第33話 永遠という名の魔法

 七月下旬、柳ヶ瀬さんの実習が終わって夏休みになった。夏休みとはいっても、国家試験対策講習やらレポート再提出などで彼女の忙しさは変わらないようだった。

 僕の大学の試験は八月の頭まであった。大学も二年生になると試験の要領はつかめるから僕の方はそれほど苦労はなかった。

 お盆休み前に、二人で二回目の献血をしに行った。

 前回と同じ幕張の免許センターで四百ミリリットル全血献血をした後、二人で幕張ベイサイドモールで食事をした。僕らが出会った場所だ。

 今回はバーベキューではなく、東京湾を見渡せるイタリアンレストランに行った。外は三十度を超えているけど、特殊ガラスの窓の中はまぶしくなくて涼しい。

 僕らは日替わりピザとペペロンチーノをシェアすることにした。

 注文を終えた後、柳ヶ瀬さんがテーブルの上で腕にあごをのせて話を切り出した。

「ねえ、今村君。今度は遠い場所で献血したいとか思わない?」

「たとえば?」

「札幌とか、神戸とか」

「考えもしなかったな」

「だろうね」

 柳ヶ瀬さんは笑っている。

 自分の住んでいる地域じゃなくても献血はできるのか。それならば、たとえば旅行のついでに被災地で献血をするという趣味の人がいてもおかしくはない。それも立派なボランティアだろう。

 でも僕にはそういう発想は全くなかった。どうせ僕は企画力ゼロだ。前例を踏襲する公務員系男子今村和昭だ。

「たまには誘ってくれてもいいんじゃない?」

「どこがいいの?」

「伊豆とか箱根とか」

「箱根に献血センターがあるの?」

「ないよ」

 じゃあ、どういう話なのさ。

「ねえ、今村君」

「はい」

「献血以外で誘ってくれてもいいんじゃないの?」

「そうなの?」

「ああ、なんかもう、イライラする」

 どうも怒らせてしまったようだ。

「君ね、一人で温泉に行けって言うの?」

「そんなことは言ってない」

 僕は女の子の気持ちをすくい上げるのが下手らしい。

 そもそも最初は献血の話だったじゃないか。いつのまにか温泉に変えたのはそっちなのに。理不尽だ。

「そんなに遠くなくてもいいよ」

「献血センターのあるところって、どこだろうね」

 僕は無理矢理献血の話に戻した。ささやかな抵抗だ。

 彼女は少し考えを巡らせてから言った。

「大宮はどうかな。大宮なら高校の友達とプロレスのイベントに行ったことあるし」

「大宮ってどこ?」

「ああ、鹿児島の人は知らないかもね。埼玉県だよ。さいたま市の栄えてるところだね」

 さいたま市という言葉を聞いて、沙紀の『たいたま』を思い出した。懐かしい。ずいぶん昔のことのように思える。

「何、どうかした?」

 柳ヶ瀬さんが僕の顔をのぞき込んでいる。どうも顔が緩んでいたらしい。

「いや、昔ね、埼玉のことを『たいたま』って発音してた人がいてね」

「へえ、舌足らずでかわいいね」

「クラス中のみんなが、答えが『さいたま』になる埼玉クイズというのを出しててさ。懐かしいなって」

「ふうん」

 彼女が口をとがらせる。

「それ、君とどういう関係の人?」

 ん?

「あ、ええと、地元の知り合い。うちは田舎だから、みんな知り合いなんだ」

 曖昧に言うつもりもなかったのに、僕はとっさにごまかしてしまった。

「本当に?」

「あ、まあ、幼馴染みっていうのかな」

「女の子でしょ」

 僕は正直にうなずいた。

「ねえ、今村君」

 はい、なんでしょうか。思わず背筋が伸びる。

「その人が通じ合ってたっていう人?」

「いや、それとは別」

「今村君のヒストリーは濃いね」

 そんなことはない。二人だけだし、どちらも薄い。濃くしているのは僕の方だ。

 ちょうどそのときピザが運ばれてきた。シンプルなマルゲリータだけど、バジルが少し多めだ。いい香りが漂ってくる。

 二人で手を伸ばして取り分けながら食べる。チーズが伸びるのに、柳ヶ瀬さんが無言だ。ピザを食べるときにチーズが伸びると女子は喜ぶものじゃないだろうか。『個人の見解』というやつか。

