第32話 バレンタインはいつも円周率が1小さくなる日だと思ってた

 つきあうことになったとはいっても、それほど急激に進展したというわけでもない。

 柳ヶ瀬さんは七月まで看護実習で忙しい。僕がバイトの時はコンビニに立ち寄ってくれたけど、それだってお客さん対応をしていたら目で会話して終わりだ。

 もちろんスマホでメッセージのやりとりはする。でも、正直なところ、やっぱり何を書いたらいいのか分からない。

『レポート終わったよ』

『お疲れ様』

『ほめて、ほめて』

『よしよし』

 これはロマンのかけらと言えるのだろうか。

 土日もレポート作成やら国家試験対策模試でつぶれてしまうことが多かった。

 千葉は夢と魔法の国だけど、まだ行ったことはない。行こうと誘われてもいない。

 二人でたまに出かけても、海浜幕張の浜辺に行って意外と広い東京湾を眺めたり、映画を見に行って適当にお茶して帰ってくる。そんな感じだ。

『今日は楽しかったね。また行こうね』

 それでもデートの後はそういったメッセージをくれるし、二人でいるときは笑顔を見せてくれる。

 まあ、逆に大きな失敗はしていないんだろうから、僕にしてみれば上出来だろう。

 沙紀には一応報告しておいた。

『よかったじゃん』

 その一言だけだった。

 まあ、距離が離れると、だんだん関心も薄れていくんだろう。

 そのうち、『あたし、あんたのオカンじゃないし』とか言われたらアガリなのかもしれない。

『チューしたら教えて』

 興味津々かよ。

 一度、柳ヶ瀬さんと二人で買い物に行った。

「僕はファッションセンスゼロだから、服を選んでほしいんだ」

 実際、服装についてはかなり困っていた。大学に行くときはべつに何でもいいし、バイトは制服がある。だけど、デートの時にセンスゼロだと、彼女に迷惑をかけてしまうし、そもそもそれが原因で嫌われたらアウトだ。それならば、正直に言ってしまって、彼女の好みに合わせてしまった方がいい。

 僕は『5のTシャツ』の話をした。

「いつもパジャマ代わりに使っているTシャツがあるんだけどね、5っていう数字が逆さまで、しかもものすごく大きくプリントされてるんだよ」

「意味不明なセンスだね」

 そう言ったきり、彼女は少し考え事をしていた。

「ねえ、今村君」

 ん?

「5の逆さまって、2だよね」

 なんだろう、このデジャヴ。

「違うよ」

「2じゃない?」

「逆さまにしてみれば分かるよ」

「どこかに5って書いてある? スマホのカレンダーに数字が書いてあるかな」

 スマホを起動させて逆さまにすると、画面も回転して元にもどってしまう。

「ああ、もう、よけいな気をつかわないでほしいよね。機械は不便なくらいがちょうどいいのに」

 くるくるスマホを回している彼女に、僕は自分のスマホを取り出して5を見せた。こちらから正位置だと、相手からは逆向きになる。

「あ、ほんとだ、2が左右反転してる形か。なるほどね。でも、そうだよね、トランプでも6と9は下に線を引いて区別しやすくしてあるけど、2と5はべつにそんなことないもんね」

 ようやく納得したらしく、しきりにうなずいている。

「ホントだね、外で着ると恥ずかしいかもね」

 分かってはいるんだけど、言われるとやっぱりへこむ。

「それくらいセンスゼロだから、なんとかしなくちゃと思ってね」

 柳ヶ瀬さんはごくありふれたファストファッションブランドに僕を連れてきた。

「基本的に自分でどうしたらいいか分からない人は、あんまりおしゃれなブランドじゃない方がいいと思うよ。使い回しのできるベーシックなのをそろえておいて、ローテが無難じゃないかな」

