第30話 新しい出会い
大学二年生になった。
僕は単位を落とすこともなく、平凡な日常を過ごしていた。
あいかわらず心の中は曇り空だけど、コンビニのバイトは続けていたし、やるべきことはいっぱいあるので、それをこなしているだけで時間は過ぎていった。
日常というのはありがたい。そうやって新しい記憶を上書きしていって、悲しみや苦しみを忘却の彼方に送り出してくれるのだろう。
怒りのエネルギーが持続しないのと同じように、悲しみを維持していくのにもエネルギーがいる。それが健全さの証なのだ。もちろん悲しみが薄れていくからといって、それが冒涜になるというわけでもないだろう。決して忘れたわけではない。祈りというものは静かに継続していくものなのだ。
弥勒先輩は修士課程に進むらしく、四年生になっても特にいそがしいというわけでもないようだった。
二年生になってすぐの四月、コンビニで弥勒先輩に呼ばれた。
「今村君さ、合コンあるんだけど、どう?」
これまでもしょっちゅうそういう誘いは受けていた。でも、僕は参加したことはなかった。僕みたいな地味な人間が参加しても居心地が悪いだけだろうと思ったからだった。
ただ、初めてアパートで会ったときに言われていたように、強制でもないし、断ったからといって人間関係が面倒になることはなかった。
一人暮らしで精神的に落ち込んでしまうことのないように、ボランティアで「変わりはないか」と声をかけてくれているのだ。
「いや、僕はいいです」
今日もいつものように断ったけど、先輩がめずらしくたたみかけてきた。
「今回はちょっと頼むよ。メンバーがあんまり集まらなくてさ」
じゃあ中止にすればいいんじゃないかと思ったけど、どうも事情があるらしい。
「うちの大学はね、昔から幕張の看護学校と飲み会の交流があってさ。定期的にお互いの学生を紹介し合ってるわけさ。うちは理系で男ばかりだろ。こんなチャンスをつぶすと、苦労してきた先輩達に文句を言われるわけさ」
幕張には県立の看護系短大があって、そちらは女性ばかりで、こちらは理系男子の集団だ。二つ合わせればちょうどいいということで、昭和の時代からずっと続いている交流なのだそうだ。
そういう話を聞いても、僕みたいな人間の出番じゃないような気がする。
「なあ、ナースの卵だぜ。どう?」
残念ながら女性の職業属性に幻想を抱いたことがない。うちの母親が看護師であることは伏せておいた。
「今村君はカノジョはいないんだろ」
返事をするまでもない。僕の授業選択を把握していてバイトをパズルのように埋めているのは弥勒先輩だ。デートがあるからと仕事を断ったことなど一度もない。
「今回だけでいいから、頼むよ」
渋る僕に、先輩が一言付け加えた。
「今回はさ、幕張海浜高校の看護科っていうところの女子達でさ、高校三年間の上に、さらに二年間の専攻科っていうのがあって……」
幕張海浜高校。
僕はその言葉に釘付けになっていた。
「まあ、向こうは高校生みたいな扱いだから、基本的にお酒は出ないんで、君も気軽に参加してよ」
僕はうなずいていた。
合コンはゴールデンウィーク前の日曜日におこなわれた。昼にバーベキューをやって、その後、歩いて海に移動してキャッキャウフフのゲーム大会の予定らしい。ずいぶんと健全な交流会だ。逆に昼間でお酒が入らないから人が集まらなかったのかもしれない。
僕は海浜幕張駅前の幕張シティーモールへ行った。ここはうちの父親が働いている会社の系列で、姶良のショッピングモールと同じ桃色の看板が目立つ。そういえば本社も幕張にあると聞いていた。
十一時集合と聞いていたのにどうもそれらしい人たちがいない。僕は心配になって弥勒先輩に連絡を取った。
『そっちじゃないよ。ベイサイドモールの方だよ』
ベイサイドモール?
