第34話 君の落とした時計
その後彼女と連絡を取ることはできなくなった。
一度だけ「あやまりたい」というメッセージを送ったけど、返信はなかった。迷惑であることは分かっていたから、何度も送りつけるのはやめておいた。電話もしなかった。
九月に入って、僕は彼女に会いに行くことにした。彼女の家は知らなかったけど、学校なら、通学路で会えるだろうと思ったからだ。
ストーカーと呼ばれて通報されてしまうかもしれないことは承知していた。
それでも僕なりの誠意を伝えたかったのだ。
その考えこそがストーカーというのだと言われれば反論できない。
でも、どうしても僕は分かってもらいたかった。
どうしても誤解を解きたかった。
それが独りよがりだというのなら、仕方がない。受け入れる覚悟はできている。
こうして人は犯罪者になっていくのだろうか。
僕は通学路で待ち伏せた。
高速道路下の交差点に設置された歩道橋の上で、朝の通学時間帯に彼女が通りがかるのを待っていた。以前、普通科を案内してもらったときに柳ヶ瀬さんと二人で歩いた歩道橋だ。海浜幕張駅から来る人は必ずここを通るはずだった。
国道を通るトラックの排気ガスの混ざったぬるい風が吹き抜けていく歩道橋を看護科の生徒たちが通り過ぎていく。一人の人もいればグループの人もいる。高校課程と専攻科で五学年分の年の差があるせいで、大人びた生徒とまだあどけない表情のグループにはっきり分かれている。
高速道路の向こう側から彼女がやってきた。友達と一緒のようだった。見覚えのある顔だ。
ああ、柳ヶ瀬さんと最初に出会ったあのバーベキューで女性側の幹事をやっていた人だ。名前は覚えていないけど、間違いない。
僕は二人に歩み寄った。横を向いて時折笑いながら話をしていて、前から来る僕には気づいていないようだ。
「おはよう」
声をかけると、彼女はおびえたような表情で短くヒッと声を上げた。
「突然こんな所まで来て、ごめん。良くないことは分かってる」
彼女は僕を無視して足早に歩き出す。友達も慌てて後を追う。僕も歩きながら話しかけた。
「お願いだ。聞いてよ。水無月彩佳という人を知らないかな」
彼女は返事をしないで階段を駆け下りる。
「待ってよ。幕張海浜高校にいた水無月彩佳という人なんだ」
一言吐き捨てるように答えた。
「知らない」
「普通科の人だったんだ」
「私、看護科だから関係ない」
「同じ学年だったんだ。他に知ってる人がいるかも」
「普通科だと、もう卒業してるから、話を聞ける人なんていない」
僕は食い下がった。
「看護科でも、部活とか文化祭とか何かで交流があったかもしれないし」
「近寄らないで」
僕は一歩飛び退いた。
彼女の友達が割って入る。
「ねえ、凛、大丈夫? 先生呼んでこようか」
柳ヶ瀬さんがあわてて手を振る。
「あ、違うの、ただの痴話喧嘩っていうか……。ごめん、先に行ってて。大丈夫だから、心配しないで。知り合いだから」
友達はおびえた表情のままその場を動かない。
「もう、恥ずかしいから、こっちに来て」
柳ヶ瀬さんが僕の腕を引っ張る。僕は彼女の友達に向かって頭を下げて、引っ張られるままついていった。
柳ヶ瀬さんは通学路を外れて低層マンションの並ぶ区画に入っていくと、路上に駐車してあるミニバンの陰に来て立ち止まり、僕の腕を突き放した。真っ正面に立って僕をにらみつける。
「ねえ、今村君」
「はい」
「話してよ。ちゃんと話して。君の話はいつもそう。頭の中でひねくり回して途中が分からないからこうなるんでしょ。最初から最後までちゃんと順番通りにしゃべってよ」
「長くなるよ」
「時間はいつもあったでしょ。二人でいるときに私じゃない誰かのことばっかりよそ見してたのは君じゃない。私はいつだって一生懸命君の話を聞こうとしてたでしょ」
「ごめん。それは本当に申し訳ないと思ってるんだ。僕が悪いのは自覚してるんだ。でも、うまく説明できなくて……」
柳ヶ瀬さんがため息をつく。
「なんだかな。やっぱり私って男運悪いのかな。困った人に恋しちゃったな。クジ運最悪でしょう、もう。福引きとか絶対当たらないのに、こんなクズ男引いちゃうんだもん。ラジー賞完全制覇。なんて言ったっけ、あの人。ほら、筋肉すごいアクションおじさん」
「シュワ……」
「ちがうでしょ、シルベスター・スタローン。筋肉ないくせに君は殿堂越えよ。全米が泣くレベルよ。私まで泣いちゃった」
本当にごめん。
違う、ちゃんと言葉にして伝えようとしなければ伝わらないんだ。
僕は頭を下げてわびた。
「本当に、ごめん。お願いだから、水無月さんのことを知っている人に、聞いてみてほしいんだ」
