第36話 ぎこちない抱擁
地方公務員として鹿児島と東京を往復する生活を続けて、僕は二十五歳になった。
多頻度利用客として航空会社のステイタス会員になり、週に一度はラウンジを利用していた。
人生とは奇妙なものだ。偶然の積み重ねでいびつな形に組み上がっていく。そして、いつか崩れ落ちるときが来る。それがいつなのかは分からない。崩れ落ちたかけらを拾い集めているときに気づくことがある。これはみんな宝石のかけらだったんだと。
なぜ気づかなかったんだろう。あんなに嫌ってばかりいたのにこんなに輝いていたなんて。
もう一度組み立てようとして、足りないピースがあることに気づく。テーブルの下? 戸棚の陰? 椅子の下? どこをのぞき込んでも見つからないときは、もしかしたら、自分のスリッパの裏にくっついているのかもしれない。
それは探しているときには絶対出てこないのに、忘れた頃にふと出てくるものだ。
そして、そのかけらを拾い上げたとき、人は本当に大切なものに気づくのだ。
凛と再会したのは羽田空港のラウンジだった。
晩秋のその日は夕方便に搭乗する予定で、いつも通り僕はラウンジに来ていた。
窓からは最後の輝きを残した穏やかな斜光が差し込んでいた。遠くに富士山の影が見える。
青汁のあるラウンジではなく、反対側のターミナルだったので、ごく一般的なソフトドリンクとコーヒーくらいしか選択肢はなかった。ただ、こちらのラウンジのエスプレッソはセルフマシンなのに専門店よりもレベルが高い。僕はいつものように紙ナプキンをもらって、カップをマシンにセットした。
その時だった。ボタンを押そうとした瞬間、横から声をかけられたのだ。
「今村君?」
あまりにも驚いて隣のカプチーノのボタンを押してしまった。マシンの蒸気音が虚しく響く。
凛だった。
五年ぶりだろうか。
ラウンジ職員の制服を着て、胸に『柳ヶ瀬 R.YANAGASE』という名札をつけている。
間違いなく凛だった。
少しも変わっていない。時計の針が一気に巻き戻る。
様々な想いが去来する。
僕はまた声が出なかった。
「今村君だね。昔も、こんな感じで肩がびくってなってたことがあったよね」
看護科の校門前で声をかけられたときのことだ。僕もまだ覚えている。
「どうして、ここに?」
「派遣で働いてるの」
ああ、そうなのか。
「今村君は?」
「仕事で東京に来てたんだ。これから伊佐、ああ、鹿児島に戻るところ」
カプチーノができあがった。僕は泡の立つミルクの感触が苦手だ。
この時間帯のラウンジ内にはあまり客はいない。少しくらいなら話ができるだろう。僕はスマホを取り出した。
「連絡先、教えてくれるかな」
「私物はロッカーに入れてあるの。制限エリアには持ち込み禁止だから」
僕は名刺を一枚取り出して、裏に連絡先を書いて渡した。
「市役所に就職したの?」と笑う。昔と変わらないよ、君は。
「似合うだろ」
「本当に公務員になるとは思わなかったのに」
お互いに言葉が途切れたので僕はマシンからカップを取り上げて皿にのせた。
「怒ってるでしょ?」と凛がぽつりと言った。
「うん、びっくりしてボタンを間違えちゃったよ。カプチーノは苦手なのに」
つまらないジョークしか言えなかった。沙紀なら零点と言うだろう。
「そうじゃなくて……」
凛が言葉を切って言い直す。
「昔のこと」
僕はふうと息を吐いてから首を振った。
「そんなことないよ」
彼女の眉が八の字になる。
「怒ってるって言ってくれた方が良かったな」
「ごめん。でも、怒ってないよ。謝るのは僕の方だから」
正直なところ、僕は感情というものを失っていたし、そもそも謝るのは僕の方だろう。彼女の人生を台無しにしたのは僕のせいなのだから。
搭乗時刻が迫っていた。
「また会いたいんだけど、連絡くれるかな?」
彼女は手の中の名刺に目をやって、軽くうなずいた。
「昔は、いろいろと迷惑をかけてすまなかった。ずっとおわびがしたいと思っていたんだ。真っ当に生きるのが一番のおわびだと思って生きてきたんだよ」
僕は頭を下げた。
「ううん。今村君は悪くないよ。私も悪いの」
そう言われても、話がよく分からない。それを僕は聞きたいんだ。
彼女は柔和な目で僕を見つめている。涙袋が印象的だ。ほほえみは変わらないのに、お互いの関係はもう元には戻らないのだろうか。
「お互いに、いろいろ話す必要があると思うんだ。ほら、ちゃんと話してほしいと君が昔言っていただろ」
「昔は、ね」
「今は?」
彼女が名刺を制服のポケットにしまいながらぽつりとつぶやいた。
「分からない。ごめんなさい」
あれから何があったのか。そもそもなんでこうなってしまったのか。聞きたいことはたくさんあるのに時間がない。
とにかく何かを言わなければと言葉に出そうとしたとき、彼女が両手をそろえて差し出した。
「そちらのカップ、お預かりします」
差し出された彼女の手を僕はつかんだ。
「もう君を離さないよ」
「お客様、カップをお預かりいたします」
僕は言われたとおりにした。
「おひげ、拭いてね」
僕は紙ナプキンを口に当てて、ミルクの髭を拭いた。
彼女が一歩下がってお辞儀をする。
「行ってらっしゃいませ」
時間だ。
ラウンジを出て搭乗口へ向かう。
待てよ、今村和昭。
おまえはそれでいいのか。
そうやっていつも後悔ばかりしてきたんじゃないのか。
いや、違う。
逆にそうやっておまえは凛を失ったんじゃないのか。
また同じ過ちを繰り返すのか。
どちらが正解なんだ。
迷いながら搭乗口まで来てしまった。
聞き慣れた搭乗案内が始まっていた。
「鹿児島行き優先搭乗を開始いたします。ダイヤモンド、プレミア、エメラルド……」
それでいいのか、今村和昭。地方公務員二十五歳。これからも前例だけを重んじて生きていくのか。懲戒免職がこわいのか。おまえにとって一番大切なものは何なんだ。
そんなことも分からずに生きてきたというのか。
本当は分かっているくせに、目を背け続けてきたんじゃないのか。
失うことを恐れて、また大切なものを失うのか。
僕は振り返ってステイタス会員の列を抜けた。
ラウンジ入り口に向かって駆けだす。
凛!
僕が名前を呼ばなくちゃ。
このチャンスを逃したら、二度と会えなくなるんじゃないのか。
壁に向かって飛び込む。自動ドアが開く。その扉を開けるのに魔法なんかいらない。僕は魔法なんか知らない。そんなもの知るか!
エスカレーターを駆け上がってレセプションを無視してラウンジに駆け込む。
後ろから受付係員があわてて追いかけてくる。
「お客様、あの、お客様」
凛。凛。君はどこにいるんだ。
凛はドリンクコーナーでグラスの補充をしていた。
「凛!」
僕の声に驚いてケースごとグラスを落としそうになる。
「もう、びっくりさせないで」
「ごめん。さっきのお返し」
僕の冗談に凛が微笑んでくれる。
「そのために帰ってきたの?」
「そんなわけないだろ。もっと大事な話がしたいんだ」
追いかけてきた係員が声をかける。
「あの、柳ヶ瀬さん。こちらのお客様は」
僕はダイヤモンドステイタスの黒いカードを差し出した。
「失礼いたしました。お手続きをして参りますので、少々お待ちください」
傲慢な客だと思われただろう。でも今はどうでもいい。
「もう搭乗時刻なんでしょう?」
「君のそばにいる」
「乗らないの?」
「乗らない」
目を細めて、ふうと息を吐く。
「困ったお客様ですね」
戻ってきた係員がカードを返してくれる。
「あの、今村様、鹿児島行きのご搭乗は間もなく締め切りとなりますが」
「キャンセルしてください」と、僕はカードを押し戻した。
「かしこまりました」
無関係のスタッフさんに面倒をかけてしまって内心は非常に恐縮している。でも、今はなりふり構っている場合じゃない。
「仕事は何時まで?」
「六時」
「じゃあ、その後、話がしたい」
彼女が首を振る。
「ごめんなさい」
僕は食い下がった。
「嫌がらないって約束してくれたじゃないか。僕のタイミングでいいって言ってたじゃないか」
「もう五年も前のことでしょ」
「あの時から僕たちの時計は止まったままだよ。昔も今も変わらないよ。僕の気持ちも変わらないんだ。僕は君が好きだった。あの時からずっと時計は止まったままなんだ。君に謝りたかった。君に伝えたかった。君の人生を台無しにしてしまったことを謝りたかった」
「してないよ」
え?
「今村君のせいじゃないから。心配しないで」
どういうこと?
「悪いのは私。だから、ごめんなさい」
凛が僕の後ろに視線をやっている。
振り向くとさっきの係員が立っていた。心配そうな表情で僕と彼女のことを見ている。
「あの、今村様、お手続きをして参りましたので……」
今度は確実にカードを手渡される。
キャンセルをしたら、いくらステイタス会員でも搭乗客用のこのラウンジにいることはできない。そういう意思表示なのだ。
これ以上彼女に迷惑をかけるわけにはいかない。
「僕はこの空港にいるから。必ず連絡をください。お願いします」
僕は頭を下げてラウンジを出た。
翌日の便の予約を取り直し、役所には半休を申請した。仕事の状況で搭乗便の変更はよくあることだったし、個人的な理由でも、規定通りに処理しておけば特に問題はなかった。
今夜は東京に滞在しなければならない。僕はターミナルビル直結のホテルに予約を取った。いつもはシングルルームだが、今夜は違う部屋を予約した。キングサイズベッドのスーペリアルームだ。
僕は展望デッキで彼女を待っていた。秋の空はとっくに暮れて宝石をちりばめたように滑走路の誘導灯が輝いていた。
来ないのではないかという不安はあった。仕事の連絡やら、どうでもいいタイムラインが流れてくる。
六時を過ぎた。連絡は来ない。落ち着け。放課後の小学生だって、チャイムが鳴ってすぐに飛び出してくるわけじゃないだろう。お互い大人なんだ。
もうすぐ七時になる頃にスマホが光った。オクラの花の待ち受け画面に凛のメッセージが表示された。
『今出ました。どこに行けばいいですか』
よかった。会えるんだ。
僕は五階展望デッキ前のレストランで待ち合わせることにした。
窓際の席について国際線ターミナルにならんだ飛行機の垂直尾翼を眺めながら彼女を待った。
「お待たせ」
彼女は思ったよりも朗らかな表情で現れた。
でも、その柔和な表情を信じて良いのか分からない。
僕らはローストビーフのコースメニューを注文した。
「お酒は?」
僕がたずねると彼女が軽く首を振った。
「ごめんなさい。私ね、全然飲めないの」
「実は僕もなんだ」
「薩摩隼人なのに?」
「茨城生まれの産地偽装だからね」
ウェイターさんが下がってから、彼女がうつむきながらつぶやいた。
「ごめんなさい」
「どうして君があやまるのさ」
「だって、今村君に迷惑をかけたでしょ」
「あやまるのは僕の方じゃないか。君にあんなことをしてしまって、あれ以来、ずっと謝罪をしたかったんだ」
「だから、それはもういいのよ」
サラダが運ばれてきて、彼女は言葉をおさめた。
窓の外を外国籍の320が離陸していく。
「私ね、先生に恋をしていたの」
窓には夜の滑走路を背景に彼女の顔が映っている。僕はサラダを口に運びながら彼女の話を聞いていた。
「中学の時に、二股かけられて保健室登校になったっていう話、覚えてる?」
「うん、覚えてるよ」
「そのときの担任の先生がね、若い男の先生だったんだけど、初めて担任になったばかりで迷惑かけちゃってたのに心配してくれてね。高校進学の相談とかもしてて、その先生が進めてくれたのが幕張海浜高校の看護科だったのよ」
「ふうん。いい先生だね」
彼女はなぜか軽く首をかしげただけだった。
「お世話になったから、高校生になってからも何度か中学校に顔出しに行って、元気にやってますって挨拶してたのね。先生も、おまえはいつまでも俺の生徒だから困ったことがあったらいつでも相談に乗るぞなんて言ってくれて、いい先生だなって思ってたのよ」
彼女の話によれば、高校課程の看護実習で、レポートが再提出になってばかりで困っていたときに、相談しに行ったんだそうだ。そのときに、初めて先生に好意を持っていることを自覚してしまったらしい。
「その先生の趣味がプロレスだったから、私も見るようになったの。ごめんね、嘘ついてて。今村君の大学のイベントとか、大宮まで試合を見に行ったのは、友達じゃなくて先生とだったの」
僕は心の動揺を隠していたつもりだったけど、隠しきれるわけはなかった。
「でも、先生もね、やっぱり立場とかがあるから、大宮まで車で連れていってくれたときも、助手席じゃなくて、後ろに乗れって言っててね。あくまでも教師と生徒という関係を崩すことはしなかったのよ。私はそれが寂しかったけどどうにもならなかったのね」
彼女は一度口を結んで肩を落とした。
「それで、私が専攻科に上がるときに、その先生が、私も知ってる同僚の先生と結婚するって聞いて、気持ちがぷつりと切れちゃったのよ。私、その先生に喜んでもらいたくて、その先生を安心させたくて看護師になろうと思ってたから。なんか、意味がなくなっちゃったなって」
僕は軽くうなずいてサラダを食べ終えた。言うべき言葉は何も見つからない。
皿の上に残るバルサミコ酢の模様が何かに似ていないか考えていた。いくら考えてもただの酢にしか見えなかった。
「私は私だけを好きになってくれる人を見つけるのが下手なんだよね。趣味が悪いのよ」
凛が自虐的に微笑む。
「ただのあこがれだったし、子供だったんだなって。もう、恋なんてしない、なんて空を見上げちゃった」
「分かるよ。僕もつぶやいたことがある」
サラダを口に入れようとしていた彼女が上目遣いに僕を見た。
「お互い、いろいろあったんだよね。言えなくてごめんね」
「それは僕も同じだよ」
軽くうなずくと、しばらく彼女は黙ったまま食事を続けていた。
ローストビーフが運ばれてきた。
「専攻科を一年半続けてみたんだけど、やっぱりレポートはうまく書けないし、自分は向いていないんじゃないかって思うようになってたの。佐藤遥香ちゃんって、いたじゃない」
「うん。僕もお世話になったよ」
彼女の表情に疑問符がついていたので、僕が体調不良になったときのことを話した。
「そうだったんだ。ごめんね」
「いや、僕が悪かったんだし、君に会いたい気持ちが強すぎたせいだよ」
彼女の目に涙があふれてきた。
「本当に、ごめんなさい」
膝の上のナプキンを持ち上げて涙を拭きながら彼女が話を続けた。
「あの子みたいに看護師に向いている人はいいけど、私みたいな中途半端な学生があのまま資格を取っても、結局仕事を始めたらすぐに辞めちゃうんじゃないかって思ったの。あと半年だから頑張れって親には言われたけど、もう限界だったのよ」
彼女はふうと息を吐いて、つぶやいた。
「だから、学校を辞めたのは私の都合なの。今村君のせいじゃないの」
「でも、僕があんなことをしてしまったことが消えるわけじゃないよ」
「確かに、あの時はすごくイヤで、私もあんなふうにぶってしまったり、ひどいことをしちゃったけど、でも、怒りというよりは、悲しかったのよ。私のことを見てくれていないんだって気づいてしまったから」
「それは、僕が悪いよ。ごめん」
ローストビーフは柔らかい。こんな時でもおいしいものはおいしい。相手の話をしっかりと受け止めようとする余裕を支えてくれる味だ。
「私ね、今村君と初めて知り合ったとき、一緒にいてすごく落ち着くし、今までにいなかった感じの人だなって、なんか、すごく惹かれたの。ああ、この人なんだなって。でも、今村君は私じゃない誰かを見ていて、私じゃない誰かと話をしていたでしょ。それが水無月彩佳さんだったんでしょ」
そうだ、その通りだ。凛は凛なのに、いつも違う人の面影を重ねてしまっていたのだ。でも、僕はそうしたかったわけじゃないんだ。君を見ていたかったんだよ。
「私は今村君の心の中を知りたかったの。でも、それを受け止めることができなかったの。私じゃないんだなって。今村君の心の中にいるのは私じゃないんだなって」
ちがう。そうじゃないんだ。僕は君のことを大切に思っていたんだ。
でも、僕は何を言ったらいいのか分からなかった。
言うべき言葉が見つからなかった。