 無言の女の子にどういう話を振るべきなのか、僕にはさっぱり分からない。

 その後すぐにペペロンチーノも運ばれてきて、ますます会話のきっかけを失ってしまった。

 食事の後、僕のアパートに来た。移動中も彼女は口数が少なかった。

 ベッドの上にならんで座る。お互いに汗をかいている。

「ねえ、私、汗臭くない?」

「そんなことはないよ」

 正直なところ、少し汗ばんだ香りはしている。でも、決して不快な匂いではなかった。無防備さのようなふだんと違う彼女の一面を垣間見たような気がして、むしろ鼓動が高まった。

「ねえ、今村君」

 ん?

「私、心の準備はできているから、いつでもいいからね」

 あ、そういうことだったのか。

 出かけるとか、遠くに行くとかいうのはそういうきっかけの話だったのか。

 さっきからずっと機嫌が悪いのかと思っていた自分を恥じた。

 そういう話を切り出すタイミングを計っていたのか。

 彼女が僕の肩に頭をのせる。

「あのね、べつに嫌がったりしないから安心して」

 よけいな気をつかわせてきたんだなと思った。

「こういうのって自然なことでしょ」

 そうなんだろう。僕が自然じゃないだけだ。

「べつに焦らなくてもいいから。今村君のタイミングでいいから」

 僕は何も言えなかった。ただ、そっと肩を抱くことしかできなかった。

 僕は怖かった。

 いざとなったら怖じ気づくんじゃないだろうか。

 とんでもなくかっこわるいことをしてしまうんじゃないだろうか。

 なんか思ってたのと違うとため息をつかれてしまうんじゃないだろうか。

 後悔させてしまうんじゃないだろうか。

 うまくできる自信がない。

 考えれば考えるほど事態が悪化していく。

 僕の肩で彼女の頭が動いた。いつものシャンプーの香りの中に彼女の皮脂のにおいが混ざっている。

 彼女は眠っていた。

 僕のタイミングというのはいつなんだろう。

 寝息に合わせて柔らかく揺れる彼女の胸を眺めているうちに僕も眠ってしまった。

 お盆明けも彼女は忙しくて、会う暇がなかった。

 ますますタイミングが分からなくなってしまった。

 八月下旬に僕は鹿児島に帰った。お盆の時期は混雑して飛行機代も高いから、少し時期をずらしたのだ。

 鹿児島空港の展望デッキで沙紀と二人で話をした。そのために売店の仕事の昼休みに到着する便を選んでおいた。

「なあ、軽蔑されてもいいから聞いてくれよ」

「あんたさあ、ヘタレのくせに、あたしに軽蔑されてないって思ってたの?」

 え、そうなの?

「冗談も分からない男だったっけ、あんた」

 焦り過ぎか。余裕がないんだな。

 僕は彼女に言われたことを正直に話した。

「タイミングってなんだと思う?」

「そんなの。雰囲気とか、流れにまかせるしかないじゃん。あたしらだってそうだったよ。前に言ったでしょ」

「でも、そのタイミングを間違えたら、セクハラとか、変態とかって言われるんじゃないかって」

「つきあってるんだし、そもそも、あんたの部屋に来る段階で、向こうもそういう覚悟はしてるでしょ。ていうかさ、もうタイミングのがしてるんじゃないの。普通、女の子にそんなこと言わせないでしょ。その時点で遅いってことだよ」

 ああ、そういうものなのか。

「いやでもさ、いざ始めようとしたときに、『そんなつもりじゃなかった』とかって泣かれたりしたら、もうどうしていいのか分からないよ。やっぱりこのタイミングじゃなかったのかって、後悔しても終わりだろ」

「泣かれる前提かよ。女を泣かせたことすらないくせに」

 いや、沙紀だって、彩佳さんだって、泣いてたことはあったぞ。

 いやいや、今はそういう話じゃない。

「よけいなことは考えなくていいじゃん。むこうがいいって言ってるんだからさ。あんたも本気なんでしょ」

「うん、まあ」

「正直な気持ちをぶつければいいじゃん。必死にしがみつけばいいじゃん。君を離さないよって。そうすればたぶんその気持ちは伝わるよ」

「だといいけど、自信がないな」

「あのね、女って、男の必死さだけは分かるのよ。それだけは間違いなく伝わる。それが本物かどうかも、分かる。本物の気持ちなら伝わるって」

「そういうものかな」

「ヤマト、あいつ必死でしょ」

 ああ、そうか。なるほど、ものすごい説得力だ。

「だから、あたしたち、今もずっと一緒にいるのよ」

 なんだよ。うらやましいな。

「あいつ、言葉も足りないし、頭も悪いけど、あたしのこと、ぎゅっと抱きしめてるときの必死さだけは本物だよ」

 真顔で言われるとものすごく恥ずかしい。

「なによ」

 沙紀が不満そうに僕をにらみつける。

「あんたがわざわざこんな遠くまであたしに会いに来たから話してあげてるんでしょ」

 うん、まあ、とてもありがたいことだ。

「で?」

 で?

「あたしと練習してみる?」

「いや、そっちの方が難しいよ」

「なんでよ」

「好きな人がいるから」

 沙紀のおでこが赤くなる。

「あのさ、そういうことは本人に言いなよ。それだけできれば、後は何も心配はいらないはずじゃん。かっこつけようなんて思うなよ。なに、『俺、うまいだろ』とか言いたいわけ?」

 そういうチャラさを持ち合わせた人間に生まれたかったと思わなくもなくはない。

 滑走路に赤い垂直尾翼の767が降りてくる。遅れてエンジン音の混ざった風が吹き抜けていく。沙紀が乱れた髪を撫でている。きれいな横顔だなと思った。

「あんたさ、まだ彩佳のことで悩んでんの?」

 僕はうなずいた。

「でも、その人、柳ヶ瀬さんだっけ、その人のことも本気なんでしょ」

 僕はうなずいた。

「だったら、やっちゃいなよ」

 ストレートだな。

「あのさ、あんた、そうやって言い訳ばっかり考えて逃げたいんでしょ。そういうずるさばっかり磨き上げてどうするのよ。男を磨けよ。そうでしょ。あんたの都合ばっかりで、相手のことを考えてるふりをして、逃げてるだけじゃん」

 そういうものなんだろうか。

「やってさ、終わってしまえばさ、もう戻れないでしょ。その時にあんたが責任を取るかどうか。その覚悟ができるか。戻れなければ覚悟できるんじゃないの」

 僕は返事ができなかった。

「あんたが逃げるんなら、軽蔑する。二度とあんたとは話さない」

 追い込まれてしまった。

「分かったよ」

 全然自信はなかった。でも、いつかは通過しなければならない儀礼なのだ。

 千葉に戻った僕は思いきって柳ヶ瀬さんをアパートに呼んだ。

 分かっていたんだろう。彼女は僕の部屋に入るなり、抱きついてきた。

 僕は彼女の背中に手を回して、ただ手を当てるのが精一杯だった。

「もしかして緊張してる?」

 ベッドに腰掛けた彼女が僕の顔をのぞき込む。

 僕は答えられなかった。

「べつにかっこよくとか、うまくやろうとか、なれてるふりとかしなくていいよ」

 彼女が少しはにかみながら続けた。

「私も全然分からないから、ね」

 彼女が僕の手を取って胸の下に当てる。

「お互いの気持ちを確かめ合うっていうか、そういう感じでいいと思うから」

 彼女が言葉を重ねるたびに僕の頭の中が真っ白に染まっていく。

 どういう手順なのかが分からない。

 服をどうすればいいんだろうか。

 シャワーを浴びるべきなのか。

 戸惑っている僕に彼女が優しくほほえむ。

「どうしたの? そういう気分じゃないの?」

「ち、ちがうよ、そうじゃないんだ」

「前例がないとできないの?」

 僕は首を振った。

「前例がないなら、私たち二人で作ればいいでしょ」

 前例。

 その言葉に、彩佳さんのほほえみが重なる。

 なんで、こんなときに君はほほえんでくれるんだ。

 僕の前例は君なのか。

 でも僕は君に何もできなかったじゃないか。

 僕は柳ヶ瀬さんの背中に手を回してきつく抱き寄せた。僕の背中に回った彼女の手にも力がこもる。彼女の吐息が僕の耳にかかる。

 女の子の体の柔らかさを感じる。彩佳さんの肩を抱き寄せたときの感触が重なる。

 待ってくれ。

 どうして。

 違うんだよ。

 水無月さんの代わりになる人なんかいないし、柳ヶ瀬さんも水無月さんの代わりなんかじゃない。彼女は彼女なんだ。比べること自体失礼だ。

 それなのに僕は彼女の存在に他人の面影を結びつけようとしていた。

 花に花言葉を持たせるように。

 恋の病。

 前例という名の呪縛が僕を苦しめる。

 僕の前例は彩佳さんなのか。

 ならば、彩佳さんを抱きしめることができなかった僕は、永遠に魔法にかけられたままなんじゃないのか。

 彩佳さん、君は僕に永遠の魔法をかけたのか。

 僕は魔法を知らない。

 君の永遠の魔法を解くすべを僕は知らない。

 僕の唇に柔らかなものが触れた。

 一度顔をはなした彼女がはにかんでいる。

 僕は頭の中に思い浮かんだ言葉を口に出していた。

「キライの反対はスキ。じゃあ、スキの反対はなんだろう?」

「今、してるでしょ」

 彼女はもう一度僕に口づけた。

 ああ、そうか。

 そういうことなのか。

 なんで気がつかなかったんだろう。

 彩佳さん。

 僕も君にそうしたかったよ。

 彼女が僕の首に手を回してベッドに倒れ込む。僕は彼女を押し倒していた。僕の右手が彼女の胸をつかんでいた。

 僕の下で彼女は目を閉じている。

 迷うな。

 下半身が男を主張していた。

 いいじゃないか。おまえもほしかったんだろ。最高の獲物じゃないか。

 急にまぶたが震えだす。

 僕は慌てて目を閉じた。

 声が、きこえる。

『カズ君』

 彩佳さん。

『ちゃんと抱きしめてあげなくちゃ』

 そうしたかったよ。

『ちゃんと抱きしめてあげなくちゃ、伝わらないよ』

 だから、僕は……。

 だめだ。目を開けたらすべてが終わる。

 いくら閉じようとしても、もうあふれそうだった。

 僕の目から涙がひとしずくこぼれ落ちた。

 目を開けると、ゆがんだ視界の中で柳ヶ瀬さんが呆然とした表情で僕を見ていた。

 一度にあふれ出した涙がぼとぼとと落ちていく。

 彼女の頬に僕の涙が流れていた。

「どうしたの?」

「ごめん」

 どうして涙が止まらないんだよ。

 止めてくれ。

 僕は泣きたいんじゃない。

 僕は……。

 僕は彼女を抱きしめたいんだ。

 何か言わなければならないのに、言葉が出ない。

「ねえ、今村君」

 彼女は僕を押しのけてベッドの上に起き上がった。

 肩を落としてため息をつく。

「ずっと気になってたの」

 止めなくちゃ。

「私じゃないんだよね」

 彼女の言葉を止めなくちゃ。

「なんていうか、今村君はいつも私じゃない誰かと話してるみたいだよね。なんか、仲のいい友達と話してたら、違う知り合いが通りがかって、急に他人同士の会話になっちゃった時みたいな気分」

 彼女が肩を揺らしながら泣き出す。

「私、じゃなかったのかな」

 違う、そうじゃないんだ。

 言葉が出ない。

 また僕は大切な人を失いそうになっていた。

「私にはそれが何なのかは分からないの。だって、今村君はそれを私に言ってくれないから。いつも言葉を伝えてくれないでしょ」

 ごめんよ。

 その言葉も出なかった。

「言ってくれないから、伝わらない。とても合理的でしょ。君の好きな合理性」

 僕は必死に彼女を抱きとめようとした。

 僕は突き飛ばされた。

「さわらないで!」

 ベッドに転がった僕は起き上がれなかった。

「もう、疲れちゃった。ごめんね」

 彼女は部屋を出て行った。

 僕は動けなかった。

 僕は君を抱きしめたかったのに。

 必死さを伝えたかったのに伝えることができなかった。

 言葉が見つからないからなのか。

 また大切な人を失ってしまった。

 僕はまた心の穴をのぞきこみながら生きていかなければならないのか。

 僕も疲れたよ。

 彩佳。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る