「何を聞けばいいの?」
「なんでもいいんだ。どんな人だったのか。どういうことがあったのか。僕の口からじゃなくて、他の人から話を聞いてみてほしいんだ」
「矛盾でしょ。君が自分の口から説明するべきじゃない。私はそうお願いしているの」
「信じてほしいんだ。矛盾じゃないんだよ」
「だからどうして?」
「君の言っていたとおりだよ。僕は合理性が好きだから」
彼女の顔が険しくなる。
「そういう言い方が嫌なの。もうこの段階で意味不明でしょ」
「僕からじゃなくて、他の人から聞いてみてほしい。それこそが僕の伝えたいことの証拠になるんだ」
もう一度僕は頭を下げた。
彼女の靴の向きが変わる。
頭を上げると彼女は通学路に向かって歩き始めていた。
「遅刻しちゃうから、さようなら」
「待って。頼む。お願いだ」
「ごめんなさい」
一度立ち止まって振り向いた彼女が僕の目をまっすぐに見つめた。
「もう、これで終わり。さようなら」
くるりとまた背を向ける。
これで終わりでいいのか。いつもそうやって大切なものを失ってきたんじゃないのか。必死で、なりふり構わず気持ちを伝えるべきなんじゃないのか。
一度目の別れの時に鹿児島空港で彩佳さんを行かせてしまった後に悔やんで泣いたときのように、二度目の夏にすぐに気持ちを伝えずにいて、永遠の別れを迎えてしまったときのように。おまえはそうやっていつも後悔ばかりしてきたんじゃないのか。
必死さを伝えなければいけないんじゃないのか。
僕は彼女の手をつかんだ。
「え、何?」
手を引いて抱き寄せると、僕は彼女に口づけた。抱きしめて彼女にキスをした。鼻とおでこが当たって、唇がずれた。
「ちょっと、何するの。やめて」
彼女が僕を突き飛ばす。
「本当に警察呼ぶからね。二度と私の前に現れないで」
僕の頬に彼女の平手打ちが命中する。
「サイテー。バカ!」
もう終わりだった。
自分のやってしまったことの重大さに今更ながらにおびえていた。
僕は自分の保身ばかりを考えながらその場から逃げ出した。
謝って済むことではなくなってしまった。
自分がしたこととはいえ、完全にすべてを終わらせるのに十分な失敗だった。
その日から僕はアパートに引きこもって過ごした。
大学は九月の下旬からで、まだ始まっていなかった。コンビニのアルバイトは無断欠勤した。連絡は無視した。
心配した弥勒先輩が部屋を訪ねてきたけど、僕は出なかった。
食料がなくなったけど、食べる気力もなかった。
僕はただベッドに横たわってぎゅっと目を閉じて自分のしてしまったことを後悔していた。何時間眠っていたのかはまるで分からなかった。
何日かたって、アパートの部屋のドアが開いた。
弥勒先輩だった。
「やあ。大家さんに頼んで、鍵を借りてきたんだ。勝手なことしてすまないね。何も食べてないんだろう。これ、弁当持ってきたから食べなよ」
先輩は部屋の中を見回して、苦笑していた。
「弁当の置き場所もないんだな」
冷蔵庫を開けて袋ごと押し込む。
「入れておくから、後は自分でやってよ。じゃあね」
先輩は部屋を出て行った。鍵のかかる音がした。
僕はベッドに転がったまま冷蔵庫の扉を見つめていた。本能が食べ物を求めていた。
起き上がって冷蔵庫を開ける。袋の中には鮭弁当と唐揚げ弁当、サラダにヨーグルト、紙パックのミルクコーヒーが入っていた。
僕はむさぼるように食べた。のどを鳴らしてコーヒー牛乳を飲んだ。
久しぶりの食事はなかなかのどを通らないけど、おいしかった。僕は生きているんだ。生きていかなければならないんだ。もしゃもしゃとひたすらに食べ物を押し込んでいった。
ゴミを片付けてトイレに立ったとき、洗面所の鏡に映る自分を見た。ひげが伸びている。髪の毛がぺたりとはりついている。昔、彩佳さんと出会ったときにコンビニの鏡に映った自分の笑顔を見たことを思い出した。あの時は、だらしなくゆるんだ笑みを浮かべた自分を見て、『おまえは誰だ』と思ったのだ。
今、目の前の鏡に映る相手にも僕は『おまえは誰だ』と呼びかけた。あの時と違うのは表情だけだった。そこに映るのは絶望だけだ。
いや、おまえは絶望なんかしていないんだろう。
差し出された弁当をむさぼり食って生き延びようとしている人間に絶望などない。
ひどい顔の下に隠されているのは甘えだけだ。
あの頃と何が変わってしまったというのだろうか。
僕はトイレに駆け込んで今食べたものを全部吐き出した。
いきなり食べて体が受け付けなくなっていたのだ。
何度も水を流しながら、胃の中の物をすべて出し切った。
そしてまた、ベッドの上に横たわって目を閉じた。
どうしてだよ。
どうしてなんだよ。
彩佳。