僕はスマホで検索した。
同じ海浜幕張なのに、シティーモールとベイサイドモールの二つあるのだった。僕は走り出した。
海浜幕張周辺は埋め立て地に高層ビルが建ち並ぶエリアで、どの道も片側二車線や三車線の直線道路で、交差点には横断歩道ではなく、歩道橋や立体遊歩道が設置されている。土地は平らなのに歩きだと地味に疲れる構造だ。
高層ビル群の間に、桃色の看板が見える。シティーモールからそんなに離れていないのに、なんで大型店舗を二つも出店しているんだろう。うちの父親の会社の経営方針は間違っていないんだろうか。
周辺道路は車があふれていた。交差点で右折できない車がたまっていて、直進のレーンもふさがっている。ビル群を抜けて開けたところまで出たときに、僕は思わず息をのんだ。
幕張ベイサイドモールはさっきのシティモールの建物を三つ並べたくらいの規模があって、これまで見たこともないほど巨大な建築物だった。秦の始皇帝の宮殿か、戦艦大和か、とにかく人間が作った物とは思えない建物だったのだ。宇宙ステーションからでも肉眼で見えるんじゃないだろうか。
さっきからずっと続いている渋滞はここに向かう車の列だったらしく、駐車場待ちだけで一キロは続いている。しかもまだ午前中だ。鹿児島ではこんな風景は見たことがない。巨大戦艦のような迫力に圧倒されて、姶良のショッピングモールが公園のアヒルボートみたいに思えてしまった。
ベイサイドモールは東館、西館、南館の三つの建物を空中回廊でつないであって、東館の端から中に入ったのはいいものの、人がやたらと多くて、走るどころか間を縫って進むこともできずに、先輩に指示された西館屋上までたどり着くのにさらに十五分もかかってしまった。
「お、やっときたか」
いつものチェック柄のシャツにスキニージーンズの弥勒先輩が手を振って出迎えてくれたのは屋上に出店しているキャンプ施設だった。ショッピングモールの屋上でバーベキューをしたりテントを張って夜景を楽しめる話題のおしゃれスポットなんだそうだ。
自然の中だと虫がいて嫌だという人や、道具を用意したり後片付けが面倒だという人も、ここならアウトドアを楽しめると評判らしい。それをキャンプとかアウトドアと呼んでいいのかは僕には分からないけど、実際、僕らのグループの他に、何組かの家族連れがいたり、モンゴルの遊牧民みたいな大きなテントの前でおしゃれな服装のカップルが写真を取り合ったりして、けっこうにぎわっていた。
今日のイベントは工業大学チームが六人で、看護専攻科チームが五人のメンバーだった。
簡単な自己紹介が始まった。
「じゃあ、とりあえず幹事からいかせてもらいます」
弥勒先輩が一歩前に出た。
「工学部四年生の弥勒修平といいます。弥勒菩薩のミロクです。御利益のありそうな名前ですので、悩み事がある人はお参りしてください。彼氏募集のお願いなら、今すぐかないますよ」
女性達から乾いた笑いが起こる。手を合わせて拝む仕草をする女の子もいる。
弥勒菩薩のミロク。入学時にアパートの部屋で最初に会ったときに聞いたようなフレーズだった。
そうか、こういうときに使う持ちネタだったのか。
合コンに参加したことがないから一年間気がつかなかった。
僕は思わず声に出してつぶやいてしまった。
「おいおい、今村君さ、恥ずかしいから持ちネタとか言うのはやめてくれよ」
弥勒先輩が大げさに照れた仕草をして、はじけた笑いに包まれる。僕も恥ずかしかったけど、かえって和やかな雰囲気になってくれて助かった。
僕には興味を引ける持ちネタがない。昭和の反対で和昭なんて、場が凍りつくことくらい僕でも分かる。いくら場をつなぐためだったとはいえ、彩佳さんにそんなことを言ってしまったのを思い出すと、今頃になって顔から火を噴きそうな気分になる。まあ、消しゴムのケースに書いてくれたくらいだから、それはそれでいい思い出だけれども。
そう、少しずつ、いい思い出ととらえられるようになってきていたのだ。
ただ、自己紹介に関してはよけいな心配だった。弥勒先輩のあとは、男女交互に名前だけ言って終わりだった。僕も名前だけ言って頭を下げて終わり。誰も僕のことなど注目していないし、今言ったばかりの名前だってもう忘れてしまっているだろう。それでいいのだ。今日は昼ご飯を食べに来ただけなのだから。
看護専攻科の女性達は僕と同じ学年の人たちばかりだった。高校三年間の上に専攻科というのが二年間あって、最後に国家試験を受けて看護師になるらしい。その最終学年の人たちということだった。
