第37話 雲の晴れ間から

 ドンと下から突き上げる揺れを感じて目が覚めた。

 いつのまにか鹿児島空港の滑走路に着陸していたようだ。

 長い回想だった。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 凛と再会してから一ヶ月が過ぎていた。僕らは週に一回東京で会い、二人の時間を過ごしていた。取り戻す時間は膨大で、でも、僕らは焦ることなく、お互いの気持ちをはぐくんでいこうと誓い合っていた。今できることとしては上出来だろう。

 ただ、だからといって、すべてが解決したわけではなかった。乗り越えていくべきことは変わってはいないし、今すぐというわけにはいかないのだろう。

 でも、そばにいたいという気持ちがあれば、いつかは先へ進むことはできる。それを確かめ合うことができたのだから、今はただその幸運に感謝するだけだ。

 ターミナルビルに向かう途中、飛行機が向きを変えたとき、窓から明るい光が入ってきた。濡れた滑走路が輝いている。

 流れる雲の切れ間から光が差し込んでいた。

 引き返しの可能性があると言っていたのが嘘のような天気だった。

 到着出口で沙紀が待っていた。大きなおなかを抱えて背中を反らしながら立っている。もうすぐ生まれるらしい。

 出産に合わせて空港売店の仕事をいったん辞めて実家に引っ込むことになっているらしく、同僚たちに挨拶をしてきたんだそうだ。これから伊佐の沙紀の実家まで僕が車で送り届ける約束になっていた。

 空港の駐車場に置いた車まで二人で歩く。

 空を見上げて沙紀がつぶやく。

「あんたが晴れ男だったとはね」

「人生は雨男だけどね」

「うまくないし、つまらない。零点、落第、バツイチ」

 沙紀も辛辣になった。ツワリでイライラしているんだろうか。

 車のドアもバタンと派手な音を立てて閉めた。

「ほら、いつもの東京土産」

 発進させる前に、東京で売られているバナナのお菓子を渡した。妊娠が分かってから、東京に行ったときは必ず買って帰るように言われていた。

「あ、サンキュー。待ってたのよ」

「あいかわらず、それなら食べられるのか」

「そうなのよ。ふつうのバナナは食べられないのにね」

 ゆっくりと空港の通路を抜けて国道に出る。北へ向かって山を越えれば伊佐だ。

 車の中で食べていいかと聞かれたので、もちろん、とうなずくと、沙紀はバリバリと包み紙を破り取った。

「あたしさ、高校生の頃、よくお母さんがお酒飲むときにカップ麺とか一緒に食べてたのにさ、全然太らなかったんだよね。なのにさ、ツワリで全然食べられないのに体重が増えるって、なんなんだろうね」

 うん。なんなんだろうね。

「妊婦って宇宙人かなんかなんじゃないかって思うよね。ほら、なんか理科でやったじゃん。体重保存の法則とか」

「質量保存だろ」

 沙紀がぽかんとしている。まあ、同じか、沙紀にとっては。

「物理的法則の適用外って言いたいのか?」

「それ、公務員用語?」

 僕を馬鹿にしてるだろ。

 沙紀もぺろりと舌を出している。

「でも、宇宙人だって、宇宙の物理法則は地球と変わらないから、食べたら体重増えるだろ」

 僕がまじめに解説すると、東京土産のお菓子を口いっぱいに頬張りながらもごもごと答えた。

「あたしおバカだから、何言ってるか全然分からない」

 そっちから言い出したくせに。

 まあ、でも、昔もこんな感じのどうでもいい話をしていたものだ。

 普段は離ればなれでも、会えば一瞬で昔のような雰囲気に戻る。

 これも魔法みたいなものなんだろうか。

 僕は魔法を知らない。

 でもこの世には魔法があふれているんだ。

 しばらく流れのままに国道を進んでいたら、沙紀がぽんと手をたたいた。

「ああ、おいしかった」

「なんだよ、もう全部食べたのかよ」

「悪い?」

「沙紀のために買ってきたんだからいいけどさ」

「妊婦の偏食、なめんなよ」

 なんで怒られなくちゃならないんだろう。

 妊婦は気性が激しい。まあ、沙紀だけかもしれないけど。大知も大変だな。

 ゴミを片付けながら、突然、沙紀が言った。

「あたしら籍入れたから」

 まるで、夕飯カレー用意しておいたからと言ってるみたいな調子だった。

「え、いつ?」

「先週。検診で実家に寄ったついでにね」

「知らなかったよ」

「あんた、市役所職員のくせに、そんなことも聞いてないのかよ。縦割り行政の弊害ってやつ?」

「それを言うならコンプライアンスの方だろ。いくら市役所内部だって、個人情報が筒抜けなわけないじゃんか」

「あんたに書類渡せば楽でいいかなって思ったんだけどね」

「担当じゃないから、規定通り、窓口までご案内してただろうな」

「おカタイね、公務員は」

 山を越えて伊佐の町並みが見えてきた。車酔いをさせないように慎重に運転を続ける。

「でも、どうして急に?」

「面倒くさいじゃない」

 どういうことだよ?

 今までは面倒だから籍を入れないって言ってたくせに。

「子供が生まれたときに、結婚してないと、いろいろ面倒でしょ」

「ああ、まあ、結婚してるっていう前提で世の中の制度ができてるからね」

「だから、それだけ」

「それでいいのか?」

「うん。どうせ、今までだって夫婦みたいなものだったでしょ」

 子供が生まれたときに面倒くさくなるのがイヤだからって、沙紀らしいや。

「子供できたら書類出して籍入れようかって、前からヤマトと相談はしてたんだけどね」

 沙紀がわざとらしく咳払いする。

「あいつがさ、逆だろって言うのよ」

「逆?」

「『入れて出したからできたんだろ』って」

 なんだよ。いい話を期待してたら、下ネタかよ。

 思いっきりスルーしてやる。

「式は?」

「しないよ」

「それでいいの?」

「うん、高一の夏にさ、あんたらの立ち会いで誓ったじゃん。誓いのキスだってしたでしょ。あれでいいよ。花火大会の前日、八月三日があたしたちの結婚記念日」

「よく日付まで覚えてるな」

「女は記念日好きだからね。あんたも覚えておきな。どうせヤマトのやつ、忘れてるだろうから、毎年あいつに連絡入れておいてよ。『もうすぐ結婚記念日だね』って」

「面倒くさいな」

「あんたでも面倒くさいことってあるんだね。書類好きの公務員のくせに」

 車内に朗らかな空気が満ちる。

 あれから長い時間が過ぎた。

 もうずいぶん昔のことだ。

 僕らは生きている。

 沙紀と大知は前を向いて進んでいる。

 僕は?

 後ろを向いているわけではない。

 前を向いているつもりだ。

 だけど、後ずさりしながら歩いているんだ。

 だから転んでばかりいるんだろう。

 僕が黙っていると、沙紀がつぶやいた。

「ていうかさ、あれが一番いい式だったと思うんだよね」

 沙紀と大知がキスをしたときの彩佳さんの表情が思い浮かぶ。

 キライの反対はスキ。じゃあ、スキの反対は?

 今なら即答なんだけどな。

 僕は頭が固いからクイズは苦手だよ、彩佳さん。

 僕は自分から話を変えた。

「もう男の子か女の子か分かるの?」

「お医者さんに聞いたら男の子だってさ。ほぼ間違いないって」

「そうなのか」

「男の子だとさ、ついてるものが見えるでしょ」

 生々しいな。ご立派でなによりだ。

「名前は決めたの?」

「うん。男だって言うから、ヤマトにしようと思って」

「え、じゃあ、大知はどうなるの?」

 沙紀が笑う。

「どうなるも、こうなるも、元々ヤマトは大知だって」

「うん、だから、大知がヤマトでヤマトは大和?」

 だめだ、収拾がつかない。

 僕はこういう話になるとすぐに頭が混乱してしまう。逆、裏? それとも対偶なのか?

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