 ふむふむ。で、それはどういうものなのかね。

「無地でシンプルなやつがいいよ。今村君はやせてるから、ボーダーを着ると、人込みに紛れてどこにいるか探さなくちゃならなくなっちゃう」

 何を言っているのかよく分からないけど、バイト代で払える範囲で、いろいろそろえることができた。

 六月後半に入って雨の日が多くなった。

『外に行っても何もできないから、今村君の部屋に遊びに行ってもいいかな』

 イベント発動だ。

 その日は早起きして掃除をしたり、シャワーを浴びたりした。

 その行為に特別な意図はない。単に不潔に思われたりしないようにしただけだ。

 シャワーを浴びているときに、「まだ早い、まだ早い」と滝修行のように念仏を唱えていたことは事実だ。とにかく、まだ手をつないで歩くくらいの段階なのだ。焦りは禁物だ。

 蘇我から総武線快速で津田沼まで来るというので駅まで出迎えに行った。曇りで、じめっとした風が吹いているけど雨は降っていなかった。

 彼女は僕も持っている黒のプロレスTシャツを着てきた。僕は二人で買い物に行ったときに選んでもらったシンプルなシャツだったので、丸カブリを防ぐことができた。

「ねえ、今村君」

 ん?

「お昼ご飯作るから、何か買い物していこうよ」

 カノジョの手料理というやつだ。

「調理器具がないよ」

 柳ヶ瀬さんが見せたことのない驚愕の表情を浮かべていた。

「ふだん何食べてるの?」

「コンビニの廃棄弁当」

「体に悪そうだね」

「そうでもないんじゃないかな。サラダとかも出るし、スムージーなんかも飲むよ」

「でも、コンビニのサラダって栄養ないって言うよね」

「そうかもしれないけど、どうせ一人暮らしだと、料理っていっても、スーパーでカット野菜買ってきてドレッシングかけて食べるくらいじゃないかな。レタス丸ごと買っても食べきれなくて腐らせちゃうだろうし」

「君はやっぱり合理的だね」

 柳ヶ瀬さんは立ち止まったまま少し考え事をしていた。

「包丁はある?」

「ないね。まな板もない」

 べつに彩佳さんのことを思い出すからではない。単に使わないからだ。いくらなんでもまな板を抱きしめて涙するほど変態ではない。

「冷蔵庫は」

「小さいのならあるよ。製氷機だけで冷凍はできない昭和みたいなやつ。牛乳とヨーグルトしか入ってない」

「電子レンジは?」

「いちおうある。弁当温めるから」

「ホットプレートなんてあるわけないよね」

 うなずくしかない。

「お湯はどうやって沸かしてるの?」

「追い炊きはないよ」

 彼女が僕の腕をぐりぐりする。

「お風呂じゃなくて、お茶とかコーヒー用に」

「沸かさないね。ドリンクは全部ペットボトルのやつだから」

 ため息をつかれてしまった。

「まあ、今日は仕方がないね。今度、お弁当作ってくるよ」

 さすがの僕でも、コンビニ弁当と何が違うのかなんて、そんなことは言わなかった。バッドエンドぐらいよけられる。課金してチャラにしてもらうわけにもいかないし。これはリアルな戦いなんだ。

 駅を出て大学の前を通り過ぎて住宅街の狭い路地に入る。

「この道、よく三毛猫と会うんだよ」

「見たい!」と興奮してたけど、今はいないようだった。

 アパートの前まで来たらちょうど弥勒先輩が出てきた。残念、猫じゃない。

「こんにちは」と柳ヶ瀬さんが隠れる様子もなく会釈する。

「あれ、この前のバーベキューの時の人だよね」

 弥勒先輩が仏像みたいなポーズを取る。

「御利益あっただろ」

 確かに先輩のおかげだ。僕らは二人で手を合わせて拝んだ。

 先輩はそれ以上僕らに絡んでくることなくどこかに行ってしまった。面倒見のいい先輩だ。

 部屋に入ると、一通り見回して、靴をそろえて上がる。部屋の奥に来て、窓からの景色を確かめる。

「隣もアパートか。まあ、しょうがないよね」

 このあたりは古い住宅街だから道はいりくんでいるし、隣との間隔も狭い。

「本当に何もないんだね」

 柳ヶ瀬さんはがらんとしたキッチンをちらりと見てから僕のベッドの上に腰掛けた。Tシャツのラインがくっきりしていて、意外と胸が強調されている。僕の方がどこに座っていいのか分からなかった。

 部屋中に女の子の香りが漂っている。いつもの部屋じゃない。落ち着けという方が無理だ。とはいえ、向かい合って床に座るのもかえって意識しすぎだろう。

 僕はわざとベッドを揺らしながら彼女の右側に腰掛けた。

 部屋にはベッドと折りたたみのテーブル、小さな本棚しかない。テレビはないし、服は宅配用の段ボール箱をそのまま衣装箱として使っている。

 不潔さはないだろうけど、生活感はないし、潤いが感じられないと言われれば反論はしない。

「ねえ、今村君」

 ん?