「私たち、五月の連休明けから二ヶ月実習が続くので、今日はたくさん食べて体力をつけようと思います。ガッツリ行くんでみなさんドン引きしないでください」
女性グループの代表の人が最後にしめて、ジュースの乾杯でバーベキューが始まった。
四月後半だけど、気温は二十五度近くまで上がっていて、雲一つない好天だ。ベイサイドだから少し強めに風が吹くときがあるけど、炭火に近寄ると自然と汗ばんでしまう。
正直なところ、こういう場でどういう態度や行動を取るべきなのか、僕にはよく分からない。昔から団体行動が苦手だった。とりあえずしらけさせない程度に協力しようという気はあるし、誰かが笑ったら、それに便乗して楽しんでいるふりをするくらいのことはできる。でも、自分から話しかけることはできないし、一発芸も持ち合わせていない。
そんな心配をしながら黙々と焼けた肉を口に運んでいたら、横から女の子に声をかけられた。
「ねえ、君って、プロレス好きなの?」
僕より頭半分くらい背が低い感じの女の子だった。顎のラインで髪を切りそろえてあって、丸顔が強調されている。さっき自己紹介の時には印象に残らなかったけど、近くで見るとどこか気になる雰囲気だった。申し訳ないけど、名前は覚えていない。
「え、どうして?」
「だって、そのTシャツそうでしょ」
今日は彩佳さんに選んでもらった黒Tシャツを着ていた。白のロンTとの重ね着。僕の精一杯のおしゃれだ。プロレス団体のロゴがついていることを忘れていた。
「しもむらのやつでしょ。コラボしてたやつだよね。実は私も持ってるんだ。着てくれば良かったな。おそろいだったのにね」
おそろいというよりは、カブリというのか、昭和のペアルックというのか、どちらにしても気まずいんじゃないだろうか。どうにも返事に困ってしまった。
「一緒に行く?」
え?
「私、よくプロレス見に行くんだ」
「あ、ごめん。僕はプロレスのことは全然知らないんだ」
どうもプロレスファンと勘違いさせてしまったようだ。
「ごめんね。勘違いさせちゃって」
「いいよ、べつに。それだけで興味持ったわけじゃないから」
彼女は笑顔を作って見せてくれた。
その時僕は気がついた。涙袋だ。目の下のふくらみが柔和な笑顔にとてもよく似合っていたのだ。だからちょっと気になったんだろうか。
そんなことを考えていたら、彼女が思いがけないことを言った。
「私たち、話が合うね。私、柳ヶ瀬凛ね」
ヤナガセさん。ヤナガセさん。僕は名前を忘れないように必死に復唱しながら自分の名前を言った。
「あ、今村和昭です」
それにしても、話が合うのか?
さっきからことごとくすれ違っているような気がするけど。
「ねえ、今村君はどこ出身なの?」
「あ、千葉じゃないって分かりますか?」
気にしたことはないけど、訛りでもあるんだろうか。
彼女が首をかしげる。
「え、だって今日は男の人は地方出身者の集まりなんでしょ。私たちは全員地元だけどね」
え、そんなの聞いてないぞ。そうか、だから弥勒先輩は今回だけやたらと僕を誘っていたのか。そういえば弥勒先輩も長野出身だと聞いたことがある。
女子と話すのは久しぶりだし、話も行き違いがひどくて、合わせようとすればするほど焦ってしまう。
「か、鹿児島です」
一言答えるのがやっとだった。
「へえ、鹿児島かあ。薩摩隼斗っていうんでしょ。西郷さんのモノマネが持ちネタとか?」
鹿児島イコール西郷さんと言われても、決して不快な感じではなかった。僕だって千葉のことはピーナツくらいしか知らない。しかも、千葉の人は地元のピーナツは高いからあまり食べないらしいし。
「いや、生まれは茨城なんだ」
「そういうのは薩摩隼人とは言わないものなの?」
「うん、産地偽装だね」
「産地偽装って、牛肉じゃないんだから」
彼女の笑い方は朗らかで、決して嫌味な感じではなかった。
会話が途切れてしまって、汗が噴き出てしまった。こういう感覚は何年ぶりだろう。あの夏、彩佳さんと初めて出会ったとき以来だ。
あの時も会話をつなぐのに必死だった。バスターミナルから高校近くのコンビニまで、そんなに距離はないのに、ものすごく長い時間のように思えたものだ。でも、それが今となってはとても短い思い出に凝縮されてしまっているのだから、不思議なものだ。
「ねえ、鹿児島弁で『おまえのことが好きだ』ってなんて言うの?」
え?
あ、つい考え事をしていて、目の前にいる柳ヶ瀬さんのことを忘れていた。ものすごく失礼で申し訳ない。
「僕は知らないや。標準語でも言ったことないし」
焦ってよけいなモテないアピールをしてしまった。
「まわりで言ってる人はいなかったの?」
僕の地元はもともと若い人が少ないから、そういう場面に出くわしたことがない。それに、僕らの世代はあまり方言を使わない。せいぜい『とても』とか、『すごい』という意味で『わっぜ』を連呼するくらいだ。うちの親も関東出身だから、アクセントもそんなに変じゃないはずだ。
「少子化ってこわいな」
「どうしたの、急に。政治家にでもなるの?」
途中を省いて思いついたことを言ってしまったせいか、柳ヶ瀬さんが不思議そうな顔で僕を見ていた。
「鹿児島のどこなの?」
「伊佐市っていうんだけど、分からないよね」
柳ヶ瀬さんがこくりとうなずく。まあ、それはそうだろう。
彼女が僕を見つめている。
ん?
あ、そうか、説明するのを待っているのか。
僕はポケットからスマホを取り出して鹿児島の地図を表示した。
「鹿児島の北の方で、熊本とか宮崎に近いところなんだよ」
「ふうん。ああ、山の中なんだね」
スマホに表示される情報を見ても、他には特に話題がない。
「面積三百九十二平方キロ、人口二万五千人って、三万もいないのか」
僕らが小学生の頃はそう習ったはずなのに、知らないうちに過疎化が進んでいてびっくりだ。
柳ヶ瀬さんが僕のスマホをのぞきこむ。
「今村君って、やっぱり理系なんだね。数字ばっかり。名所とかは?」
名物? 名所? 何もない。
「何もない街……、伊佐」
キャッチフレーズみたいな説明しかできない。
「じゃあ、将来は伊佐市の市長さんを目指すの?」
え、どういうこと?
「政治家になるんでしょ」
いや、そういうわけじゃないんだけどな。
僕が困惑していると、柳ヶ瀬さんが焼けた肉をひょいとつまんで皿にのせた。僕もテーブルにスマホを置いて同じようにした。二人同時に口に入れる。少しだけ話をしなくてもすむ時間ができた。そうか、困ったときは食べればいいのか。ふだん一人でコンビニ弁当ばかり食べているから、そんなことも分からないんだ。
通知が来たらしく、テーブルの上のスマホが光って待ち受け画面が表示される。オクラの花の写真だ。
柳ヶ瀬さんが左手に箸を持ち替えて、右手で僕のスマホを指した。
「それオクラの花でしょ」
「あ、うん」
向日葵とかチューリップみたいな一般的な花じゃないから、すぐに花の名前をいわれてちょっと驚いた。
「あたしもネバネバ系好きなんだ。毎朝納豆食べるよ」
「僕はあんまり食べないかな」
「でも茨城出身なんでしょ。納豆の本場じゃない?」
そう言われてみればそうだ。
「でもまあ、生まれて何年かだけで、その後はずっと鹿児島だからね」
「鹿児島の人は納豆食べないの?」
「そういうわけでもないね」
「じゃあ、『個人の感想』?」
僕がうなずくと、彼女がふうんと何度かうなずきながらたずねた。
「とろろご飯は?」
「苦手かな。あんまり食べたことないし」
「え、おいしいよ。牛タンに麦トロご飯なんて、最高でしょ」
「食べたことないな」
「じゃあ、今度食べに行こうよ」
ああ、まあ、と曖昧にうなずくしかなかった。
そんな態度の僕なのに、あ、それ焼けたねとか、ジュースいるとか、なにかと気をつかってくれる。
食べ物もあらかたなくなってきて、椅子に座って休んでいる人もでてきたところで、僕と柳ヶ瀬さんもベンチに並んで腰掛けた。
「ねえ、今村君」
ん?
「オクラの花言葉って、知ってる?」
僕は即答した。
「恋の病」
「え、なんで知ってるの?」
おでこがぶつかるんじゃないかというくらいの勢いで彼女が前のめりに僕の顔をのぞき込んできた。
まさか、恋の病にかかっているからなんて、そんなポエムみたいなセリフを初対面の人に言うわけにはいかないことくらい、いくら僕でも分かっている。
「たまたま知ってただけだよ」
「花言葉に詳しいの?」
「いや、他のは全然」
彼女が苦笑する。
「今村君って、不思議だよね。プロレスに興味がないのにプロレスのTシャツ着てるし、鹿児島出身なのに生まれは茨城。花言葉に詳しいわけじゃないのにオクラだけは詳しいし。なのにネバネバ系は食べないって。ここまで外すと狙い過ぎじゃない?」
「ごめんね。話が合わなくて」
僕が謝ると、彼女が僕の腕を軽く押した。
「そんなことないよ。おもしろいなって言ってるの。あ、これもすれ違ってるっていうことなの?」
僕も不思議な人だなと思った。一生懸命に話してくれて、僕の一言一言をよく拾ってくれる。人とこんなに話したのは久しぶりだった。
「でも残念」
え?
「オクラの花言葉なんて、ふつう知らないでしょ。だから『何、教えて』とかって聞かれて、『恋の病』ってささやくのが夢だったの」
「ぶちこわしてごめん」
素直に謝ると彼女が笑う。
「べつにそんな、ぶちこわしたなんて、そこまで破壊力ないから心配しないでよ。乙女心はそこまでもろくないから。ちょっとしたロマンのかけらに憧れているだけ」
ロマンのかけらか。どこで売ってるんだろう。ヴィレヴァン? カルディ?
「でも、そもそも、オクラの花を話題にするチャンスなんて、ふつうはないでしょ。私たち、運命なのかな」
運命?
ベートーベンしか思い浮かばない。
柳ヶ瀬さんがしゃべり続けている。
「花言葉って、案外役に立たないのよ。みんなたいてい知らないし」
「きれいだから贈りたいでいいんじゃないかな」
彼女の話になんとか合わせるのが精一杯だった。
「でしょ、そうなのよね」
「花も勝手に意味をつけられると迷惑なのかもしれないよね。『私はそんな花じゃない』って」
「うん、今村君はいいこと言うね」
ほめてもらえて光栄だ。
「ねえ、今村君。君って鈍感?」
そういえば、彩佳さんにも同じことを聞かれたっけ。どうして鈍感に見られるんだろう?
「脇腹つつかれるとビクッてなるよ」
彼女が手を出してくる。思わず飛び退く。
「あはは、ほんと弱いんだね」
けらけら笑っている。
「さっきから、一生懸命誘ってるんだけどな」
え、あ、そうなのか。
僕は焦ってしまって、よけいなことを口走ってしまった。
「中学の時の先生が言ってたんだ。『都会に出たらだまされないようにしろ。美人が近づいてきたら詐欺だと思え』って」
「どういうこと?」
「高い物を売りつけるセールスか何かだって」
「ねえ、今村君」
ん?
「初対面の女の子にそれを言うのは、次からは止めた方がいいよ」
「どうして?」
「気分を悪くするからよ」
脇腹をぐりぐりされる。思わず飛び退く。
柳ヶ瀬さんが笑う。
「でも、今、私のことを『美人』って言ってくれたから許してあげる」
ん、言ったっけ?
詐欺師呼ばわりしただけな気がする。
「まあでも確かに、誘ってるって言っても、デートって意味ではないんだけどね」
どういうこと?
「一緒に献血に行こうよ」
献血?
「私たち、看護の勉強してるでしょ。それで、よくみんなで行くのよ。だから、一緒にどうかなと思って。興味持って協力してくれる人が増えると、世の中のためにもなるでしょ」
なるほど、そういうことか。
話は分かる。
でも、ちょっと期待というか、ときめいたというか、そんな僕の気持ちはどうしたらいいんだろうか。
「やっぱりキャッチセールスみたい?」
彼女が首をかしげながら僕を見つめる。
不意に風が吹いて、炭火の香りに混じって懐かしい香りが漂ってきた。シャンプーだ。シャンプーの香りが僕の知っている香りと同じなのだ。
思わず、思いっきり息を吸い込んでしまった。
「どうしたの?」
「シャンプーの香りにおぼえがあって」
「やだ、今村君、キモイよ」
「あ、うん、ごめん」
「でも、合格」
え、合格?
