第14話 8月5日(日) 約束の場所

 帰りのバスの中で彩佳さんが話してくれた。介護の必要だったおばあさんの具合が良くなってお母さんが家に戻ってきたのだそうだ。

 彩佳さんは週明け月曜日に予定を切り上げて帰ることになった。

 夏休みいっぱいいると聞いていたので、彩佳さんと過ごす時間はまだまだたくさんあると思っていた。

『お盆に入ると飛行機のチケットが取れなくなるから早めに帰るんだって』

 沙紀から来たメッセージをスマホに何度も表示させながら僕はベッドの上に寝転がって頭をかきむしっていた。

 何もできなかった。何もできないうちに終わってしまった。

 むしろその方が良かったんだろうか。どうせどうにもならなかったことじゃないか。何かが起こると期待していた自分が身の程知らずだったんだ。勘違いだったからこそ夢を見ることができたんだ。ほんの少しの間でも楽しかったんだから、それで満足すべきなんだ。

 僕は自分を納得させる言い訳ばかり考えていた。

 夕方になって沙紀から電話が来た。

「彩佳知らない?」

「え、どうしたの?」

「うん、荷造りしてたんだけど、いなくなっちゃった」

「スマホは?」

「彩佳のはここに置きっぱなし」

 僕はとりあえず自転車で沙紀の家に行った。

「ごめんね」と沙紀も外で自転車にまたがって待っていた。「どこに行っちゃったんだろう?」

「コンビニとか? 何か必要な物があったとか」

「そうなのかな」

「僕が行ってみるよ」

「じゃあ、あたしは郵便局の方を見てくるよ。ATMかもね」

 僕らは別々に探し始めた。コンビニにはいなかった。スーパータイヘイヨーに行ってみたけど、やはりいない。ファッションスーパーしもむらまで行ってみたけど、やはりいない。神社もだ。

 沙紀からメッセージが入っている。

『学校のあたりはいないや』

 僕も探してみた場所にいなかったことを返信した。

 住宅街の路地を細かく巡回してから僕らはコンビニ前で合流した。

「もう、どこ行っちゃったんだろう。一人で勝手なことする子じゃないのに」

「困ったね」

 沙紀が僕の胸のあたりを指さす。

「あんた、シャツに塩浮いてるよ」

 黒いTシャツだから、白く浮いた汗の塩分が目立つ。でも、今はそれどころじゃない。

「それ、彩佳が選んだやつ?」

「そうだよ」

「ねえ、あんたさ。彩佳のこと……」

 沙紀が途中で口をつぐんだ。

 何を言いたいのかは分かる。

 前にも聞かれたことだ。

 あの時は曖昧な返事しかできなかった。

 今も同じだろう。

 勇気のない人間は大事な一歩を踏み出すことなんてできないんだ。

 それに、いまさら前に踏み出たところで、目の前は崖だ。もう手遅れだ。

 それでも沙紀は僕を前に進めさせようとする。

「彩佳のこと、好きなんだよね?」

「いい人だとは思うよ。だから、こうやって心配してる」

「ねえ、きいて」

 沙紀が僕との間合いを詰めた。

「マジな話だから」

 僕の目をじっと見上げる。

 なんだよ。これじゃ、沙紀に告白してるみたいじゃないか。

「好きなんだよね?」

 僕は観念した。

「好きだよ」

 正直に自分の気持ちを口に出した。

「どんなことがあっても?」

「どんなことって、どんな?」

「だから、どんなことでも」

 沙紀はそれ以上何も言わない。

 僕は返事ができなかった。

「どんなことがあっても、彩佳のことを信じてあげられる?」

 どんなことがあっても彼女のことを信じる。

 そんなの、分からないよ。

 僕は返事をためらっていた。

「カズアキ!」

 沙紀が叫んだ。怒鳴られた。

 こんなふうに本気で怒られたのは初めてだ。

「でたらめで嘘で適当な気持ちであの子に接していたって言うの? あんたの全部をさらけ出して、格好悪くてもいいから正直な気持ちをぶつけることすらできないの? 不格好でブサイクでもいいじゃないよ。フレンチ・ブルドッグのくせに」

 いや、それは犬に失礼だよ。僕みたいなヘタレ小僧と比べたら。

「嘘じゃないよ。そんなはずないだろ」

「だったら、なんとしてでも探し出して、あんたの誠意を伝えなくちゃ。もう時間がないんだから。明日はもう、あの子はいなくなっちゃうんだよ」

 その時、僕は気がついた。

 沙紀は大知を『思い出の場所』で待っていた。

 ならば、『約束の場所』だ。

 僕は空を見上げた。

 真っ青だった夏空が鈍い水色に変わって、薄桃色が混じり始めていた。

 もうすぐ夕暮れを迎える。

 まだあの約束を果たしていない。

 彼女は約束の場所にいるんだ。

「何か思いついた?」

 沙紀が僕の顔をじっと見つめている。

「いや、何も」

 沙紀は僕の目をじっと見つめている。

 唇を真一文字にして、僕を見つめていた。

 僕は初めて沙紀に嘘をついた。

「何も、分からないよ」

 その場所へ行くのは僕一人でなければならないんだ。

 沙紀にバレてはいけない。僕は表情を読み取られないようにうつむいた。

 沙紀はペダルに足をかけた。

「じゃあ、あたしもまた探してみるから」

「分かった」

「カズアキ、あのさ」

 いったんペダルを踏み込んだ沙紀がブレーキをかけて振り向く。

「あたし、連絡待ってるから。信じてるよ」

 僕はうなずいてペダルを踏み込んだ。約束の場所に向かって。

 学校の裏を抜けて丘へ続く道を疾走する。勢いをつけて坂道を必死に駆け上がる。

 夏の太陽はすでに山の向こうに消えて、空の色が濃く深くなっていた。南の空に赤い星が輝いている。ペダルをこいで見上げるたびに、星の数が一つ、また一つと増えていく。

 昼間見たときに身震いした廃墟は闇に埋もれて姿を隠していた。自分の息と車輪の音だけが響く闇の中で、ライトに浮かぶ道をたぐりよせながら僕はようやく廃校にたどり着いた。

 このあいだ来たときは草が刈り取られていた空き地にはもう夏草が伸びていた。校舎へ続く道には人の足跡がついていて、ふかふかする夏草のクッションを踏みしめながら僕は中へ入った。

 きちんとそろえられたサンダル。やっぱりここだ。

 窓からの星明かりを頼りに手で壁を伝いながら暗い廊下を歩く。一つ一つ教室をのぞき込んでいく。目が慣れてきて床に沈んでいた机が青い光に浮かび上がってくる。

 一番奥の教室に転校生がいた。今日が最後の授業だ。

「遅刻だよ」

「すみません」

「早く席に着きなさい」

 転校生と先生の一人二役だ。

 僕が席に着くと、彼女のあいさつが始まった。

 僕ら二人だけのお別れ会だ。

「水無月彩佳です。明日千葉に戻ることになりました」と頭を下げる。

 起き上がって、一度深呼吸。

「最初はうまくやっていけるか心配だったんですけど、みんながとってもよくしてくれたので、あっという間でした。向こうの学校へ行ってもこの学校の楽しかった思い出は絶対に忘れません。みなさんも私のことを忘れないでください。私はこの街が大好きです。それと……」

 言葉を切って、鼻を押さえる。軽く首を振って息を整えている。

 先に泣き出したのは僕だった。

 こらえることができなかったのは僕の方だった。

 そんな僕を見て彼女も泣き出した。

「カズ君、も……、カズくんも……す……」

 彼女は顔を両手で覆ってしまった。

「ずっとこの街にいて、カズ君と一緒の高校で勉強できればいいのに」

 だめだ、僕にできることなんて一つもない。彼女にしてあげられることなんて何一つないんだ。僕は自分の無力さを拳で握りつぶす以外、何もできなかった。悔しさを握りしめて膝に打ち付けるしかなかった。

 今この瞬間を永遠の時間に変える魔法なんて僕は知らない。

 スマホが震える。沙紀だ。

『彩佳大丈夫?』

『大丈夫。僕がついてるから』

 僕が返信している間、彩佳さんは窓辺に歩み寄って涙を拭いていた。

『あたしがなんとか誤魔化すから、そばにいてやって。お願いだから』

 やっぱり居場所を知ってるってバレてたか。

 あいつはなんでもお見通しだな。

 僕は彩佳さんのところに歩み寄ってスマホの画面を見せた。

「ごめんね」と涙声でつぶやく。「さっき、荷造りしてたら明日の飛行機の搭乗案内メールが届いてね。なんか、現実から逃げ出したくなっちゃったの」

 僕は返事ができなかった。現実から逃げ出したいのは僕も同じだ。

 僕は椅子を引き寄せて窓に向かって彼女を座らせた。僕もその隣に椅子をくっつけて座った。

 窓ガラスが汚れていて、星空は見えない。白く浮かぶ汚れを見上げながら僕は何を言うべきか迷っていた。この期に及んで勇気が出ない自分を鼓舞するすべを僕は持っていなかった。

 先に話し出したのは彼女だった。見えない星に語りかけるようなつぶやきが闇に沈んだ教室に響く。

「私、ホームシックになるんじゃないかって心配してたんだけど、平気だったんだ」

 喉が絡まって声が出ない。無理をしたら裏返ったような声がこぼれ出た。

「そっか」

「カズ君のおかげだよ」

「そんなことないでしょ」

「私ね、中学の修学旅行がたったの二泊三日だったのにホームシックになっちゃって、みんなにばれないように、楽しくて笑いすぎて涙が出ちゃったとか言って誤魔化して、布団の中で涙を拭いてたんだよ。布団がグショグショになっちゃったもん。子供でしょ」

「おねしょよりは大人だよ」

「えー、おねしょと比べられるのは嫌だなぁ」

 渾身の自虐ギャグなのに、嫌がられてしまった。

「でも、そう言ってくれるカズ君って、優しいね」

 彩佳さんが僕の顔をのぞきこむように微笑んでくれる。

「おねしょしたとき、お母さんに怒られなかった?」

「ああ、うちの母親、看護師でね。吐くとかお漏らしとか、そういうのは全然気にもしないでさっさと片付けてたね。通常業務みたいな感じ」

 だから僕のおねしょも隠すつもりもなくて、普通の話題のつもりで沙紀に教えていたんだろう。沙紀の方も知りたくもない話を聞かされて困っていたのかもしれない。

「すごいね、お母さん」と彩佳さんが感心しているけど、苦笑するしかない。

「あんまり怒られた記憶はないな」

 お祭りで沙紀を置いてきてしまったときくらいしか思い浮かばない。

「いい子だったからじゃない?」

「小六までおねしょしてた子が?」

「だって今はもうしてないんでしょ」

「そりゃさすがにね」

「やんちゃで夜遊びとか迷惑なこととかする子の方が親にとっては困った子なんじゃない?」

「じゃあ、今がまさに困った子だね」

 沙紀から連絡が入った。闇に慣れた目にスマホの画面がまぶしい。

『うちの親には彩佳はもう寝てるって言って誤魔化してるから。あんたんところはみんなでヤマト君の家に泊まることになったって言ったら納得したみたいよ』

 彩佳さんにスマホの画面を見せたら、静かにうなずいたきり黙ってしまった。スマホのブルーライトが彼女の憂い顔を浮かび上がらせている。

 明かりが消えたとき、闇の中で彼女がつぶやいた。

「私、千葉におつきあいしてる人がいるの」

 避けていた現実が僕の前にさらけ出された。

 初めて会った日に見たスマホの写真を思い出す。

 あの時画面を急に隠そうとした意味がようやく分かった。

 メイド服姿を気にしていたんじゃなくて、一緒に写っていた隣の男子を気にしていたんだ。

 あの時のイケメン男子高校生がカレシだったのだ。

 彼女はうつむきながら僕の知りたくなかった話を続けた。

「カレシって言っても、告白されて私の方はその人のことが好きかどうかよく分からなかったんだけど、嫌いな人じゃないからとりあえずおつきあいしてみたら好きになるのかもって思ってたの。つきあうって言っても、何かしたわけじゃなくて、手をつないで歩いたりとか、そんな感じだよ」

 僕は何もできなかった。涙をこぼさないようにこらえながら膝の上に手を乗せて歯を食いしばっているのが精一杯だった。

「でもね、私、この街に来て初めてカズ君に会ったとき、すごく後悔したの。人を好きになるって全然違うんだって。カズ君と話をしていて楽しかったし、お別れしてからも、また明日も会えると思うと期待してドキドキしてなかなか眠れなかった。会えないときに連絡くれなくて寂しかったのも本当だよ。また会えて一緒にいると何だかホッとして、穏やかな感じが居心地良くて、ずっと一緒にいてカズ君のことをたくさん知りたかったし、私のことを知ってほしかったし、好きになってほしかった。でも、どうしても本当のことが言えなかったの。こわかった。好きになればなるほど言えなかったの。嫌われるのが怖かった。隠し事をして嘘をついて嫌われるのが怖かった。ごめんね」

 彼女はこの二週間、この気持ちをずっと心の奥にため込んできていたんだろう。微妙な距離感の意味をつかみきれなかった自分の情けなさを恥じるしかなかった。一方通行どころか、見当違いの方向に飛び越えていたんだ。

「私ね、中学の時にバレンタインのチョコを受け取ってもらえなかったんだ」

 なんで?

 思いがけない打ち明け話に内心驚きつつ、僕は黙って話を聞いていた。

「仲良くおしゃべりして、目があったらドキドキして、同じタイミングで笑い合ったりしてたから、きっと相手も好意を持ってくれているんだと思ってたの」

 沙紀の話を思い出した。沙紀も同じようなことを言っていた。

「でも、チョコを渡したら、からかってるんだろって突き返されちゃったの。その人は私の気持ちを信じてはくれなかった。何だかとても悲しくて、人を好きになるのが怖くなってしまったの」

 それはそうだろう。自分の正直な気持ち、それを伝えようとした勇気。それを否定されたら、僕なんか生きているのもつらくなるだろう。

「自分の気持ちを信じてもらえないなんて予想もしなかったから、どうしたらいいのか分からなくなっちゃって、すごくショックだったの」

 僕は彼女の膝の上に置かれた小さな手に自分の手を重ねた。ピクリと彼女の肩が震える。彼女がそっと目を閉じた。

「それから少しの間、好きな人に気持ちを伝えてはいけないのかなって悩んでたの。反対に、好きになってくれる人なら悩まなくて済むのかなって思ってた。だから、高校に入って初めて声をかけてくれた男の子とおつきあいしてみようって思ったの。好きかどうかも分からずに」

 彼女はふうっとため息をついた。ゆっくりと目を開けて僕の方を向く。僕も彼女を見つめた。彼女の目には涙があふれそうだった。

「でもやっぱり違ってた。好きな人って、好きになろうとしなくても好き。それを教えてくれたのはカズ君だよ。カズ君と出会って、好きな気持ちが分からなくなっていたんじゃないって気づいたの。だってカズ君のことが好きなんだもん。カズ君と一緒にいる時は全然怖くなんかない。安心していられるの。ねえ、今のこの私の気持ちは私の勘違いなの?」

 僕は首を振った。

「先にカズ君に出会っていれば、こんなに悩まなくても良かったのにね」

「ゴメンね。何でも鈍くて。遅くて」

「私ね、相手に合わせなくちゃとか、もう少したてばこの違和感も好きな気持ちに変わっていくのかなとか、あれこれ考えてばかりいたの。でも、カズ君とは最初から自然な感じで居心地が良くて安心できて、ああこの人なんだなってすぐに分かった」

 僕が彼女に対して感じていた気持ちは幻じゃなかったんだ。僕と同じ事を彼女も感じていたんだ。それが分かっただけでもうれしい。

 あの気持ちがすべて僕が勝手に思い描いた幻想だったとしたら、どうしていいのか分からなくなるところだった。

 彼女の悲しみもつらさもすべて理解できる。

 夏祭りで、大知と沙紀に直接的な質問をぶつけたのもこのせいだったんだろう。気持ちを確かめ合うことの大切さを分かっていたから、二人に誤魔化してほしくなかったんだ。自分と同じ悲しみを味わってほしくなかったからこそ、沙紀と大知の背中を押したんだろう。僕はそんな彼女の気持ちに今まで全然気がついていなかったんだ。

 そんなの分かるわけがない。僕は今まで恋なんかしたことなかったんだから。彼女が悪いんじゃない。僕のせいだ。彼女に恋をしたから理解できるようになったんだ。

 でももう手遅れなんだ。

「半年前はこんなふうになるなんて思いもしなかったな」

 彼女の頬を伝って涙が流れ出す。拭いてあげようとしたら彼女が僕の手に手を重ねた。

「ゴメンね。ずっと嘘ついてて」

 彼女は涙を隠そうとはしなかった。

 こらえきれなくなった気持ちを初めて僕に見せたんだ。僕はただ黙って受け止めるしかなかった。僕は自分の目をふさぐつもりはなかった。どんなことでもすべてを受け入れようと決めていた。

 そう、どんなことがあってもこの気持ちが揺らぐことはないんだ。

 この夏の間ずっと、陽炎の中を一直線に突き抜けて、この気持ちは彼女に向かっていたんだ。それは幻なんかじゃない。一方通行でも飛び越えていたんでもない。僕がただ彼女の気持ちを受け止める勇気を持っていなかっただけなんだ。でも、もう遅いんだ。

「嘘つきは僕の方だよ」

 僕は彼女の手を包み込んだ。

「ずっと君のことなんか気にもしてないようなふりをしていた。本当はバスセンターで会った最初から、もう一瞬で夢中になってたよ」

 僕は郡山八幡神社で、僕たちの出会いに感謝したことを話した。

「言っちゃったね。お願いかなわないよ」と涙で頬をぬらしながら彼女が微笑む。

「願い事じゃないから。もう出会えてたんだし」

 彼女の涙が僕の手にひとしずく落ちた。

「私もね、カズ君と両想いになれますようにってお願いしてたの」

「言っちゃったね」

「でも、もう大丈夫でしょ」

 僕はうなずきながらハンカチを取り出して彼女の涙を拭いた。

「私変な顔してる?」

 僕は首を振った。

「こんな顔見せるの恥ずかしいね」

 大丈夫だよ。きれいだから。

 僕は言葉にはできなかった。

「カズ君に好きになってもらいたいのに、変な顔だよね」

 うつむく彼女に僕は言った。

「人を好きになるのって、理由なんて必要なのかな?」

 彼女が僕の話に耳を傾けている。

「人の行動には必ず理由があるのかな。何となく思いついただけ、ただそれだけのことをお互いに楽しめれば、それでいいんじゃないかな。理屈とかじゃなくて、その一番反対側のところに好きっていう気持ちがあるような気がする」

 僕はそう言ってしまってから、経験もないのに恋愛について得意になって語ってしまったことを恥じた。まして、その相手に僕が抱いている気持ちを考えたら、とても語れる内容ではない。

「カズ君は、大人だね」

 いやいや、逆だよ。やばい、どんどんハードルが高くなる。墓穴を掘っている分、高低差が半端ない。穴の下から飛び越えるって、バンカーショットかよ。

「女の人って、感情で判断するわりに、なぜ私のことが好きなのって理屈を求めるよね」

「それ、経験談?」と彩佳さんが首をかしげながら口をとがらせる。

「いえ、すみません。見栄を張りました。ドラマとか漫画の影響です。今までそんなこと言われた経験なんてありません」

 ようやく彼女が笑ってくれた。

 僕らは立ち上がって、埃まみれの窓を開けた。

 満天の星空が広がっていた。まったく照明のない暗闇の天上に無数の星が瞬いていた。

 僕が彼女のことを好きな理由を数えたらこの星の数ほどある。

 でも、嫌いになる理由なんて一つもない。

 二人で過ごして育んできた瞬間の積み重ねの中に振り返るべき過去が織り込まれている。そこに嘘や偽りなんかない。

 理由すら数え上げる必要もない。

 今僕たちは二人だけの世界にいる。それがすべてだ。それが僕たちの証だ。

 僕が身を乗り出して空を指さそうとしたとき、彼女が僕の肩をつかんだ。

 え?

「ね、気をつけて」

 彼女は真下の壁を指していた。

 木造の壁をよじのぼってきたセミが羽化しているところだった。

 チェスのホワイトナイトみたいな成虫が殻を突き破ってのけぞっていた。

「あぶなくはたき落としちゃうところだったね」

 小さくて皺くちゃな羽を生やしたセミがピクリと跳ねる。生きている。長い時間を地面の中で過ごして、恋をするために出てきたんだ。

 僕たちは星空を見上げながら手をつないでいた。

 君が好きだ。

 どんなことがあっても、僕は君が好きだ。

 言葉が出てこなかった。

 抱きしめてしまえばいいだけなのに、僕にはそれができない。僕はこの街から出ることはできないからだ。この街を去る彼女を引き留めることは僕にはできないんだ。一時の感情に身をゆだねてしまうことは、無力な僕には許されていないんだ。

 あの日見たスマホの写真を忘れ去ろうとすればするほど色濃く記憶に刻まれていく。遠い街で彼女を待っている相手がいる。僕にはどうすることもできない事実だった。払いのけることのできない事実だった。

 今この瞬間、この無数の星空の下で、僕たちの心は一つになっている。その気持ちを僕が大切にしてあげなければならないんだ。僕にできることはそれだけだ。

 彼女の体が揺れていた。いつのまにか僕の肩に頭を預けて、彩佳さんは目を閉じていた。僕は窓を閉めて彼女を椅子に座らせた。肩にもたれかかる彼女を受け止めて、僕も目を閉じた。

 僕は何もできなかった。でもそれでよかった。

 枕を抱きしめながら彼女の名前を呼ぶ練習をした時の気持ちは嘘じゃない。

 彼女が隠し事をしていたからといって、その時の気持ちが嘘になってしまうわけじゃない。

 あとは僕の問題だ。だからこそつらいんだ。

 泣いたっていいさ。彼女は眠っているんだ。僕を信頼して、安心して眠っているんだ。

 彼女の寝息に耳を傾けながら、僕の意識も遠のいていった。

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