第31話 つながるこころ

 献血は一年間にできる量が決められている。

 四百ミリリットル全血献血の場合、約三回分千二百ミリリットルまでで、三、四ヶ月ほど間を開けなければならない。次回可能になる日付は献血カードに記載されている。僕の場合は、夏まで待たなければならなかった。

 柳ヶ瀬さんからメッセージは来なかった。

 僕から言うべきことも思いつかなかった。

 スマホに文字を打っては消しの繰り返しだった。

『献血に行くのを楽しみにしています』

『また献血に誘ってください』

『いやあ、献血って、本当にいいものですね』

 べつに彼女のことよりも、献血のことばかり考えていたわけではない。

 ただ、他に共通の話題が思い浮かばなかったのだ。

 急にプロレスに興味を持ったところで、ニワカが一番嫌われることぐらいは分かっている。

 鹿児島の沙紀には二人で献血に行ったことを電話で話した。

「その人、あんたに好意を持っているのは間違いないでしょ」

「なんで分かる?」

「あのさ、あんたさ、花言葉の話なんて、好意を感じていない男とするわけないじゃん。気づけよ、バカ」

 そうなのかな。

 たまたまオクラの花の待ち受け画面だったからじゃないのか。偶然だろ。

「スイーツ・バイキングだって、好きでもない男を誘うわけないでしょうが」

「甘い物が食べたかっただけとか」

「あのさ、なんでスマホってこれほど進化しても音とか画面しか伝わらないんだろうね。あんたのことグーで殴ってやりたいわ」

 パンチのスタンプで結構です。

「あのさ、あんたが弱気になる理由は分かるけど、新しい出会いがあったんだから、ダメ元でやってみればいいじゃん。ダメならダメで縁がなかったんだなでいいじゃん。彩佳みたいにさ……」

 と、沙紀が言いよどんだ。

「彩佳みたいに、気持ちが通じ合ってから別れるのはつらいだろうけど、脈がなかっただけなら、そんなに負担にならないでしょ」

 まあ、そういうものだろうか。

「もっと気軽に女の子とつきあってみればいいじゃん。案外、いいものかもよ。振られたらオネエサンが相手してやるから、泣きながら鹿児島まで帰っておいで」

「誘惑してるのかよ」

「へへ、そうですよ」

 電話が切れた。

 メッセージが来る。

『あんたにそんな勇気ないだろ』

 パンチのスタンプつきだ。

 まあ、お見通しか。

 そもそも、こうやって悩んでいるのは、僕が柳ヶ瀬さんに好意を抱いているからなのは、もちろん自覚していた。いくら僕でもそのくらいのことは分かる。ただやっぱり、失敗するのは怖かった。

 目を閉じると彼女のことが思い浮かぶ。

 べつにそんなつもりじゃなかったの。

 勘違いさせてごめんなさい。

 あなたの言うとおり、キャッチセールスだったの。

 本当は全部血を抜いて捨てるつもりだったの。

 やだあ、だまされた男が悪いに決まってるでしょ。

 最悪のシナリオばかりが思いつく。

 そのたびに、柳ヶ瀬さんはそんな人じゃない、と心の弁護団が『勝訴』の札を持って駆けつける。

 でも、かんじんの僕自身に全く自信がなかった。

 彩佳さんのことを忘れたわけでもない。

 なんというか、二人の女性を同時に好きになるのは良くないのではないかという罪悪感があった。自分が二股可能なハイスペック男子ではないことは重々承知している。

 一方で、大学生にもなって、そんな中学生みたいなことで悩まなくてもいいんじゃないかという気持ちもわいてくる。

 やっちまえよ。

 ノリだよノリ。

 べつに、そんなにマジメに考えなくてもいいじゃんか。

 これだから童……。

 いつもだいたいこのへんで自主規制が入る。僕の精神が案外健全な証拠だ。

 どちらにしろ、僕が柳ヶ瀬さんに好意を抱いていることは間違いない。悩んでいるという事実がそれを物語っていた。

 でも、きっかけがなかった。

 何もできないまま時間が過ぎていった。

 そんな状態だったにもかかわらず、柳ヶ瀬さんと再会できたのは、意外と早かった。

 五月の連休明けにいつものコンビニでアルバイトをしていたら、彼女がお店にやってきたのだった。

 夕方のシフトで、僕は品出しをしていた。

「ねえ、今村君」

 しゃがんで作業をしていたときに頭上から声をかけられてちょっとびっくりした。

「はい、なんでしょうか」

 顔を上げて彼女が視界に入ったとき、お互いに苦笑してしまった。

 業務モードの自分がいやになる。

 彼女はブレザーの制服姿だった。専攻科といってもいちおう高校生扱いなのだろう。つい見とれてしまった。数週間ぶりに見る彼女はやっぱり僕が心の中で思い描いたとおりだった。

「実習の帰りなんだよ」

 あ、そういえば、このあたりの病院だって言ってたっけ。

「へえ、そうなのか」

 僕は普通に返事をしたつもりだったけど、彼女はどうも気に入らなかったらしい。

「せっかく会いに来たのに、またつかみどころのない返事だね」

 ああ、会いに来てくれたのか。場所は教えてあったからそうなんだろう。

「ああ、どうも」

 気のきいたセリフがまるで思い浮かばない。口がパクパクしてしまいそうになる。

 レジお願いしますと声がかかって、僕は行かなければならなかった。

「ごめん」

「ううん、ごめんね。いそがしいときに」

 レジが混雑している間、彼女は店内を歩いて新作のお菓子なんかを見ているようだった。僕はお客さんの対応をしながら、視界の端で彼女を追っていた。

 流れが途切れるのを見計らうようにして、柳ヶ瀬さんがストロベリー味のチョコレートを持ってレジに来た。新作ではなく、定番の物だった。

 不意に記憶がよみがえる。

 彩佳さんとしもむらに帽子を買いに行った日、コンビニで彼女が買っていた物と同じだ。

 べつに珍しい商品ではないから、いちいち特別視することはないのに、急に顔が熱くなってしまった。

『バレンタイン半年前記念だよ』

 記憶の中の彩佳さんが鮮明に浮かんでくる。あのときの自分に教えてやりたい。早くコクっちまえよ。まあ、未来の自分からそんなことを言われても、それでもなお萎縮してしまうのが僕だろう。

「袋はいりません」

 柳ヶ瀬さんの言葉で、現実に引き戻される。

「はい、ありがとうございます」

 目の前にいる彼女に悟られないように、努めて事務的に会計処理をした。

 最後に彼女が小声で言った。

「今度バイトはいつ?」

「あ、明日かな」

「じゃあ、また明日来るね」

 そう言い残して彼女はコンビニを出て行った。

 翌日、彼女は来なかった。

 夜、バイトを終えて、もらってきた廃棄弁当をアパートで食べているときにメッセージが届いた。

『レポートで忙しくて今日は行けなかったの。ごめんね』

 僕はスマホの画面をぼんやりと眺めながら、コンビニで見た制服姿の柳ヶ瀬さんを思い浮かべた。

 幕張海浜高校の制服だ。彩佳さんが着ていたものと同じだ。

 どうしても意識してしまう。

『カズ君、おはよう』

『カズ君、宿題やってきた?』

『カズ君、ここの問題教えて』

 妄想が膨らんでいく。同じ高校で一緒に勉強がしたかった。

 あれから僕は大学生になったのに、彼女は制服姿のままだ。彩佳さんが遠い存在になっていく。僕らの時計は止まったままなのに距離が開いていく。縮まることはないのだ。切なさばかりがこみ上げてくる。

