第29話 大学生活

 千葉での大学生活が始まった。

 津田沼という街は千葉と船橋の間にあって、いくつかの鉄道や国道の交差点となっている場所だ。商業施設も豊富で、鹿児島の田舎から出てきた僕にとっては十分大都会だった。ただ、そのどれもが少し前の時代にできた物らしく、姶良のショッピングモールに比べても、天井の低さとか照明の色合いなどの雰囲気、そして歯抜けの空きテナントが昭和の面影を感じさせていた。駅から五分も歩くと広大なネギ畑が広がっていたりして、決して居心地は悪くなかった。

 大学は駅の目の前にある。僕は大学で紹介された徒歩三分の学生用アパートに入居した。家賃三万円の1Kだけど、エアコン付きで風呂トイレが別々というのは千葉とはいえ破格の条件だった。しかも洗浄機付き便座完備だ。

 入居者は同じ大学の学生だからあまり気を使わずに済むし、互助組織まであった。

「やあ、新入生だよね」

 その人がたずねてきたのは入学式の前日だった。

「はい」

「俺、このアパートでサークルみたいなのを任されてる弥勒っていうんだ。弥勒菩薩のミロク。工学部の三年生ね」

 太い黒縁の眼鏡にチェック柄のシャツで、下は黒のスキニージーンズ。横幅があるのに太っている感じがしない。サイズ感という言葉が思い浮かぶ。おしゃれなのかオタクっぽいのかどっちなのかよく分からない印象だった。弥勒菩薩のミロクなんていう名前のせいか、落ち着いた声のせいもあって、初対面でも話に引き込むのがうまい人のようだった。だから幹事役を任されているんだろう。

「あ、どうも、今村って言います」

 僕が当たり障りのない自己紹介をすると、先輩が軽くドアにもたれかかって話を続けた。

「サークルっていっても、何かの活動をしているわけじゃなくて、まあ、飲み会とか、ようするに住んでいる者同士の親睦会をやってるんだよ」

「あ、そうですか」

「慣れない一人暮らしで引きこもりになったり病んだりするやつがいるから、お互いに声かけをしていこうっていうことでね。べつに何かしてもらうわけじゃないからさ。いちおうみんなに声をかけて誘うんだけど、都合が悪かったり、行く気がなかったら、はっきり断ってくれてかまわないからさ。べつにそれでトラブルになるとかはないんでね」

「あ、そうですか」

 特に興味はなかったので、同じ返事しかできなかった。

 そんな僕を見て弥勒先輩がニヤリと笑みを浮かべた。

「君は大丈夫そうだね」

「え?」

「なんとなく分かるんだ。やばいやつって、実際いるからね。中退して実家に帰るならいいんだけど、政治団体とか変な宗教に入っていなくなっちゃうやつとかさ」

 僕は大丈夫なのか?

 まあ、ただの社交辞令なのかもしれない。慣れない田舎出身者を励ましてくれているんだろう。

「ねえ、君さ、バイトとか探してない?」

「あ、まあ、まだやってないですけど」

「すぐ近くのコンビニで募集してるんだけど、どうかな?」

 はあ、とやはり曖昧な返事しか出てこなかった。

「廃棄の弁当がもらえるから、食費は浮くよ」

 その一言で心が動いた。

 面接もなく僕の初めてのアルバイトが決まった。弥勒先輩がそのコンビニのバイトリーダーだったのだ。

 接客業なんてできるのか心配だったけど、マニュアル通りにやっていればなんとかなったし、大学の事情を僕以上に分かっている先輩だから、大学の講義スケジュールに合わせてシフトを組んでくれて思ったよりも楽に続けられた。

 コンビニは廃棄の商品を捨ててしまうのが規則だと聞いたことがあったけど、ここのコンビニではアルバイトの人が自由に持って行ってかまわないことになっていた。弁当や飲み物はもちろん、雑誌や販促物の景品のあまりなどももらえた。かわいらしすぎて使いにくいキャラクター物のクリアファイルやら、来訪者もいないのに同じ白いお皿がやたらと部屋にたまってしまった。

 沙紀とスマホで連絡を取り合ったときに聞いてみた。

「それ、店にもよるよね。あたしのところはなかったな」

 沙紀は今、霧島市のアパートで大知と二人暮らしをしている。沙紀は鹿児島空港の売店で働き口を見つけたらしい。

 籍はまだ入れていないそうだ。

「べつに別れる前提ってわけじゃないけど、まだいいかなって。なんとなく、気分ね」

「面倒くさいとか?」

「まあ、それもあるかな」と電話の向こうで息がこぼれる。「あいつにプロポーズされてないし」

 まあ、あいつららしいや。

「あんたも、一人暮らしは慣れた?」

「うん、バイトと大学とアパートの三角形をぐるぐるしてるよ」

「いそがしい?」

「そうだね。でも、おかげであんまり考えなくて済んでるよ」

 実際、大学にはちゃんと通えていた。淡々とした日常が過ぎていくというのはとても重要なことだった。考えなくて済む環境に身を置いてしまえば、時は自然に流れていく。それはとてもありがたいことだった。

 ホームシックにはならなかったし、体調不良にもならなかった。

「大知はちゃんと働いてるの?」

「うん、今のところはね」

 ちょっと声が沈んだような気がした。

「帰ってくるのが遅くてさ。出て行くのは早いし」

 ああ、まあ、ブラックな環境なんだな。

「いちおう休みはちゃんと週に二日はもらえるのよ。だけど寝てばかりいるね。だからあたしも添い寝してるよ。寝心地だけはいいよ」

 なんだよ。べつに聞きたくもないけどな。

「高校と違ってさ、お互い時間がずれてるから、あいつに合わせようとすると、あたしも仕事行って帰ってご飯用意してると、けっこう疲れるんだよね」

 だろうな。

 お互い頑張ろうと励まし合って、いつも通話が終わる。

 新しい生活が始まったのは僕だけじゃないんだ。独立して営む生活に実家からの距離も関係ない。あいつらも生活に慣れていくまでが大変なんだろう。

 ときどきメッセージが入っていたり、ドライブに行ったときの写真が添付されていたりした。仕事は大変なんだろうけど、二人の関係はうまくいっているようだった。そういったことも、僕にとっては支えになっていた。

 大学が休講になったときなどに隣町の幕張に行ってしまうことがある。行けば落ち込むのは分かっている。でも、つい足が向いてしまう。

 その街にあるのは絶望だけだ。僕は昆陽神社で手を合わせるだけで、祈りを唱えることはなかった。希望などないのだ。

 だけど、その絶望をかみしめるたびに、僕は死ねないんだという現実も浮き彫りになるのだった。だから僕は生きていた。その原動力が絶望という名の現実だった。それは決して悪い事ではなかったのだ。大学、コンビニ、アパート。このトライアングルにちょうどいいアクセントを添えてくれるのが幕張という街だった。

 アルバイトを始めて少しお金に余裕が出てきた頃に千葉から電車で茨城に行ってみたことがある。

 僕が生まれたのは茨城県土浦市で、記憶を頼りに、自転車の補助輪がとれたころによくサイクリングをしていた桜川を散策してきた。高い堤防があって、その上をサイクリングロードが通っている。もう十五年くらい前なのに、意外としっかり記憶が残っていて、懐かしい風景だった。

 子供の頃親と一緒に買い物に来ていた駅前の総合スーパーが閉店して、建物はそのままなのに、市役所として利用されていたのには驚いた。

 ただ、桜川沿いはいわゆる風俗街だ。『ピンク学園』とか、『人妻・熟女』といった看板が目につく。でも、そういう風景はまったく記憶になかったから、やっぱり子供だったんだなと、思わずひとりでにやけてしまった。

 土浦駅に戻るついでに堤防をおりて風俗街を歩いてみたけど、昼間だからなのか、人通りが全くなくて、寂れた感じだった。何軒かの店頭に置かれた電飾看板がキラキラと動いていたから営業はしているようだった。

「いかがですか。いますぐご案内できますよ」

 人がいないと思って看板を眺めていたら店内から急に声をかけられて僕はあわてて逃げてしまった。

 まだまだ修行が足りない。

 どうせ修行をするなら魔法を使えるようになりたい。

 夏休みに入って一度実家に戻った。べつにセンチメンタルな理由ではない。車の免許を取るためだ。

 正直なところ飛行機がこわいからあまり里帰りしたくなかった。

 鹿児島空港の売店で沙紀に約半年ぶりに再会した。

「もっと早く逃げ帰ってくるかと思ってたよ」

「意外と一人暮らしも楽しいよ」

 実際、千葉の生活にも慣れてしまって、ホームシックにならなかった。もともと地元に愛着がなかったんだろう。伊佐には未来がない。そこにこだわりはなかった。

「あんた、飛行機怖いんでしょ」

 ばれてるか。

「さすがに漏らしたりはしてないよ」

「当たり前でしょ」

 少し会わなかっただけで、沙紀がなんだか少し大人びて見えた。

 生活という影を背負っているからだろうか。

 僕は地元の教習所の短期集中コースで運転免許を取得した。大知のアドバイスでちゃんと試験対策もやっておいたから、免許センターでも一発合格だった。

 千葉に戻る前に、三人で開聞岳までドライブに出かけた。車はうちの父親のを借りた。いきなり高速道路を任されて緊張したけど、乗り心地に関しては文句を言われなかった。

「やっぱり車がいいと楽だね」

 助手席の沙紀はご機嫌だ。

 べつに高級車というわけではなくて、スポーツタイプの国産車だ。水平対向エンジンというのを積んでいるらしい。なんか速そうな名前だとしか分からない。父親に借りるときに、燃費が悪いからガソリン代は自分で出せよと言われていた。

 疲れているのか大知は後部座席でいびきをかきながらずっと眠っていた。

 円錐形の開聞岳を眺めながら砂湯を楽しんで沙紀は満足したようだった。

「今度はいつ来るの?」

 千葉に帰る日、鹿児島空港で別れるときに沙紀に聞かれた。

「いつ来てほしい?」

「さあ、べつに」

 お互い笑ってしまった。

 半年も過ぎていないのに、もうすっかり別々の人生を歩んでいるんだと実感した。

「なあ、沙紀。大知のことを大事にしてやってくれよ」

「当たり前じゃん」

 笑うと昔のままだ。

「あんたさ、まだ分かってないでしょ。あたしの方があいつに夢中なのよ」

 知ってる。

 だからうらやましいんだ。

「あたし、たぶん、ダメ男好きなんじゃないかな。一位があんた。二位がヤマト」

「え、僕の方が好きなの?」

「違うでしょ。ダメ男ランキング。好きな男だと、ヤマトが富士山で、あんたはワンパク山よ」

 小学校の校庭にあった盛り土の山だ。古タイヤを埋め込んで階段状になっていて、よく沙紀と鬼ごっこをしたものだ。遠い昔のことだ。

 富士山に比べられないけど、まあでも、山であることにかわりはない。沙紀のことだ、「あんたなんかマイナスでしょ」とグランドキャニオンとかマリアナ海溝に突き落とされるよりましだ。

 地理に弱い沙紀だから、そんな地名は知らないか。

「じゃあ、あたしは仕事に戻るよ」

 沙紀は軽く手を振って売店に行ってしまった。

 手荷物検査場を通過して機内に入り、飛行機の窓から展望スポットを見てみた。

 手を振っている人は誰もいなかった。

 一度離れた故郷に未練はなかった。

 そもそも僕は茨城生まれの産地偽装薩摩隼斗だ。

 そして今は、夢と魔法の王国千葉県民なのだ。

 でも、僕はまだ魔法を知らない。

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