君の名を呼ぶときに、どうして僕はこんなに苦しまなければならないんだよ。
僕の心に浮かぶ君はいつだって笑顔でいてくれるじゃないか。
どうして僕はこんなに苦しまなければならないんだよ。
どうして……。
どうして君は僕に魔法をかけたんだ。
永遠という名の魔法を。
果てのない、終わりのない魔法を。
その翌日、弥勒先輩がまた訪ねてきた。
勝手に鍵を開けて入ってくる。
コンビニ袋をぶら下げた先輩の後ろにもう一人いた。
一瞬誰だか分からなかったけれど、思い出した。柳ヶ瀬さんの友達だ。バーベキューの幹事で、歩道橋で柳ヶ瀬さんと一緒にいた人だ。
「やあ、また食べ物を持ってきたよ。それに、お客さんも連れてきた」
「佐藤遙香です」
僕の方を見たまま軽く頭を下げた。表情は暗い。そうだろう。こんなむさくるしい男の部屋なんて、おそらく異臭がするんじゃないだろうか。何日もシャワーを浴びていない。昨日の弁当のゴミも袋に入れただけで放置してある。
佐藤さんは僕のかたわらに来て様子を観察してからいくつか質問をしてきた。
「調子はどうですか」
どうと言われても答えられない。答えられないこと自体が返事として受け入れられたようだった。
「食べられますか」
かろうじてかすかに首を振った。
「昨日の弁当は食べたのか」と弥勒先輩がたずねる。
「食べたけど、吐きました」
「固形物を受け付けなくなってるかもしれませんね」
佐藤さんの言葉に、弥勒先輩が首を伸ばして僕をのぞき込んだ。
「どうする、病院に連れて行ってやろうか?」
僕は首を振った。
「プリンとかヨーグルトは食べられそう?」
佐藤さんが袋からイチゴ味のヨーグルトを取り出してくれた。
「食べたくないです」
「食べて」
きつい言い方だった。弱っている人間にはこのくらい言わないと効果がないと分かっている人の言い方だった。
「食べなきゃだめ」
弥勒先輩がコンビニ袋をベッドの上に置いて、僕の体を起こす。佐藤さんが僕の手にふたを開けたヨーグルトの容器を持たせる。スプーンを渡されたとき、涙が出てきた。
「泣くことができるなら、食べられるでしょ。食べなさい」
泣くことと食べること。どういう理屈なのかは分からなかったけど、僕はヨーグルトを口に運んだ。手が震えてこぼれそうになるのを、口を運んでいって食べた。
酸っぱさと甘さが口の中に広がる。
「ほら、もっと食べられるでしょ」
手が止まった僕を佐藤さんが叱咤する。
僕はヨーグルトを全部口に流し込んだ。
「ちょっと待っててね」
佐藤さんはコンビニ袋から弁当を取り出してあたりを見回す。
「どんぶりはある?」
「一つ、流しの上の戸棚に」
千葉に引っ越してきたときに親に持たされたけど、一度も使ったことのない物だ。
「すごいほこりだね」
佐藤さんが笑いながら流しですすぐ。箸とコップを洗う程度のことはするので、スポンジと食器洗剤だけはある。洗剤はまだほんの少ししか使っていない。
佐藤さんは手際よく弁当のご飯を少しだけどんぶりに取りわけて、付属の醤油を少したらしてから水を加えた。
そしてそれを電子レンジに入れて加熱を始めた。
「おかゆ作るからね」
僕は枕元のティッシュボックスを引き寄せて涙を拭いた。ゴミ箱に捨てようとしたとき、だいぶ前に捨てたティッシュがカピカピになっているのが目に入った。その頃は僕にもほとばしる若い生命力があったという証拠だ。
弥勒先輩が折りたたみ足のテーブルを出して床に置いた。コンビニ袋からいろいろな物を取り出してならべていく。
「スポドリ飲むか?」
僕は素直にうなずいてふたを開けてもらったペットボトルを受け取った。
「おおよその事情は佐藤さんから聞いたよ」
先輩がプリンのパックを破ってカップを三段に重ねながら言った。
「今村君がさ、最近おかしいから、困ったなって思ったんだけど、君、前にバーベキューの時に知り合った女の子と部屋にいたじゃないか。まあ、原因はそれだろうなと思って、佐藤さんに連絡を取ってみたわけさ。俺と佐藤さんは交流会の幹事だから連絡先は知ってたからね」
「そうだったんですか」
察しが良くて面倒見のいい先輩だ。
「前にも言っただろ。いろんなやつがいるんだよ」
先輩がふっと軽く笑う。
「君は大丈夫だと思ったんだけど、予想はハズレだったね」
ああ、引っ越してきたときに、そういえばそんなことを言われたことがあったな。
あの頃はこんなことになるなんて全然思いもしなかった。
「今村さんでしたっけ」
佐藤さんが電子レンジの中をのぞき込みながら言った。
「はい」
僕は声を出して返事をした。
「水無月彩佳さんのお友達だったんですか?」
え、どうしてそれを?