 僕は柳ヶ瀬さんに返信せずに寝てしまった。

 翌日、午後イチの講義が休講になった。もともと一コマしか入れていなかったので、まるまる暇になってしまった。

 午前中は雨だったけど、昼にはあがっていた。灰色の雲が流れていく。もう今日は降らないだろう。

 僕はなんとなく幕張へ行ってみた。

 幕張海浜高校を見てみようと思ったのだ。

 柳ヶ瀬さんに会おうという意図はなかった。そんなことをしたらストーカーと間違われるだろうし、そもそも実習で病院に行っているはずだから、会えるわけがなかった。

 昨日の柳ヶ瀬さんの制服姿を見て、彩佳さんが通っていた高校の雰囲気を感じてみたくなっただけだ。そう自分に言い訳をして、僕は電車に乗った。

 千葉に来てから一年ちょっとになるけれども、総武線幕張駅周辺を歩いたことはあっても、京葉線海浜幕張駅周辺を歩いたことはなかった。だからこの前みたいに、シティーモールとベイサイドモールを間違えるなんて恥ずかしいことになってしまう。

 幕張駅から海浜幕張駅まではかなり遠い。国道や高速道路を挟んで反対側の地域になる。全く別の街だと思った方がいい。歩道橋や立体交差などで、やはり土地は平らなのに地味に疲れる構造になっている。時間的には歩いて三、四十分くらいだ。

 僕はスマホの地図を頼りに幕張駅から歩き始めた。

 さびれた昭和の雰囲気を残すゆるい坂道を下っていくと国道十四号線に出る。広い交差点を横断して緑地に出る。公園というよりは、水路に沿った街路樹が放置されて生い茂ってしまったような不思議な空間だ。周辺はマンションの並ぶ都会なのにフクロウでも鳴いていそうな雰囲気だ。特に今日は曇り空なのでなおさら陰鬱な感じが強調されている。

 ふと、スマホの地図を拡大して現在地を確認してみた。高速道路の向こう側だと思っていたのに、手前側に幕張海浜高校と表示されていることに気づいた。

 この陰鬱な並木に沿って進むようだった。

 なんとなく街の様子が彩佳さんから知らされていた華やかな学園生活のイメージとは合わなかったけれども、僕はスマホの指示に従って歩いた。

 前方から見覚えのあるブレザーを着た女子生徒のグループがやってくる。間違いなく幕張海浜高校の生徒だ。スマホが正しいらしい。

 女子高生グループとすれ違って、すぐに学校に着くのかと思ったら、延々と緑地が続いてそこからさらに五分くらいは歩いた。なのに、まだそれらしい建物は見えてこない。埋め立て地の区画というのは、下手な田舎よりも距離があって、感覚が狂ってしまう。

 学校の敷地の奥の方から湾岸高速道路を通過するトラックの走行音が聞こえてくる。それ以外は自分の靴音しかしない。都会のはずなのに異世界に紛れ込んだような感覚に襲われる。

 ようやく校門が見えた。たしかに大きな文字で幕張海浜高校と掲示されている。

 しかし、僕が彩佳さんのスマホで見せてもらった校舎とは全く違っていた。ガラス張りで、ショッピングモールかと間違えそうな独特な形状だったはずなのに、目の前にあるのは伊佐高校のような日本中どこにでもありがちな四角いコンクリート校舎で、エレベーター棟もどこにもない。僕は途方に暮れてしまった。