いつもの今村和昭だ。
いつもこんな時に限って、おまえは言うべき言葉を見つけられないんだ。
そしていつも大切なものを失っていたんじゃないのか。
それから僕らは食後にコーヒーを頼み、クレームブリュレを食べてレストランを出た。
凛がエレベーターのボタンを押して僕と向き合った。
「今夜は東京?」
「うん、明日の便に振り替えたよ」
「宿は?」
「とったよ」
エレベーターの扉が開く。彼女が先に入って一階のボタンを押す。ガラス張りのエレベーターが吹き抜けのターミナル中央ロビーを下りていく。
言わなくちゃいけないんだ。僕が言わないと終わってしまうんだ。
「一緒に来てよ」
彼女が首を振る。
僕は彼女の手を引いて抱き寄せた。
「離さないよ」
「ごめんなさい」
「僕は君を離さないよ」
僕の腕の中で彼女が首を振る。
「私は水無月さんの代わりじゃないでしょ」
「そうだよ。代わりじゃないよ。君は君だろ。僕は君が好きなんだよ。僕が好きなのは君なんだよ。誰の代わりでもない君なんだよ」
エレベーターが到着して扉が開く。待っていた人が僕たちを見て目を背ける。僕は彼女の手を引いてロビーに出た。
離さない。この手を離したらいけないんだ。
「だめ。お願い」
「離さない」
彼女は黙っていた。僕は彼女の手を引いて歩き続けた。止まってはいけないんだ。離してはいけないんだ。
僕はいつもの宿まで彼女を連れてきた。部屋へと上がるエレベーターの中でもう一度彼女を抱き寄せて口づけた。五年前と違って、今度は平手打ちは返ってこなかった。
スーペリアダブルの部屋にはキングサイズベッドが置かれていた。
僕はしわ一つ無いその広大な純白のシーツに彼女を押し倒した。
今がおまえのタイミングなのか。
違うというのか。
これがおまえのやり方なのか。
僕は起き上がった。
キングサイズベッドに彼女が身を投げ出している。
ベッドが広すぎて、三つ星レストランのこじゃれたプレートみたいだ。
重なり合う僕らには、一人分のスペースしか必要がないのに。
このベッドは僕らには広すぎる。
おまえはこんなことがしたかったのか。
彼女を傷つけることがおまえの望みだったのか。
おまえは彼女に復讐がしたいのか。
五年間の歳月の苦しみをぶつけることで得られる快楽が望みなのか。
そうだ。それのどこがいけない。
僕はここまで落ちぶれたんだ。
今村和昭。おまえは最低のクズ野郎だ。
悪魔ですら見放した最低の下衆野郎だ。
これですべてを終わらせろ。
それがおまえの望みだったはずじゃないか。
この世に希望などないのなら、ここですべてを終わりにすればいいじゃないか。
「今村君」
無防備な彼女が仰向けのまま僕を見つめている。
僕には何もできなかった。
泣くことも。震えることも。抱きしめることさえできなかった。
「ねえ、今村君。お願い」
彼女が手を差し伸べる。
「嘘でもいいから抱きしめてよ」
僕は首を振った。
そんなことはできない。
彼女の目に涙が浮かぶ。
僕は彼女に飛び込んだ。
凛の体をきつく抱きしめて耳元にささやいた。
「嘘じゃないから。本気だから」
そう、あの時だって本気だった。
あの時の気持ちに嘘偽りはなかった。
僕はそっと彼女とおでこを触れあわせた。
彼女しか見えない。
彼女が僕に口づける。
あの時の感覚がよみがえる。
本能が教えていた、愛し方を。
それから僕たちはお互いの肌を触れあわせ、お互いのぬくもりを感じあっていた。
それはぎこちない抱擁だったかもしれない。
それは仕方のないことだった。
僕らには前例のないことだったのだから。
彼女のぬくもり。彼女の吐息。彼女の髪の感触。彼女の肌の滑らかさ。
僕らはお互いの気持ちを確かめ合っていた。
声が聞こえた。
どうして聞こえるんだ。
ここにいるのは僕と彼女だけなのに。
『カズ君』
待ってくれ。
彼女は君の代わりじゃないんだ。違うんだ。
『ねえ、カズ君』
どうして……。
どうして?
『カズ君、抱きしめてあげなくちゃ』
どうして君が……。
僕は君のかけた永遠の魔法から逃れられないというのか。
『だから、抱きしめてあげなくちゃ』
下半身が男を主張していた。
脈打つ欲望をほとばしらせていた。
僕は泣いていた。
僕は涙を流していた。
どうしてなんだ。
どうして涙が止まらないんだ。
柔和な涙袋をふるわせながら凛が僕を見つめて微笑んでいる。僕は君を泣かせたくはないのに。
「水無月さんのことを考えていたの?」
僕は正直に答えた。
「うん。ごめん」
「あやまることはないでしょ」
凛が僕を抱き寄せておでこをくっつけた。僕の胸に手を添える。
「いるんでしょ、ここに」
違うんだ。僕は君のことが……。
「いなくなったりしないでしょ」
え?
「君の大切な人なんだから」
僕は君が……。
凛が人差し指で僕の胸をそっとなぞりながら耳元でささやいた。
「どこにもいない人の居場所は、ここ」
ここに?
凛がうなずく。
「どこにもいない人の居場所はね、ここなの」
心の中にいる。
「ずっとここにいてくれるの」
涙が止まらない。
「言ってくれたらよかったのに。今村君の苦しみを、さびしさを、悲しみを。言ってくれたらよかったのに」
凛が僕に軽く口づけた。
「そうすれば今村君一人の苦しみじゃなくなるでしょ」
それでいいんだろうか。
それがいいのだろうか。
僕には分からなかった。
凛が思いがけないことを言った。
「これからたくさん、水無月さんと一緒にしたかったことを私と一緒にしていこうよ」
「でも、凛は水無月さんの代わりじゃないよ」
僕の胸に顔をうずめて凛がくすりと笑う。汗の混じった髪の香りを吸い込む。とても愛おしい匂いだ。
「ちがうの。水無月さんと一緒にしたかったことを私と一緒にするんでしょ」
二度言われても、意味が分からない。
「代わりじゃないの。私と一緒にするの」
それに意味はあるんだろうか。
でも、すてきなアイディアのような気がした。
前例を重んじる公務員にはない発想だ。
「ねえ、今村君」
ん?
「君は相変わらずやせているね」
「筋トレしてるんだけどね」
「え、ホント?」
凛の目が丸くなる。
「嘘。ごめん」
凛の表情が一変する。僕をにらみつけている。
「嘘がつまらなくてごめん」
ぷっと吹き出して僕の胸におでこを押しつけながら凛が笑う。
「今村君は、本当に嘘が下手だよね。すぐにばれるし、全然おもしろくないよ」
「ごめんね」
「さっきからあやまってばかりだよ」
頭の中から言葉が消えていく。また何を言うべきか分からなくなってしまった。
僕は彼女を抱きしめた。気持ちを伝えるために、今できることはそれ以外に何もなかった。
僕の胸の中で凛が言った。
「ねえ、水無月さんのこと、いっぱい教えてよ」
「え?」
「だって今村和昭の惚れた女でしょ。いい女に決まってるじゃない。だから、どんな人だったのか知りたいな」
何から話せばいいんだろうか。
「コイバナが好きな人だったよ」
凛がくすりと笑う。
「水無月さんは、きっと今村君とスイーツ・バイキングに行きたかったんじゃないかな?」
「それは凛の希望だろ」
彼女が僕の目を見つめて微笑んだ。
「女子はね、みんなスイーツが好きなの」
それは『個人の感想』というものだ。
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