僕は驚きのあまりスポーツドリンクを鼻から吹き出しそうになってしまった。なんとかこらえて、声を出した。
「どうして知ってるんですか?」
「凛から聞かれたの、水無月彩佳っていう人を知ってるかって」
柳ヶ瀬さんが……。
アパートの部屋に電子レンジのうなる音だけが響く。
「私も看護科だけど、ハンドボール部のマネージャーをやってたから、普通科の人とも交流があってね。それで水無月さんの名前も聞いたことがあったのよ」
いったんスイッチを切って取り出して、中身をかき混ぜてからもう一度加熱する。
ハンドボールの話は水無月さんからも聞いたことがあった。
「一年生の時に、少し話題にはなってたのよ。うちの部活の男子が振られたってね。結構イケメンだったから、みんな驚いててね。なんか、その水無月さんていう人が、他に好きな人ができたからって、一方的に振ったらしいって噂が流れたのを私も覚えてたの」
そうか、その話は聞いてなかった。水無月さんはちゃんと自分の気持ちをはっきりさせて相手との関係を解消してくれていたのか。
「タカユキって人ですか」
「あ、名前、知ってました?」
僕はスマホの画面に映った名前のことを説明した。
「そうなんですか。うちのハンドボール部の中でも結構他の女子たちからもモテてたんで、それでちょっとしたトラブルみたいなのもあったみたいなんですよ」
トラブル?
「それは聞いてなかったです」
「イジメって言うわけじゃないんだけど、まあ、女の世界って、グループとか派閥とか、いろいろあるじゃないですか。それで、そのイケメン君のファンの子たちから陰でいろいろ言われてたみたいでね」
そうだったのか。
正直、水無月さんが僕のためにちゃんとしていてくれたことに感謝した。
でも、同時に、そのことで彼女に迷惑をかけていたことをまったく知らなかったのを後悔した。遠く離れた鹿児島で、僕はそんな彼女の苦労を想像もしていなかったのだ。いったい彼女の何を分かっていたというのだろうか。
スマホで話したり、動画を見たりしていた限りでは、彼女はそういったトラブルのことは何も言っていなかったし、そんな表情を見せたこともなかった。僕に対しては常に笑顔を向けていてくれたのだ。
佐藤さんが電子レンジを止めた。
湯気の立つどんぶりを取り出して、中身をかき混ぜる。ほのかに醤油のいい香りがただよってくる。
「水無月さん、二年生の時に亡くなったんですね」
佐藤さんがテーブルの上にどんぶりを置いてくれた。
柔らかな湯気の立つ少し色のついたおかゆだ。両手でどんぶりを持つとやけどしそうな熱さだった。
湯気が目にしみて涙が出てきた。鼻水も出てきた。弥勒先輩がティッシュをくれる。
「普通科だった人にも何人か聞いてみたんだけど、夏休み中のことだったから、みんなも詳しいことは知らされてなくて、お葬式とかも終わってて、なんかそれっきりだったみたい。先生方も、あんまり生徒のプライバシーとか家庭環境に関わる時代じゃないから、事務処理をしたらもうそれだけだったみたいね」
二千人も生徒がいる高校なのに、水無月さんのことを記憶にとどめてくれた人はほとんどいないのか。仕方のないことなんだろうか。
「今村さんは、水無月さんとはどういう関係なんですか」
「知り合いのイトコ。それだけです」
佐藤さんがため息をつきながらプラスチックのスプーンをくれる。
「冷ましながら食べてください」
「はい、いただきます」
僕は一口すくってふうふうと冷ましてから口に入れた。お米の味は薄いけど、ほんのりと醤油の風味があって、のどに流れ落ちていく。また涙が出てきた。
「凛は……、本当のことを知りたがっていましたよ」
柳ヶ瀬さんが。そうなのか。ありがとう。無視されてもしかたがないのにな。
「知り合いのイトコっていう関係だけだったら、こんなふうにならないですよね」
それはそうだ。でも、何から説明すればいいか分からない。
「好きな女の子だったんです」
僕の一言に、佐藤さんがうなずく。