「君は運がいいよ」

「そうかな」

 僕以上に運が悪い人なんてそんなにいないんじゃないかな。

「君みたいな人を好きになる女の子なんて、私以外にはいないでしょ」

 僕は返事ができなかった。

「いたの?」と彼女が僕の肩に頭をのせた。

 あえて好きな人がいたことを強調する必要はないのかも知れないし、それが相手に対する思いやりのようなものだということも理解できる。でも、はぐらかすのは抵抗があった。水無月さんに対して、何か大切なことを失うような気がしたからだ。

「たぶん、お互いに気持ちは通じ合っていたと思うんだ」

 僕がつぶやくと、柳ヶ瀬さんが膝の上で僕の左手を握った。

 それ以上僕はまた言葉を見つけることができなかった。

「黙っちゃいやだよ」

 彼女がつぶやく。

 僕はただ膝の上に手を置いて言葉を探すしかできなかった。でも考えれば考えるほど頭の中が真っ白に染まっていく。

「聞くから」

 どうしても言えなかった。

 聞いてほしい気持ちもあった。でも、自分の中で整理ができていないことをあらためて思い知った。梅雨が明ければもうすぐ夏が来る。あれから三年になる。でも、やっぱりまだ僕の中では彩佳さんの記憶は消え去りはしないし、癒えることのない悲しみなのだ。

「ねえ、今村君」

 ん?

 彼女の頭が肩にのっていて、顔を向けることはできない。僕はのどの奥をふるわせて声にならない声で返事をするのが精一杯だった。

「私ね、中学の時に好きな人がいて、その人と結構仲も良かったのよ」

 あれ、どこかで聞いたような話だ。

「それでね、バレンタインの時に思い切ってチョコを渡してみたの」

 うん、それで?

「そしたら、OKだったの」

 ああ、それは良かったね。

 あれ、良かったのかな。ちょっとは嫉妬みたいな気持ちもなくはないけど、まあ中学の時のことを気にするほど、僕だって狭量なガキじゃない、と思う。

 それに、今、僕と一緒にいるということは、そのストーリーの結末は、つまり、そういうことだっていうわけだ。

 しばらく彼女は黙っていた。僕も何も言わずにじっとしていた。体が震えそうになるのを必死にこらえながら彼女の話の続きを待っていた。

「それでね、つきあいはじめたんだけど、中学生だから、手をつないでみたり、二人でお出かけしてみたりとか、そんな程度だったんだけど、私の方は結構真剣にその人のことを好きになっていったのね。そしたら……」

 僕の肩にのった柳ヶ瀬さんの頭が揺れた。僕は右手を彼女の手に重ねて、左手を後ろに回して彼女の腰にそっと添えた。頭の重みが増す。

「その人、べつの女の子ともつきあってたの」

 なんだそれ。二股野郎かよ。

「コクられたから、とりあえずお試しでつきあってみただけだって言われちゃって。二股かけられてたの」

 僕のシャツの肩が湿る。僕には何もできなかった。

「私だけ一人で馬鹿みたいに舞い上がっちゃっててね」

 馬鹿じゃないよ。

 でも言葉が出なかった。

「なんだかものすごく悲しくて、もう、二度と恋なんかしないって空を見上げちゃったんだ。アハハ、ほんと馬鹿みたいでしょ」

 ちゃんと言わなければ伝わらない。なんでもいいから言わなければダメだ。僕はなんとか思いついた言葉を絞り出した。

「強がりを言うことはないよ」

 彼女が鼻をすすりながら僕に抱きついてきた。

 涙を見せたくないんだろう。

 僕は背中に手を回すべきなのか迷っていた。経験がないから分からない。

 女の子の体の柔らかな感触が僕の思考力を奪っていく。

 泣いている彼女の吐息が僕の首をくすぐる。

 なんだかよく分からないけど、気持ちがいい。

 それほど大きくない彼女の胸が僕の胸に当たっている。

 こんなに不思議な感触は未知のものだった。

 でも、それをむさぼって良いのかどうか、僕はまだ迷っていた。

 僕は廃校の夜にきいた彩佳さんの話を思い出していた。

『仲良くおしゃべりして、目があったらドキドキして、同じタイミングで笑い合ったりしてたから、きっと相手も好意を持ってくれているんだと思ってたの』

『でも、チョコを渡したら、からかってるんだろって突き返されちゃったの。その人は私の気持ちを信じてはくれなかった。何だかとても悲しくて、人を好きになるのが怖くなってしまったの』

『自分の気持ちを信じてもらえないなんて予想もしなかったから、どうしたらいいのか分からなくなっちゃって、すごくショックだったの』

 彩佳さんの目。彩佳さんの涙。彩佳さんの手のぬくもり。

 僕の心が記憶で満たされていく。

 今の自分には、背中に軽く手を当てて、柳ヶ瀬さんをそのままにしておくことしかできなかった。

『カズ君』

 え?

『カズ君、ちゃんと抱きしめてあげなくちゃ』

 でも……。

『ちゃんと抱きしめてあげなくちゃ伝わらないよ』

 僕には、それは……。

 僕にはそれはできないよ。

 だって、彩佳さん、僕が好きなのは……。

 だから、それはできないよ。してはならないんだ。

 僕は心の重しを振り払うために彼女の両肩を支えて向き合った。

 今目の前にいる柳ヶ瀬さんに僕は嘘をついた。

「悲しみは受け止めるよ。気持ちは分かるから」

 いや、嘘ではない。共感は嘘ではない。だけど、それに対して何もしてあげられないだけなんだ。

「ありがとう」

「僕もバレンタインは地球の裏側の行事だと思ってたよ」

「そっか」

 彼女が僕から少し離れて、一瞬だけ無理に笑顔を見せてくれた。

 指先で涙をぬぐってから、またうつむく。

「そのバレンタインのことでね、なんか学校に行けなくなっちゃって、それで保健室登校にしてもらったの」

「そうだったんだ」

「だからね、高校生になってからは、バレンタインなんて、いつも円周率が一つ小さくなる日だと思って生きてきたよ」

「円が描けないね。円周率が2.14だとゆがんじゃう」

「うん、だからきれいな恋がしたかったの。今村君みたいなちゃんとした人に出会いたいなってずっと思ってた。今村君は人をだますようなことはしないでしょ」

 僕はうなずいた。

 嘘ではない。

 だますつもりはない。

 ただ、隠し事をしているだけだ。

 それも、許してはもらえないことなのだろうか。

「僕は小学校六年生までおねしょをしていたんだ」

 柳ヶ瀬さんがぷっと笑う。

「急にどうしたの? 鼻水出ちゃったじゃない」

 ベッドサイドのティッシュボックスをわたす。この箱は僕も鼻をかむときにしか使っていない物だ。遠慮なく使ってほしい。

「ごめん。ぼくはうまくものが言えないから。何か元気づけられることはないかなって」

 顔をくしゃくしゃにしながらほほえんでいる。

「その話は元気になるのかな」

「僕にも分からないけど」

「まあ、笑っちゃったし、今村君のちょっと恥ずかしい秘密を聞いちゃったから、いいのかな」

 目からはまだ涙がこぼれてくるけれども、彼女は笑顔だ。ティッシュを何枚も使っている。たくさん使っていいから。僕はあまり使っていないから。

 僕のおなかが鳴った。彼女が笑う。和やかな空気に包まれる。自分のおなかに感謝したのは初めてだ。

「おなかすいたね」

「どうしようか」

「外に出るしかないね。ここには何もないから」

 彼女が手をたたく。

「ねえ、実習に通ってる病院の近くにおいしいパン屋さんがあるって聞いたんだけど、行ってみない。ここから遠くないよね」

 僕たちは部屋を出て湿った風の吹く街を歩いた。

 大学の敷地に沿って反対側の地域まで出ると、総合病院の建物が見えた。

「実習で何科とか、あるの?」

「今はね、形成外科。包帯ぐるぐるしてるよ」

「へえ、すごいね」

「巻いてあげようか」

 それは何かのプレイというヤツなのだろうか。

「束縛する女の子はどう?」

「されたことがないから分からないな」

「また前例?」

 ちょっとウケたらしい。

「そんなに前例が好きなら、作ってあげようか」

「健康ってありがたいね」

 僕の返事が気に入ったらしく、また彼女は笑っていた。

 病院から少し国道に近い方へ歩いたところにログハウス風の店舗が現れた。十台分くらいの駐車場があって、満車だ。

「はやってるね」

「それくらいおいしいんじゃない」

 彼女は期待に満ちた目でドアを引いた。カランカランと鈴が鳴る。

 ふわりと小麦の香りが鼻をくすぐる。入ったとたんに分かる。当たりだ。

 回廊式の配置で、窓辺と奥に棚があって中央の台には食パンやバゲット類が並んでいる。レジ横の保冷器にはサンドイッチ類が並んでいた。

 柳ヶ瀬さんはトレイとトングを持って棚を見て回る。僕はサンドイッチ類を見ていた。ロールパンに挟まったローストビーフサンドがおいしそうだ。

 店内を一回りしてきた彼女が僕の隣で保冷器を眺めている。

「とりあえずこれだけ選んだけど、今村君は?」

 彼女の持つトレイにはどれもおいしそうなパンが並んでいた。

 カレーパンと数種類のチーズがちりばめられたバゲット、カリッと焼き色のついたスライスアーモンドがのったデニッシュ、それと栗の形のアンパンだ。

「僕はこのローストビーフのやつで」

 彼女が一つトレイにのせた。

「私も同じのにしようかな」

「僕もその栗のパンがいいな」

 柳ヶ瀬さんはローストビーフサンドをもう一つ取って、栗アンパンを取りに戻った。

 会計を済ませてアパートに戻るときに聞いてみた。

「栗好きなの?」

「大好き」

 僕も君が好きだ。

 アパートで折り畳み足のテーブルを出して、ベッドにもたれながらパンを食べた。ローストビーフサンドはソースとレホールのバランスが良くて、それをしっかりと小麦の味がするパンが支えていた。

「おいしいね」

「良かった、当たりで。また行こうね」

 栗ペーストのあんこが入ったパンを最後に二人で食べると、彼女は僕の膝の上の左手を握って肩にもたれかかった。どうしたものか迷っているうちに、彼女の頭が重くなった。

 肩を揺らしながら柔らかな寝息を立てている。

 実習で疲れているんだろう。レポートも毎日書かなければならなくて大変だと言っていた。せっかく書いても全部書き直しさせられるんだそうだ。

 部屋の窓を雨が叩く。降り出したのか。

 僕は起こしてしまわないように、右腕だけひねってベッドからタオルケットを取って彼女にかけた。

 僕の肩は寝心地がいいらしい。

 円周率がいくつでも、半径がゼロならいびつな円にはならない。一つの点だ。

 僕らの間に距離はなく、一つに結びついている。そのはずだ。

 そのはずなのに、僕の頭の中には、あの廃校の夜、彩佳さんと二人で過ごした時間がよみがえってきた。

 あの時も僕は何もできなかった。

 ただ肩を抱いて彼女を眠らせておくだけだった。

 あの時、どうすればよかったんだろうか。

 彩佳さんは僕にどうしてほしかったんだろうか。

 あの時僕は……。

 いつのまにか僕も眠ってしまっていたらしい。

 気がつくと柳ヶ瀬さんが僕の顔をじっと見つめていた。

「あ、ごめん、寝ちゃってた」

 彼女が優しく微笑む。

「ねえ、今村君」

 ん?

「君はいい人だね」

 そうなのか?

「とても優しい人。私が思っていた通りの人だよ」

 何もしなかった僕を柳ヶ瀬さんは誠実な人と勘違いしたらしい。

「私ね」

 彼女はそっと僕の耳元でささやいた。

「しあわせ」

 その時、僕の心には彩佳さんの微笑みが浮かんでいた。

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