第15話 8月6日(月) 別れの朝

 どれくらい眠ってしまっていたんだろうか。

 ふと目が覚めた。

 彼女はまだ柔らかな寝息を立てて僕の肩にもたれていた。

 空がほんの少しだけ明るくなってきていた。窓ガラスの向こうに鈍い水色が静かに広がっていく。

 窓のすぐ外でセミが鳴き始める。共鳴するように他のセミも一斉に鳴き出す。

 僕は反対側の肩をポンポンとなでて彩佳さんを起こした。

 彼女が僕の肩にこすりつけるように頭を振った。

「帰らなきゃ。沙紀に迷惑がかかるよ」

 彼女はうなずいてまっすぐ起き上がると、ゆっくりと背伸びをした。

「私、この街に来て良かった」

 彼女の言葉に僕はうなずいた。

「それに、また来たいな」

 彼女が僕を見つめる。

「私、この街が好き。カズ君のいるこの街が大好き」

 彼女が微笑む。

「伊佐で恋をして。伊佐に恋をしたの」

 そう、この街で僕も君に恋をしたんだ。ここが僕たちの街だから。

 僕らは椅子を戻して廃校を出た。淡い光に満ちた新しい朝が広がっていた。僕らだけの世界に自転車の車輪が回転するカラカラと乾いた音と二人の靴音が響く。

 廃墟の庭に夜の間に開いたオクラの花が咲いていた。

「カズ君、あの花」

「オクラだね。大きいね。きれいだよね」

「千葉のね、うちの近所の畑にも咲いてるんだ。あの花を見たときはカズ君のことを考えるからね」

 照れくさそうに歩き出す彼女に僕は声をかけた。

「この自転車使ってよ」

「カズ君は?」

「走っていくよ」

「遠いよ」

「大丈夫。ずっと下り坂だから」

「二人乗りは?」

「違反だよ」

 遠慮してためらっている彼女に僕は言った。

「僕にできることはこれくらいだから。乗って」

 寂しそうに彼女が微笑む。

 じゃあ、ごめんね、ありがとう、と彼女は自転車にまたがった。

「ほら、行くよ」

 僕は自転車を後ろから押した。勢いがつくまで押して押してそのまま自転車と一緒に走り出す。一瞬だけ彩佳さんを追い抜いた。

「あ、カズ君、ずるい」

 ペダルを踏み込んだ彩佳さんが、今度は僕を追い抜いていく。

「どんどん行っていいよ」

「離れちゃうのはイヤ!」

「大丈夫!」

 走って追いかけるから、全力で。

 坂を下ったところで彼女が僕を待っていてくれた。

「疲れたでしょ」

「べつに……そんなことないよ」

 荒い息で返事をした僕に彼女は微笑んでくれた。

 もうその笑顔ともお別れだ。

 僕はさびしさを悟られないように息を弾ませながら微笑みを返した。

「バスは何時?」

「八時すぎくらいにコンビニに荷物を出しにいって、そのまま行こうかなって」

「じゃあ、その時は荷物運び手伝うよ」

 沙紀の家の前で彩佳さんと別れて、僕はいったん家に戻った。ちょうど母親が起きてきたところだった。

「あら、おかえり」

「うん、ただいま」

「朝ご飯は?」

「食べる」

「じゃあ、シャワーでも浴びてきたら」

「そうする」

 僕は塩の浮いた汗臭いTシャツを脱いだ。髪も固まっている。こんなひどい状態だったとは、全然気がつかなかった。彼女に気づかれていたんだろうか。舞い上がっていた自分を恥じた。

 シャワーを出て朝食を食べると急に眠気が襲ってきた。今眠ったらまずい。

 歯を磨いて冷たい水を顔にかけて沙紀の家に向かった。途中で彩佳さんのスマホに連絡を入れた。彼女は外で待っていてくれた。水色のワンピースに着替えて白い帽子をかぶっていた。足元には段ボール箱が二つ重ねてある。

「沙紀は?」

「今から寝るって。心配してずっと起きててくれたんだって」

「そっか。後でお礼を言っておくよ」

 二人で一つずつ箱を抱えてコンビニに向かう。僕はラベルに記された住所をじっと見つめていた。

 千葉市花見川区幕張。

 僕の知らない街だ。

 とても遠い街だ。

 コンビニには朝練に向かう伊佐高生がたむろしていた。彩佳さんを目で追っている。

 荷物の手続きが終わると、彼女はアイス売り場に行ってソーダ味のアイスバーを買った。僕らはイートインコーナーに並んで座った。彼女がアイスを半分に割る。逆L字型の大きい方を僕にくれる。僕は彼女の指ごとアイスの棒を握った。驚いた彼女がアイスを落としそうになる。

「もう、びっくりした」と彼女が口をとがらせる。

「ごめん」

「これも食べ納めだね」

 僕は何と返事をして良いか分からなかった。

 ゆっくりしている暇はなかった。アイスをあわただしく食べ終えてゴミを捨て、僕らはコンビニを出た。部活の連中がまた彼女を目で追っていた。

 柳並木の葉を撫でながらバス停までやってきた。

 バスはもう出発の準備を終えていた。

 彼女が乗り込もうとしたとき、僕は思いきって言った。

「僕も空港まで行っていいかな」

「来てくれるの。うれしい。でも、お別れするのがつらくなっちゃうかな。ホームシックになっちゃうかも」

「今さら?」

 彼女はうなずいた。

「伊佐に帰ってきたくなっちゃうでしょ」

 他の乗客は前の方に座っていて、後ろは空いていた。僕らは一番後ろの席に並んで座った。バスが発車する。車庫から道路に出るときにゴトンと揺れた。彼女は僕の肩にもたれかかってきた。

「千葉に行きたくないな」

 彼女が涙を流していた。

 顔を覆う彼女の肩に手を回して僕は涙をこらえていた。

 街角で何度か曲がってバスが揺れた。街を抜ける頃には僕らは二人とも眠ってしまっていた。

 目を覚ましたのは空港到着間際だった。

 彼女ははれぼったい目をこすって僕に微笑みを見せてくれた。

「へんじゃない?」

 僕は迷わず答えた。

「きれいだよ」

「ホントに?」

「僕は君に嘘は言わないよ」

 彼女は鞄から鏡を取り出して前髪を整えた。

「やっぱり涙の跡がついてるじゃない」

「きれいなのは嘘じゃないよ。涙の跡も素敵だと思ってるし」

「カズ君も目が真っ赤だよ」

 今は隠さなくてもいいんだと思った。

 バスを降りてターミナルビルに入ると、吹き抜けの高い天井に子供の歓声が響いていた。行き交う人がみな笑顔だ。僕らは隅の階段を上って屋上に向かった。

 展望スポットに出ると、ちょうど赤いマークのついた飛行機が着陸してきたところだった。滑走路を走る機体から、やや遅れて轟音が聞こえてくる。耳をふさぎたくなるくらい大きな音が屋上を突き抜けていく。

 まぶしそうに目を細めて彼女が飛行機を追っている。

「音が遅れて聞こえてくるね」

「うん、花火の時みたいだね」

 広い滑走路が陽炎で揺らいでいる。滑走路だけじゃない。僕にとってはこの世のすべてが揺らいでいた。

「まだまだ暑いね」と彼女が帽子を押さえる。

「そうだね」

 暑さは残っていても、僕の夏は終わってしまう。

 駐機スポットに飛行機が停止し、給油の車や荷物運搬の車両が群がってくる。乗客がボーディングブリッジを通過していく。

 コクピットのパイロット達が笑顔で何かを話しているのが見える。

 羽田からの定時到着を告げる案内放送が屋上のスピーカーから流れた。

「お出迎えの方は一階到着ゲート前にてお待ちください」

 折り返し、あの飛行機に彼女が乗っていくんだろうか。

 僕の方を向いて彼女がつぶやく。

「そろそろ行かなくちゃ」

 僕は目を合わせることができなかった。真夏の日差しを照り返して輝く飛行機の翼を見つめたまま黙ってうなずくしかなかった。まぶしさが目にしみる。

 出発ロビーでは係員の女性が便名と時刻を書いたボードを持って歩いていた。

「羽田行きのお客様。検査場にお進みください」

 数名のお客さんがテープの貼られた通路に並び始める。

「搭乗時刻が近くなりますと混雑いたします。お早めに検査場を通過して中の待合室でお待ちください。搭乗ゲート付近にも売店はございます」

 彼女が僕の手を握った。

 突然のことで腕がびくっと震えてしまった。

 彩佳さんがそんな僕を見て微笑む。

「混雑しちゃうといけないから早めに入るね」

 涙を見せたくないんだろう。でも、もうあふれそうだよ。

 涙を見たくないんだろう。でも、もうこらえきれないよ。

 僕は彼女の姿を目に焼き付けようとしたけど、もうにじんで見えなくなってしまっていた。

「カズ君、いろいろとありがとう」

 涙声でそう告げた次の瞬間、彼女が顔を近づけてきた。

 頬に柔らかな感触。

 僕は動けなかった。

 彼女はほんの一瞬の永遠を僕にあたえてくれた。

 僕の手を離すとくるりと背中を向けて、顔に手を当てながらこちらを見ずに荷物検査場に去っていく。僕はただそれを見送るだけだった。呆然と突っ立ったまま、何もできなかった。

 伊佐よりも君が好きだ。

 僕は最後までその言葉を口にすることができなかった。

 まだ間に合うか。

 追いかけようとしたけど、パーティションのテープに手をかけた瞬間、警備員さんにじろりとにらまれた。

 便名ボードを持った地上係員が「ご搭乗の方は検査場へお進みください」と僕を見る。気まずくて背を向けてロビーの隅へ逃げた。

 スマホを取り出して、メッセージを打ち込もうとしたけど、何も思いつかなかった。

 嘘だ。

 言いたいことは一つしかない。

 好きだ。

 行かないでくれ。

 二つか。

 でも、どちらも言ってはいけないことなんだ。いまさらそんなことを言ったところで、無責任なだけだ。彼女は帰らなければならないし、僕らは離ればなれで生きていかなければならないんだ。僕の街はここ。彼女の街は遠い向こうだ。

 引き留める力も勇気も今の僕には何もない。

 何もできないくせに自分の気持ちだけ押しつけるなんて、それはいけないことなんじゃないのか。彼女をただ困らせるだけだ。

 違う。

 人を好きになるっていうことは、無責任で身勝手で、押しつけがましいものなんだ。

 思い切り手を引っ張って、人目もはばからず号泣しながら言うべきだったんだ。

 僕は君が好きだ、と。

 警備員さんに引きずり出されてもいいから検査場の中に押し入って彼女を連れ戻すべきだったんだ。

 行かないでくれ、と。

 僕と一緒にこの街にいてくれ。僕のいるこの街に、僕と一緒にいてくれ。

 同じ星空を見上げて、今度こそ言わせてくれ。

 君が好きだ、と。

 でも、もう、手遅れなんだ。

 僕はスマホをポケットにしまった。

 検査待ちの乗客の行列を離れて、僕は再び屋上に出た。

 乗客がボーディングブリッジを通過し始めた。彼女の姿は分からなかった。

 搭乗の最終案内が流れる。

 飛行機の周辺にいた車両が遠のき、整備士の人たちも離れる。トーイングカーが飛行機を押し始めた。誘導路まで後退して、向きを変える。

 整備士の人たちが一列に並んで手を振っている。

 小さな窓の中で手を振り返している子供の姿が見える。彼女の姿は見えないだろうか。僕も思いきり手を振ったけど、窓の中から手を振り返す人の姿は分からなかった。

 飛行機がゆっくりと動き出す。タービンが回転を始める音が響いてきた。

 滑走路の端まで来て向きを変え一旦停止したかと思うと飛行機は一気に走り始めた。

 ひときわ大きな音が屋上を突き抜けて僕の体を震わせていく。

 エンジン音に紛れて僕は思いっきり泣いた。フェンスを両手で揺すりながら叫んだ。

「伊佐よりも君が好きだ!」

 飛び立った飛行機は大きく旋回して霧島連山の向こうに消えていく。

 慟哭のようなジェットエンジン音が雲から降りてきた。

 すべて終わったんだ。

 僕は一人バスに揺られながら伊佐に戻ってきた。

 もう、彼女のいない僕の街に。

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