「でも、僕の気持ちを伝える前に、彼女は亡くなってしまって……。それ以来、気持ちの整理がつかなくて、ずっと悲しかったんです」
「つらかったでしょうね」
佐藤さんの言葉が僕の心にすとんと落ちてくる。
そうだ。
僕はそれを誰かに分かってほしかったんだ。
甘えというなら笑えばいい。
僕はただそれを分かってほしかっただけなんだ。
「私たちも、実習先の病院で、昨日まで元気だったおじいちゃんが亡くなっていたりすることがあるんです。おまんじゅうあるから食べていきなさいなんて言ってくれてたのに、規則で受け取れないからって断るしかないんですけどね。それで、次の日、もうそのおじいちゃんはそこにいないんですよ」
「それはつらいですね」と弥勒先輩がつぶやいた。
「はい。そういう仕事だからと割り切りたいんですけど、やっぱりそんなにすんなり受け入れられるわけでもなくて」
沈黙が流れる。
「何まんじゅうだったんでしょうね。栗かな」
弥勒先輩の質問に佐藤さんが笑う。
「さあ、どうでしょうね」
「あんこは粒あん派ですか、こしあん派ですか」
「私はどちらでもいけますよ」
暗かった部屋に朗らかな空気が漂う。
佐藤さんが静かに語り出した。
「私たちは、看護の学習で、死を受け入れることを学ぶんです。受け入れがたいものを受け入れる訓練をするんです。個人的な悲しみとしてとらえないようにする訓練が必要なんです。それでも、人間はそう単純じゃありませんから、やっぱり悲しみは積もっていくんです。私たちみたいな学生でも、看護の学習段階であきらめちゃう人もいます。看護師になってからも、ある日限界が来る人もいると教わります。でもそれはしかたのないことなんですよ」
僕は気になったことをたずねた。
「柳ヶ瀬さんは、僕を許してはいませんよね」
佐藤さんは返事をしなかった。口を結んでうつむいたまま言葉を探しているようだった。
僕は謝罪がしたかった。会わせられないというのなら、せめてこの気持ちを伝えてもらいたかった。自分のしてしまったことをごまかすつもりはなかった。罪を背負って生きていくつもりだった。
「凛は……」
佐藤さんがやっと口を開いた。
「凛は、学校を辞めました」
僕は言葉を失ってしまった。
どうして?
僕があんなことをしてしまったからか。
待ってくれ。
僕が彼女の人生を台無しにしてしまったというのか。
そんな……。
そんなつもりはなかったのに。
「理由は分かりません。学校にも手続きだけしていなくなってしまったんです」
佐藤さんがため息をつく。
「スマホも変えちゃったみたいで、誰も連絡ができなくて」
「ぼ、僕のせいですよね」
佐藤さんは首を振った。
「分かりません。本当に、理由は分からないんです。先生方も驚いていたくらいですから」
でも、他に理由は考えられない。
僕があんな待ち伏せをしたからいけないんじゃないか。
僕はただ誤解を解きたかっただけなのに。
気持ちを伝えたかっただけなのに。
「先生方は住所とか家の電話番号を知ってるけど、個人情報だから規則で教えられないって」
気軽につながれるけど、一度切れると何も残らない関係なんだ。
僕らは本当はつながってもいなかったんだね。
手を触れたと思っていたのに、心も通じ合っていたと思ったのに、何もつながっていなかったんだね。
凛……。
凛、君は今どこで何を考えているんだ。
僕のことを憎んでいるのか。
僕のことを恨んでいるのか。
でも、その怒りすら、僕にぶつけてくれることはないんだね。
この世に希望はない。
希望のない未来に価値はない。
未来に価値がないのなら、生きる意味がどこにあるというのだ。
凛……。
君の投げ出した時計を僕は拾うよ。
たとえそれが時を止めてしまったものだとしても。
僕は魔法を知らない。
針の止まったその時計を動かす魔法を、僕は知らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます