よりもそう思ってるんだよ」
僕らは郡山八幡神社の本殿に向かって立った。
水無月さんと一緒に祈ったあの場所だ。
「あの日、あんたもそうやって祈ったんでしょ。あんた、あたしらの補習がうまくいくようにお願いしたとかってごまかしてなかったっけ」
「うん、ばれてたみたいだけどね」
沙紀がうつむく。
「あんたのことはなんでもお見通しだよ」
あの時の気持ちに嘘偽りはなかった。
今もその気持ちに変わりはない。
あの日の祈りを、僕はもう一度捧げた。
『水無月さんと会えたことを感謝します』
苦しかったんだよね。
悲しかったんだよね。
寂しかったんだよね。
僕じゃなかったんだ。
君だったんだよね、彩佳。
僕じゃなかったんだ。
苦しかったのも、悲しかったのも、寂しかったのも、僕の心の中にいた君だったんだよね。
この苦しみも、悲しみも、切なさも、すべて君のものだったんだよね、彩佳。
気がついてあげられなくてごめんよ、彩佳。
僕の心に君がいた。
いつも一緒にいてくれたのに、僕は一人じゃなかったのに。
彩佳。聞こえるだろ、彩佳。
何度でも呼ぶよ、彩佳。
僕はここにいるよ、彩佳。
『カズ君』
彩佳!
『私にも聞こえるよ、カズ君』
僕には見えるよ、君の笑顔が。
僕には伝わるよ、君の喜びが。
だって君はいつも僕のそばにいてくれたんだから。
その君の笑顔が僕の愛の証なんだよね。
僕は感じるよ、君の存在を。
この手に感じるよ、君のぬくもりを。
だから、もう取引なんてしない。
僕は抜け殻なんかじゃない。
あたたかな血の通った人間なんだ。
僕は生きている。
僕は生きていく。
彼女のために僕は生きていくんだ。
それが彼女への愛の証なんだから。
まぎれもない、この愛の証なんだから。
最後にもう一度、僕は感謝の気持ちを伝えた。
『水無月さんと会えたことを感謝します』
目を開けるとかたわらで沙紀が僕を見つめていた。
「あんたにはもう一つ、行くところがあるでしょ」
「そうだな」
「ちゃんと、伝えるの。今度こそ」
「ああ、必ず」
沙紀が僕の手を取る。妊婦の手はあたたかい。
「この子にも誓いなさい。ビビらないって」
沙紀が僕の手を丸い腹に当てた。
かすかに動いたような気がした。
「元気いいね」
「ずっと蹴飛ばしてるのよ。やんちゃな薩摩隼斗になるかな」
僕は新しく生まれてくる命に誓った。
僕も新しい一歩を踏み出す、と。
そのために、伝えたい気持ちがあることを。
それを伝えたい人に会うことを。
「沙紀」
「何?」
「ありがとう」
沙紀の頬を涙が落ちていく。
彼女はそれをぬぐうこともなく、ずっと腹に僕の手を押し当てていた。
僕の手に沙紀の涙がひとしずく落ちた。
それはとてもあたたかなしずくだった。
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