「私ね、男の趣味悪いねってよく言われるのよ」
それはとても光栄なこと、なのか?。
「私ね、理想のプロポーズがあるの。『これからもずっと一緒に献血しませんか』っていうの、どう?」
どう返事をしたらいいのか分からなくて曖昧な笑みを浮かべた僕に、不満そうな顔を向ける。
「いいでしょ、乙女の妄想が入ってたって。少しくらいロマンを求めてもいいじゃない」
あんまりロマンチックに思えないから返事に困ってるんだけどな。
「ずっと健康でね、仲良くいましょうねっていう意味なんだから」
そうか。そうだな。
とても大事なことだ。
僕はちゃんとそれを口に出して伝えた。
「とても大事なことだよね」
「そうでしょ。死んだら献血できないもん。献体になっちゃうよね」
「献体?」
「私たちって、看護の勉強で解剖の実習ってあるのよ」
ああ、そういうやつか。
「お役に立てるなら、僕もそうしてもらえるといいな」
彼女が微笑む。
「でもね、そんな先の話じゃなくて、まずは献血しようよ」
「そうだね」
「今から時間ある?」
え、今から?
もともとこの後もイベントが続く予定だったんじゃないのか。
「あ、まあ、空けてあるけど」
「じゃあ、今から献血に行こうよ」
今から?
「いっぱい食べたから、体力モリモリでしょ」
緊張して味なんか全然分からなかったけどね。
「献血の前にはしっかり食事をしておかなくちゃいけないの」
「ふうん、そうなのか」
「人に元気を与えるときは自分が元気じゃなくちゃいけないんだよ」
なるほど、そういうものか。
柳ヶ瀬さんが立ち上がって僕に手を差し出す。
「じゃあ、行こうよ」
僕は女の人の手を握るのはセクハラにあたるんじゃないかと思ってそのまま立ち上がった。彼女は口をとがらせながら手を引っ込めた。
献血に行くから途中で抜けると話をしにいくと、先輩に驚かれた。
「なんだよ、お持ち帰り? やるねえ」
そういう感じじゃないような気がするんだけどな。
「行ってこいよ。二度と誘わないからな、コラ」
先輩が親指を立てて笑顔で送り出してくれる。面倒見のいい先輩だ。
僕にとって献血は初めてのことだった。
ベイサイドモールから少し歩いたところに千葉県の運転免許試験場があって、そこの敷地内に献血センターがあるのだった。
柳ヶ瀬さんは登録カードを持っていて、僕は新しくそのカードを作った。献血をする人は思ったよりもたくさんいて、問診やら事前の血液検査に時間がかかるようだった。ジュースを飲んだりして待っている間、僕たちはお互いのことを話した。
柳ヶ瀬さんは千葉の蘇我というところに住んでいて、ふだんは京葉線を利用しているらしい。今度彼女が看護の実習をする病院は津田沼にあって、僕の大学のすぐ近くにあるようだった。その関係で僕のアパートの場所やらバイト先のコンビニの話で間をつなぐことができた。
献血は無事に終わった。特に体調に変化もなく、なんだかあっさりとしたものだった。
「どうだった? 初めての経験は」
「特に感想もないかな」
柳ヶ瀬さんが苦笑する。
「ほんと、今村君って、つかみどころがないね」
まあでも、うまい言葉も思いつかない。
「ねえ、今村君」
ん?