 校内は静かで、全く人の気配がしない。たしか二千人くらい生徒がいると言っていたはずだ。今日は臨時休校なんだろうか。

「ねえ、今村君」

 横から声をかけられて僕は思わず飛び退いてしまった。

 制服姿の女子生徒がいた。

 しかも僕を知っている。

 ほんの一瞬、僕は甘い期待を抱いた。

 しかしそれは水無月さんではなかった。

「何してるの、こんなところで」

 柳ヶ瀬さんだった。

「どうしたの? めちゃくちゃ肩がピクッてなって、弾け飛びそうな勢いだったよ。そんなに驚いた?」

「あ、いや、前ばかり見てたからね」

 彩佳さんでなかったことでガッカリしてしまうなんて、ものすごく失礼なことだ。汗が噴き出てくる。耳の中に自分の脈拍が響く。

「私に会いに来てくれたの?」

 返事ができない僕をニヤニヤしながら見上げている。

「もしかして、ストーカー?」

 僕は慌てて両手を振った。

「ち、違うんだ」

 まずい、人生が終わる。

 完全にやばいヤツ扱いだ。

 でも、柳ヶ瀬さんは僕の腕をつついてのぞきこむように僕に顔を近づけてくる。

「キャッチセールスVSストーカー。私たち、お似合いじゃない?」

 何とか言い訳を考えてこのピンチを逃れなければならない。

「ここ、幕張海浜高校だよね」

「そうだけど」

「エレベーターがあったり、ガラス張りの校舎があるって聞いてたんだけど、なんか、思ってたのと違うんだ」

 柳ヶ瀬さんが手をたたいて笑い出す。

「ああ、それ、普通科でしょ。結構間違える人いるんだよね。スマホを見ながら来たんでしょ」

 その通りだ。

「ここは看護科の敷地なのよ。普通科はね、あの高速道路の向こう側なの。別世界よ」

「あ、そういうことなのか」

 柳ヶ瀬さんの説明によれば、もともと看護科は昭和の頃までまったく別の高校だったのが、統合されて幕張海浜高校として一体化したらしい。だから、普通科とは敷地が別々で、隣接してもいないんだそうだ。しかも看護科は各学年四十名程度なので、人も少ないということだった。田舎の伊佐高校よりも少ない。どうりでひっそりとしているはずだ。

「あ、じゃあ、普通科にはどうやって行ったらいいのかな」

「普通科に用があるの?」

「建築に興味があって。僕は工学部の建築学科なんだ」

 具体的な例をあげることで自分の嘘を補強する。僕も少しはズルさを身につけたつもりだ。

「へえ、かっこいいね」と柳ヶ瀬さんが僕を見上げる。

 正直、うれしかった。かっこいいなんて言われたことはない。

「建築学科っていいよね。私も看護じゃなかったら、興味持ってたかも」

 あ、かっこいいって、そっちのことか。まあ、分かってましたけどね。分かってましたって。

「私が連れていってあげるよ」

「もう学校は終わり?」

「今日はレポートの提出と、国家試験のガイダンスでね、実習が休みで特別日課なんだ」

「ふうん」

 国家試験という言葉の響きが重く感じられた。資格の取得は大変なんだろうな。

「ねえ、今村君」

 ん?

「お昼食べた?」

「いや、まだだけど」

「じゃあ、この前の約束、今日でいいでしょ」

「次の献血は夏だよね」

「だから、その前は?」

「前?」

 彼女がじっと僕を見つめている。だんだん目の表情が変わっていく。

 前?

「スイーツ・バイキングに行くっていう約束忘れちゃったの?」

「あ、そうか」

 柳ヶ瀬さんが頬を膨らませる。

「本気で忘れちゃってたでしょ。もう、ひどいなあ」

「ごめん、ごめん」

 僕は必死に弁明を考えたけど、考えれば考えるほど頭が真っ白になっていく。

「いいよ、行こう」

 柳ヶ瀬さんが僕の腕を押して歩き出す。僕が今歩いてきた道を戻っていく。途中に高速道路を渡るような橋や地下通路はなかったはずだ。

「あれ、こっちなの?」

「そうだよ。けっこう遠いけど」

 この道に入って校門前までに来るのに歩いて十分くらいかかった。またそれを戻らなければならないのか。しかも、普通科の敷地が高速道路の向こう側にあるということは、さらにまた同じ距離を戻ることになるわけだ。

「三十分近くかからないかな?」

「うん、かかるよ。私たちも、めったに行かないもん」

「たいへんだからいいよ」

「どうして? 建築に興味があるんでしょ」

 まあ、そう言ってしまった以上、いまさらでまかせでしたとも言えない。

 それに案内してもらったお礼ということでスイーツ・バイキングに誘う口実になるわけだから、彼女の厚意に甘えておいた方がいいような気もした。

 僕の隣で彼女が空を見上げた。

「あ、晴れてきたね」

 鈍い色の雲の切れ間からレースのカーテンのような光が一筋下りてきていた。

「ねえ、今村君」

 ん?

「君って、晴れ男だね」

 そんなことはない。

 花火大会は台風が直撃するような男だ。

 柳ヶ瀬さんが僕に頭を傾けてくる。

「今日はクンクンしないの?」

 クンクン?

「最近ね、ちょっと多めにシャンプーをつけるようになったの」

 どうも僕は変態認定されているらしい。

 思い切り息を吸い込む。

「どう?」

 どうって言われても。

「この前と同じ香りだね」

 柳ヶ瀬さんは少し口をすぼめてから、小さな笑みを浮かべた。

「あいかわらずつかみどころのない返事だよね」

 正直、うまい受け答えなんか思いつかない。

 普段あまり人としゃべらないから、聞かれたことに対してとりあえず返事をするので精一杯だ。それがつかみどころのない返事だというのなら、僕の性格というよりは異性に対する慣れの問題なのかもしれない。

 沙紀と話しているときにはそんなふうに言われたことはなかった。僕が沙紀のことを異性として意識していなかったからなんだろうか。いや、決してそういうわけではない。二人でいた時間の長さの問題だ。ならば、柳ヶ瀬さんと過ごす時間が増えれば、僕にも少しは余裕が出てくるんだろう。ただ、そうなるまで、彼女は待ってくれるんだろうか。僕は女の子を待たせておけるようなハイスペック男子ではないのにな。

 さっきの不思議な緑地まで戻ってきて、柳ヶ瀬さんが角を曲がった。直進しそうになって僕は慌てて向きを変えて追いかけた。いつのまにかまた自分の中だけで考え事をしてしまっていた。

 高速道路の高架橋の下に並行する国道の交差点がある。交通量が多いせいか横断歩道はなくて、歩行者は歩道橋を渡るようになっていた。

 柳ヶ瀬さんはどんどん歩道橋の階段を上がっていく。はずむような足取りで二段ずつ跳んでいく。お尻が上がって、スカートが揺れている。僕は思わず凝視してしまった。いや、何も見えてはいない。ただ短い布が揺れているだけだ。だけど、目をそらすことができなかった。

 階段を上りきったところで彼女が振り向く。

「どうしたの? 疲れちゃったの? 体力ないね」

「幕張駅からずっと歩いてきたからね」

 僕は上を見ないように自分の足下を確認しながら階段を駆け上がった。

「筋トレでもした方がいいんじゃないの?」

 上で待っていた彼女が僕の腕をつつく。

 彼女は僕が下から見上げていたことには気づいていないようだった。

 歩道橋を渡りきって下に降りたところで、柳ヶ瀬さんは角を曲がらずに直進していく。メディカルセンターと職業訓練校という看板の立っている建物の前をどんどん歩いて行く。

「あれ、曲がらなくていいの?」

「そっち、裏だから。どうせ表に回らないといけないでしょ」

 なるほど。埋め立て地で土地があまっているせいか、一つの区画がやたらと大きい。もうこの段階で飽きてしまう距離だった。

 マンションやホテルが建ち並ぶ区画まできて、ようやく彼女が左に曲がる。道路標識では、右方向に海浜幕張駅があるようだった。

「本当に遠いんだね」

「でしょ。同じ高校にする必要ないよね。まあ、でもおかげで部活とか、文化祭とかはおもしろいけどね。看護科は人数少ないから普段は地味だもん」

 これは僕も分かる。田舎の伊佐高校はクラスが少ないから文化祭の出し物の種類がないし、人もいないから盛り上がらない。部活もチームを作れないから、競技の種類が限られてしまう。もちろん、試合で勝ち上がれるほどの選手層の厚さもない。

 予算も奪い合いになって分散されてしまうから、なんでも中途半端になってしまう。組織の規模というのは大事なのだ。

 普通科に向かう道路は道幅が広くて、歩道も車が通れそうなほどの幅がある。周辺ではいくつかの高層マンションが建設中で、ダンプカーがうなりを上げて走っていく。看護科の方の道路とは違って、街路樹も植え込みもきちんと手入れされていて、雰囲気が全く違う。これが彩佳さんに見せてもらった写真の世界なんだなと思った。

 前の方から、手をつなぎながら歩いている高校生二人がやってくる。男子は彩佳さんと一緒に写真に写っていたようなイケメンで、女子も派手ではないけれども、自分の良さを自覚していることが分かるスタイルだ。

 彩佳さんと初めて会ったときに感じたのと同じだった。他人から見られている姿と、こう見られたいという自分を一致させている女子。全く嫌みのない美人だ。

「ああいうの、良くない?」と柳ヶ瀬さんが僕に顔を近づけてくる。

「うん、きれいな人だよね」

 うわっ!

 脇腹をつつかれる。

「手をつないで下校することよ!」

「ああ、そっちか。どうだろうね」

「何、その返事。あこがれるものでしょ」

 まあ、『個人の感想』というやつだ。

「やったことないから、分からない」

「ああ、もう、そうじゃないでしょ」

 え、何が?

 怒った声に驚いて顔を向けると、柳ヶ瀬さんが僕をにらんでいた。

「ねえ、今村君」

「はい」

「君はやったことがないことはこれからもやらないの?」

「そういうわけじゃないけど」

「前例がないとやらないって、私たちは公務員じゃありません」

 まあ、そうだ。

「前例は作ればいいでしょ」

「そうだね」

 彼女が急に立ち止まった。

「あのね、手をつないでって言ってるの」

 ああ、そうなのか。

 手をつなぐのが良いという感想を聞かされただけかと思ったから、とは口に出しては言わなかったけど、どう返事をしたらよいか分からなかった。

「ねえ、今村君。手をつなぎたくない理由でもあるの?」

「だから、つないだことがないからだよ」

「君に関する歴史の勉強をしたいわけじゃありません。ほかには?」

「相手に触れるのは失礼なのかなと思って」

「屁理屈ばっかり。潔癖性とか?」

「それはないよ」

「ねえ、今村君。君ってさ、服とか、そのへんに脱ぎ捨てる人?」

「いや、服は脱がないかな」

「また、おもしろい答えだね」

「だって、服を脱ぐ時って、シャワーを浴びるときぐらいじゃないか? だったら、その時に洗濯機に入れちゃうだろ。部屋にいるときに服を脱ぐという状況が分からない」

「君は合理的な人間だね。理系の人」

 柳ヶ瀬さんが自分自信の言葉をかみしめるようにうなずく。

 僕は反論した。なんとなく、カテゴリーでくくられたくなかったのだ。

「面倒くさがりなのかも。そこらへんに置くと、片づけなくちゃならないだろ。だったら、最初から決められたところに入れた方が早いじゃん」

「それを合理的って言うんでしょ」

 あ、そうか。

 くすりと彼女が笑う。

「几帳面とか、きれい好きというわけじゃないんだね」

「うん、あんまりこだわりはないと思う」

「ちゃんと毎日シャワー浴びてる?」

「一応そうしてるけど」

 彼女が僕に鼻を寄せてくんくんとかぐ。

 おもわずのけぞる。

 彼女の手が伸びてきて、僕の手をつかんだ。細くて少し長い指だ。小さな爪がきれいに整えられている。

「ちょっと、逃げないでよ」

 べつに逃げるつもりはなかったんだけどな。

「汗くさいと思われたらやだから」

「思わないよ。今村君はくさくないし」

 そう言った彼女が僕の手を握ったまま、ちょっとうつむいた。

「私は?」

 え?

「私はくさくない?」

「そりゃ、もちろん」

 ふわりとシャンプーの香りが漂う。

 僕は彼女の手を握り返した。

 やっと柳ヶ瀬さんは微笑んでくれた。

 とても素敵な笑顔だと思った。

 ああ、僕もこの人を笑顔にできるかもしれない。

 そんなふうに思った。

 二人で手をつないで歩き出す。

 体が離れないようにくっついて歩くのは難しい。それに、タイミングも合わせないと、前後にずれてしまって腕がひねられてしまう。先生に手を引かれている幼稚園の子供みたいになってしまう。二人三脚じゃないのに、手をつないで歩くことがこんなに難しいとは知らなかった。手に汗までかいてしまっている。

 さっきすれ違った高校生二人は、こんな難しいことを自然にこなしていたのか。相当な上級者だ。コツがあるなら教えてほしい。

 柳ヶ瀬さんが僕の歩調に合わせながらこちらを見上げている。

「服を脱ぎ捨てるのって、セミだけにしてほしいよね」

 ああ、抜け殻のことか。

「セミって、なんであんなに抜け殻が目立つんだろうね。チョウもさなぎから出てくるけど、あんまり見かけないでしょ」

 そう言われてみればそうだ。

「セミって鳴き声がうるさいくらい目立つけど、あんまり姿って見えないでしょ。木にくっついてるのって、よく見ないとどこにいるか分からないじゃない?」

「そうだね」

「なのに抜け殻って、なんであんなにすぐに分かるんだろうね」

 そう言われてみればそうだ。

「でも誰も行儀悪いって言わないのよね」

 セミだって言われても困るだろうな。

「お父さんの靴下みたいに臭くないからじゃないかな」

 僕は思わずつまらないことを言ってしまった。

「なるほど。今村君はいいことを言うね」

 なんだかよく分からないけど、ほめてもらえたようだ。

 今日は会話がかみ合っているんだろうか。

 セミの抜け殻というのはロマンのかけらと関係あるんだろうか。

 僕は抜け殻なんだと言ったら、彼女は笑うだろうか。

 心の中にぽっかりと穴が開いているんだよ。

 悪魔ですら見向きもしないほど、僕には何の価値もないんだ。

 いや、笑って受け流してくれるなら、その方がいい。

 そんなポエムみたいなセリフを言う男なんて、気持ち悪くて嫌がられるだけだろう。

 言うべき言葉が見つからなくて、僕はいつの間にか黙り込んでしまっていた。

 彼女が立ち止まる。腕を引っ張られて振り向いた。

「ねえ、今村君」

 ん?

「歩くの速いよ」

 むしろ彼女の速さに合わせていたつもりだったんだけどな。

「もっとゆっくり。せっかく手をつないだんだから、この瞬間を大事にしながら歩くんだよ」

「もっとゆっくり、この瞬間を大事にしながら歩くんだね」

 柳ヶ瀬さんの眉が八の字になる。

「その通りだけど、君が言うとロマンのかけらもないのはなんでだろうね」

「ごめんね」

「しょうがない。許してあげる」

 ちょっと胸を張る。まな板ほどではないけれども、あんまりボリュームはないようだ。

 沙紀のを見慣れているせいか、基準がおかしいんだろうか。中身は見たことないのにな。

「なに?」

 え?

 いや、なんでもないです。

 湿り気を含んだ海風が吹いてくる。変な汗が出てきたところで、ちょうど校舎が見えてきた。

 写真で見ていた通り、独特なガラス張りの校舎にエレベーター棟が付属している。全体を丸屋根が覆っていて、僕が知っている学校の校舎とはまったく異質な建築物だった。これだ。写真で見ていた風景が目の前に広がっていた。

 僕は校門前に立って、中の様子をしばらく眺めていた。

 彩佳さんのいた高校。

 様々な想いが去来する。

 君のいた場所。

 でも今はもうここにはいない場所。

 不意に、柳ヶ瀬さんの手に少し力が込められたような気がした。

 顔を向けると、彼女が僕を見上げていた。

「どう? 感想は」

「あ、うん、想像していた通りだね」

「建築家としてのご意見を聞きたかったんだけどね」

 彼女が僕にぶつかってくる。

 できの悪い学生で済みませんね。

 僕も腕で押し返した。

 口をとがらせて彼女がもう一度押してくる。

 これじゃあ、まるでイチャイチャしてるみたいじゃないか。

 でも、下校する生徒達は特に僕たちに興味を示すわけでもなく、海浜幕張駅の方へ歩いていく。思ったよりもイチャイチャ成分が足りないのだろうか。ロマンのかけらというやつか。

 柳ヶ瀬さんがクスクス笑っている。ご機嫌がよろしくて何よりだ。

 僕は彼女にたずねた。

「ここから駅まではどのくらいかかるの?」

「十五分くらいかな」

「じゃあ、あとはスイーツ・バイキングの約束を果たそうか」

「中は見なくていいの?」

「部外者が入っちゃまずいんじゃないかな」

「先生に許可をもらえばいいんじゃない? 頼んであげようか」

 そのためには事情を説明しなければならないのではないかと思った。水無月さんのことを話さなければならなくなる。あまり柳ヶ瀬さんに知られたくない話だ。そこまでして見なくてもいいだろう。

「今日はいいよ。場所は分かったから気が向いたらまた来るよ」

「そう」

 柳ヶ瀬さんは乗り気でない僕を不思議そうに見上げながらぽつりとつぶやいた。

 僕は雰囲気を変えるために彼女の手を引いて歩き出した。

「行こうよ、スイーツ・バイキング」

 うん、と彼女がついてくる。

 来た道を戻る。今日は同じ道を戻ってばかりいる。

 交差点の赤信号で立ち止まったときに、柳ヶ瀬さんが言った。

「ねえ、今村君」

 ん?

「昨日はどうして返信くれなかったの?」

 スマホのメッセージのことか。

「レポートで忙しそうだったから」

「そのまんまだね。私のメッセージの」

 水無月さんのことを考えていたから、なんて説明できないし、説明する理由もない。かといって、他になんの言い訳も思いつかない。

「でも、わざわざ会いに来てくれたんでしょ」

 え?

 あれ、もしかして誤解してる?

 誤解でもないか。偶然みたいなものだけどね。

「あ、うん、まあ、その……」

 僕が言葉を探していると、柳ヶ瀬さんが思いがけないことを言った。

「うれしかったよ」

「え、あ」

 間抜けな声しか出なかった。

「ストーカーと間違えられたらどうしようかと迷ってたんだけどね」

 信号が青に変わったのに、彼女は立ち止まったままだ。

「ねえ、今村君」

 ん?

「カノジョを誘うのに、もうちょっとロマンのかけらくらいあってもいいんじゃない?」

「カノジョなの?」

「なによ。わざわざそうだって言わせたいの?」

「いや、まさか、この瞬間だとは思わなかったから」

 心の準備なんかまるでない。

「私だって思ってなかったよ。イヤなの?」

「ことわるわけないじゃん」

「どうして?」

「僕はそんな余裕のあるハイスペック男子じゃないし、女の子を振ったこともないし」

「また前例? 公務員系男子の告白?」

「ちがうよ。もてたことがないから分からないんだよ」

 腕をぐりぐりされる。

「そこはね、好きだからとか、君と一緒にいたいからとか、嘘でもいいからロマンを添えてくれてもいいじゃない」

「言わないよ」

「どうして?」

「嘘じゃないから。本気だから」

 彼女が一瞬固まる。

 でも、この瞬間を永遠に変える魔法を僕は知らない。

 次の瞬間彼女の目に涙が浮かんできた。

「よかった。振られるかとずっと心配だったんだからね」

 曇り空の裂け目から明るい日差しが降りてくる。

 遠くで高校のチャイムが鳴り響く。

 彼女が僕の両手をとった。肩をすぼめながら腕を振って広げる。きれいな輪ができた。2πrの円だ。ダンスでも踊るのかと思ったけど、交差点の角だ。左折の車がゆっくりと通りすぎていく。

 彼女はうつむいたままじっとしていた。少し肩が震えた。

「女の子泣かせたの初めてでしょ」

 そうだね。

 あ、でも、沙紀とけんかして泣かせたことはあったかな。彩佳さんだって泣いてたときもあったっけ。こんな僕でもいろいろな場面が思い浮かぶ。

 僕が返事を忘れていると、彼女が僕の手をつかんだまま引っ張って、僕の手の甲に頬を押しつけた。2πrの円が一つの点になる。僕の手が彼女の涙で濡れる。

「今村君が泣かせたから今村君の手で拭いてるんだよ。文句ある?」

 僕はゆっくりと首を振った。

 僕の手に押しつけられた彼女の泣き顔が、いつの間にか笑顔になっている。

 手をつなぐというのは心もつながることなんだな。

 そんなことも知らなかった僕にもこうしてカノジョができた。

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