「女の子の大好物ってなんだと思う?」
僕は即答した。
「コイバナ?」
きょとんとした顔で僕を見つめる。
「あ、うん、まあ、それもそうだけど、やっぱりスイーツ系でしょ。献血のあとは体力を取り戻さなくちゃいけないからスイーツ・バイキングに行こうよ」
コイバナなんて、ダダ滑りだ。
思わず苦笑してしまった。
そんな僕を彼女が見上げて微笑む。
「今村君って、意外と経験豊富? モテない男子は、コイバナなんて答えないでしょ」
とんだ誤解を受けたようだ。
僕らは春の午後の日差しを受けながら海浜幕張駅まで歩いた。街路樹の若葉が斜光を受けて輝いている。柳ヶ瀬さんは僕にぴったりと寄り添うように歩いていて、僕は手が触れないように微妙な間隔を保つのに苦労していた。手が触れてセクハラとか言われたら困ってしまう。
時折風に乗ってシャンプーの香りが届く。つい、息を吸い込んでしまう。
少し距離があったけど、彼女は幕張で開催されたプロレスイベントの話や、高校課程の時に世界史だけ赤点だったことなど、いろいろな話題を出してくれた。僕は適当に相づちを打つのが精一杯だったけど、柳ヶ瀬さんは絶えず微笑んでいてくれた。
彼女が高二のときに、僕の大学の学園祭でプロレスイベントがあったらしい。わざわざそれだけ見に行ったそうだ。スマホの写真も見せてくれた。ファンだというレスラーの腕にしがみついて満面の笑みだ。こんなにうれしそうな彼女は、今日はまだ見ていない。
見てみたい。
そんなふうに思った。
「でもね、あれ以来、やってくれなくて残念なのよ。今村君、企画してよ」
そんなこと言われてもね。
「じゃあ、かわりに私をプロレスに連れてってよ」
そんなこと言われてもね。
僕は返事に困ってしまって、曖昧な笑みを浮かべるくらいしかできなかった。
駅前のビルに入っているスイーツ・バイキングは、中高生くらいの女の子たちが行列を作っていた。
「あ、やっぱり日曜日だから人がいっぱいだね」
柳ヶ瀬さんは残念そうに口をとがらせながら首をかしげた。
「一時間待ちだって、どうしようか」
正直なところ、こんな女性ばかりの所に一時間も並んでいて、しかも女子と一対一で間を持たせるなんて、僕には絶対に無理だ。
「じゃあ、今日はあきらめよう」
僕の返事に彼女がため息をつく。
「ずいぶんあきらめがいいんだね」
彼女が突然僕の手を取って歩き出した。
汗が噴き出す。
手もじっとりと濡れているような気がする。
柳ヶ瀬さんは人込みを縫うように僕を引っ張って海浜幕張駅まで歩いていった。
改札口の脇で立ち止まると、手を離して僕と向き合った。
「今村君は京葉線?」
「あ、幕張駅の方だね」
「じゃあ、ここでお別れだね」
と言ったきり、彼女はうつむいて動かない。
この後、どうしたらいいんだろうか。
雑踏の中で僕らの間に沈黙が続く。
「ねえ、今村君」
「はい」
「忘れ物」
え、なんかあったっけ?
財布?
スマホ?
「連絡先をまだ交換してないでしょ」
あ、そうか。
僕は慌ててスマホを取り出した。
柳ヶ瀬さんが自分のスマホを起動させて前に突き出した。
「写真も撮ってないでしょ」
彼女が背伸びをして顔を寄せてくる。僕は動けなかった。
カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ。
「連写になっちゃった」
「お約束だね」
僕がそう言うと、彼女がほほえみながらスマホのデータ交換をしてくれた。
お互いにスマホをしまって、もう一度向かい合う。
「じゃあ……」
彼女が何かを言いかけて、僕はつい別れの挨拶だろうと思って、片手を上げてしまった。
「あ、じゃ」
お互いに曖昧な挨拶になってしまった。
柳ヶ瀬さんが最後に思いがけないことを言った。
「一生懸命話を合わせようとしてくれてありがとうね」
全部ばれていたらしい。
「あ、いや、うん」
曖昧な返事しかできない僕の腕を軽くつついてから、彼女は改札を抜けていった。
僕は彼女の背中を目で追った。ホームへの階段を上がるかと思ったら、彼女はエキナカのお店に入っていった。カルディだ。
ロマンのかけらでも探すんだろうか。
いまいち話が噛み合わなかったような気がするけど、なんとか一日過ごすことができてよかった。
献血もしたし。
社会貢献をすると気分がいい。
僕はスマホを取り出して彼女からもらった写真を表示させた。
メッセージを送信する。
『また、献血したいです』
すぐに既読がついて柳ヶ瀬さんがカルディから出てきた。こっちを見て手を振ってくれる。
高架線から電車の轟音が降ってくる。彼女は下り線ホームへの階段を駆け上がっていった。
階段を人がたくさん下りてくる。人の波に巻き込まれないように僕は北口広場に出た。
スマホが光る。
『献血の前にスイーツね』
筋トレでもしようかな。
そんなことを考えながら、僕は家路についた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます