第11話 7月30日(月) すれ違う二人
翌日の日曜日にも大知からの連絡はなかった。沙紀にもやっぱり連絡はなかったらしく、僕のスマホに『会いたくて会えない切ない系スタンプ』が何度も送られてきた。
週明け月曜日は補習の最終日だった。前半日程はその日で終わりで、確認テストに合格すれば夏休み後半の補習は出なくて良くなるということだった。
僕は大知に会うために登校した。沖縄に台風が近づいているというニュースが流れていて、伊佐周辺も灰色の雲に覆われて風もある天気だった。
教室に大知はいなかった。時間になっても姿を現さないので、僕は先生に尋ねてみた。
「ああ、猪原か。台風が来るので田畑の管理手伝いをすると連絡があったぞ。後半も補習に出るから認めてくれって言うんで、まあ、しょうがないな」
農家だからそっちのほうが大事な用件なんだろうけど、試験だって大事だろうに。
沙紀はつまらなそうに一人で試験を受けていた。
僕は宿題をやりに図書室に行った。家に帰って彩佳さんの相手をする気にはなれなかった。二人で会ったらお祭りの日のことを責めてしまうかもしれなかった。気持ちの整理はついていない。むしろ、時間がたつにつれて感情が高ぶって、嫌悪感に近くなっていた。
ついこの間までのあんなに浮ついた感情が嘘のようだった。
それでも静かな図書室で退屈な勉強に取り組んでいるうちに、だんだんと感情の起伏がおさえられてきた。怒りという感情はそれほど持続しない。怒り続けるにはとてつもないエネルギーが必要なのだ。まして僕は男子高校生だ。彼女のことを考えている自分の行為自体に赤面してしまう。
浮かれていた自分も、彼女に怒っている自分も、どちらも同じような気がしてきた。どちらも勝手に僕が思い込んでいるだけなんじゃないのか。
僕は彼女を責めようとしているけど、意図を確かめようとしない僕だって悪いんじゃないのか。彩佳さんなりの考えがあっての発言だと沙紀は言っていた。責めるのなら、せめてそれがなんなのかを確かめてみるべきだ。
ただ、それは今じゃない。まるで大知みたいな言い訳だ。僕だって結局先延ばしにしているだけなのだ。
宿題そっちのけで考え事をしているうちにいつのまにか眠気に負けていたらしい。
「カズアキ」
頭をコツンとされて、顔を上げると沙紀が僕を迎えに来ていた。
「あ、もう時間? 早くないか」
「今日はテストで終わりだって」
「どうだった」
「一応合格したよ」
「よかったね。後半は補習なしだね」
沙紀はどうでもよさそうにうなずいた。
「あんた宿題進んでるの? いつも寝てるじゃん」
「あんまり」
「じゃあ、帰ろうよ」
沙紀に促されたので、荷物を鞄にしまって図書室を出た。渡り廊下で沙紀が立ち止まる。ああ、だから迎えに来たのか。僕はようやく気がついた。ちょうど二人だけで話がしたかったところだ。沙紀もそのためにわざわざ呼びに来たのだ。僕も手すりにもたれかかった。
いざ二人きりになったところで、なにから話したものか迷ってしまう。沙紀もなかなかしゃべろうとはしない。僕も無理に話しかけようとするのをあきらめた。
校庭では野球部が練習している。金属バットの快音が響いて歓声が上がる。
ときおり風に乗って沙紀からいい香りが漂ってくる。彩佳さんが同じシャンプーを使っていると言っていたあの香りだ。香りに触発されて僕は沙紀のことを女子として意識した。
手すりに両腕をのせて、その上に顎をおいて遠くを見ている沙紀の横顔を僕はじっと見つめていた。いつもなら『こっち見んな』と怒られるところだけど、今日の沙紀は何も言わない。僕の視線を無視するように、目を細めながら灰色の空をにらみつけていた。
渡り廊下の床にはヒビが入っている。熊本の地震の時にできたものだそうだ。つま先でトンと蹴ってみた。沙紀が横目で僕を見る。苛立っているかと勘違いされたかもしれない。
「なあ、沙紀」
「なによ」
「おまえ、大丈夫だよ。すごくかわいいから」
おでこが赤く染まる。
「なによ、急に」
「べつにただ思っただけだよ」
「素直すぎてキモいです」
まあ、こっちもそうやって受け流してくれた方が照れくさくなくて助かる。
僕らは昔からこんなふうに軽く受け流して、良いことも悪いことも楽しんできた。そういう居心地の良い関係だったんだということを、僕は改めて噛みしめていた。
「大知どうしたんだろうな」
「嫌われちゃったかな。あたし何かしたかな」
少なくともお祭りの時には沙紀の浴衣姿にデレデレと見とれているうちに先輩達に連れ去られてしまったわけだから、何も落ち度などないはずだ。
「あたしさ、四月に話しかけたときに仲良くなりたいなって思ったんだけど、それから何もなかったから脈がないのかなってあきらめかけてたんだ」
大知は先輩達から沙紀を守ろうと頑張っていたんだ。
言っていいものか迷ったけど、核心に触れない程度に話してみることにした。
「ゴメン、僕が邪魔していたらしい」
「は? どういうこと?」
「大知のやつ、僕がおまえとつきあってるって勘違いしてたらしいよ。だから沙紀に話しかけるのを遠慮していたんだってさ」
「やめてよ。縁起でもない。また毛虫を背中に入れようってわけ」
いや、入れてないし、この前は彩佳さんが言ってたことだろ。
「だからさ、他人からはそう見えたんだろうよ。それで他のみんなも遠慮してたんだってさ」
「そうだったんだ」
両腕に顎をのせたまま沙紀がうなずく。
「私もあんたに守られてきたんだと思うよ。いやらしいこととか嫌なこと言ってくるやつ多かったじゃん。だけど、あんたはそんなこと言わなかったし、他の連中から言われても、あんたのところに逃げ込めば良かったからね」
助けているつもりはなかったけど、結果的にそうだったのかもしれない。
「それにさ、男性不信にならなかったのも大きいかな。あんた全然気づいてなかっただろうけど、中学の頃に男子にからかわれて、それで男嫌いになった女子って、けっこういるんだよ」
それは知らなかったな。
「あんたそういうつまらない悪ふざけしないもんね。だから女子連中もあんたの悪口は言わないんだよ」
もてるわけじゃないけど、排除もされない。
感触がいいだけの、ぬいぐるみみたいな男だ。
確かに僕は自分からは率先して何かをしたり、積極的に声をかけたりすることはないけど、昔からまわりに良く話しかけられる子供だった。
他人の悪口は言わないし、約束は守る。
それ以外にあまり理由は思いつかない。
ずば抜けて何かがうまいわけでもなく、人に見せられる特技があるわけでもないけど、とにかくマイナスが少ないんだろう。
プラスマイナスゼロの無害な人間なんだ。
沙紀が手すりから身を起こして背伸びをした。胸が強調される。
「本当にバランス悪いな」と僕は指さした。
「まだ大きくなってるって言ったら?」
「マジで?」
「マジだよ」
僕はつい凝視してしまった。
「なに見てんのよ。エッチ」
「いや、あ、うん、ゴメン。見てた」
気まずさを隠すために僕は壁の方を向いてまた手摺にもたれかかった。沙紀もまた手摺に両手を置いて顎をのせた。
それからまた僕は沙紀の横顔を横目で眺めていた。素直にかわいいなと思った。こんなかわいい沙紀を苦しめたり悲しませるような大知に怒りがわいてきた。そんなやつとの約束を守る意味なんかないような気がした。決断の時だった。
「なあ、沙紀。聞いてくれ」
「うん」
「大知もお前のこと、好きだってさ」
「うん。知ってた」
「え?」
「そりゃ、わかるよ。女子の方がアンテナ高いでしょ」
そうだな。それに、大知のあの態度を見れば分かりやすすぎるか。
「なんだよ。今まで言おうかどうかずっと悩んでたんだぞ。大知からは言うなって口止めされてたし、でもおまえはつらそうだし」
「あんたが気をつかってくれてたのも分かってた。ありがとうね」
素直すぎて、沙紀じゃないみたいだ。恋すると女は変わるのか。そんな知ったような口をきいたらグーで殴られるだろうな。
「ごめんな。黙ってて」
「いいんだよ。あんたは約束を守ったんだし、こういうことってやっぱり本人が直接言うべきじゃん」
それが言えるなら、ここまでこじれてないけどな。
「それにさ、だからこそ連絡もくれないのって変じゃない?」
「そうだよな」
沈黙が流れる。大知の意図が分からないから言うべき言葉が見つからない。
沙紀が両手を腰に当ててこちらを向きながら朗らかに言った。
「ねえ、あたしの魅力ってなんだと思う? やっぱ巨乳?」
自分で言うかよ。まあ、それだけのことはあるけどね。
「大知は一目惚れって言ってたぞ」
「え、顔ってこと?」
沙紀が両手で頬を押さえながらにやける。
「顔をほめられたのは初めてだわ。ホントかな?」
首をかしげる。その仕草、かわいいぞ。
沙紀がイタズラっぽく笑う。
「ていうか、ヤマト君って、もしかしてセンス悪いとか?」
「さあ、そんなことないだろ」
「ねえ、カズアキ」
「なんだよ」
「それって、あんたもあたしのことかわいいと思ってるってこと?」
「うん、昔からそうだったじゃんか。さっきも言っただろ」
沙紀が頬を赤らめてつぶやいた。
「それ、もう少し、早く聞きたかったな」
ふうっと大きく息を吐いて沙紀が僕を見つめる。
「あたし、あんたとつきあうことになるのかなってずっと思ってたよ」
「そうなのか」
「あんたはそう思わなかった?」
「いやまあ、嫌いってわけじゃないからそうなってても不思議じゃなかっただろうけど、でも、僕なんか、眼中にないのかと思ってたぞ」
「このへんの人間って、みんなそうじゃん。なんか馴染み同士でそろそろつきあおっかなんて言ってくっついてさ、一通りやること済まして、やっぱ別れました、みたいな」
おい、生々しいな。たしかにそんなのばっかりだけど。
「僕は仲がいいのと好きって違う気がしたんだよな。そりゃあ、男と女で仲がいいのって、はたから見ればつきあってない方が不思議に思えるのかもしれないけどね」
「まあね。でも、お互い、そうならないような距離感はつかみ合ってたよね」
「うん。やっぱりそっちもそういう意味で意識してたのか」
「中学ぐらいからね。その点に限っていえば、あんたっていい男だなって思ってた。深く踏み込んでこないからね」
「そうなのか」
深く踏み込まない。僕はいつでもそうなんだな。改めて沙紀に指摘されるまでもなく、彩佳さんに対してもそうなんだ。相手の気持ちを確かめる勇気がないんだ。べつに紳士的なわけではない。それは今の関係を壊したくないからという消極的な理由だ。それを沙紀は良い方に受け取ってくれていたのだ。
「信用していいんだなって安心してたよ。お互いに居心地は良かったよね」
沙紀は少しうつむいて照れながら言った。そういう態度を取られると、こちらも照れくさくなる。
「だからさ、彩佳にも宣伝しておいたから。言ったでしょ、いい宣伝部長だって」
「自称だろ」
「効果には個人差があります」
コンプライアンスの時代かよ。
「好きって難しいよね」と沙紀がつぶやく。
確かに。
「たとえば、『ソーダアイスは好きか』って聞かれたら迷うわけないし、『パンケーキは好きか?』って言われたら、『食べたい!』って即答でしょ。なのにヒトだとなんで迷うんだろうね」
だから女子はスイーツが好きで、明日から始めるダイエットに夢中なんだな。
「おいしいって、快楽だからなんじゃないか? だから分かりやすいんだろう」
「か、快楽って、あんた大胆だね」
沙紀が両手を組んで胸を隠そうとする。余計はみ出るからよせよ。
「あたし、あきらめた方がいいのかな」
「なんで。両想いなんだぞ」
「本当にそうなのかな。始まってもいないのに飽きられちゃったとか。あ、お祭りで元カノにヨリを戻そうと言い寄られたとか」
「それはないだろ」
「どうして?」
「あいつに元カノなんていないだろ」
文化祭の時に会った二人は元カノには入らないだろうし。
僕は今すぐ大知の家に行って引きずってでも連れてこようかと思った。もう全部あの弱気野郎のせいだ。頭押さえつけて土下座させないと気が済まない。沙紀を悲しませるやつにはそれくらいしてやらないとダメだ。
「この恋は必ず悲しい結末で終わりますって裏表紙にあらすじが書いてあったら、そんな小説あんた読む?」
「さあ、小説自体読まないからね」
だろうね、と沙紀がつぶやく。
「切ないって分かってるのに恋なんかする価値あるのかな」
「そんなことはないだろ。恋は切ないものなんだから。ならば、切なくないなら恋じゃないってことだよ」
沙紀が顔に疑問符を浮かべている。
「なんで、そう言い切れるの?」
「対偶だから」
「なにそれ?」
「数学で習っただろ」
「知らない」
「さすが赤点だな。対偶の真偽は常に元の命題の真偽と一致する」
「なんか難しい言葉でごまかされたような感じ。あんただって、自分で何言ってるのかよく分かってないんじゃないの」
「今はまだなんとでも言えるさ」
「どうして」
「僕はまだ恋なんてしたことないからね」
沙紀が目を細めて静かに微笑む。
「もしあたしが失恋したら、なぐさめてくれる?」
「何すればいい?」
「ソーダアイス買って、半分こして、少し大きく割れた方をくれればいいよ」
まるで僕と彩佳さんのやりとりを見ていたかのようだ。コイバナってやつで情報が筒抜けなんだろうか。
「そんなのでいいのか?」
「安上がりでいいでしょ」
「安い女だな」
「それ意味違う」と沙紀が頬を膨らませる。
「頭キーンてなるぞ」
「そしたら、全部忘れられるでしょ」
なるほど。妙に納得してしまった。
「ねえ、あんたさ、彩佳のこと好き?」
いきなりど真ん中だな。
僕はどう返事をしたらいいのか分からなくて黙っていた。
沙紀に大知の気持ちを教えてからは、彩佳さんに対する違和感や怒りの感情は薄れていた。あとは二人が気持ちを確かめ合えばいいだけだし、最悪な結果にならないように、僕も今度は遠慮なく手助けもできる。むしろ彩佳さんみたいにけしかけたっていいくらいだ。結果的に、彩佳さんの爆弾発言で二人の関係が動き出したのだ。
もしかしたら彼女はこうなるという確信を持っていたのかもしれない。それなら、僕が勝手に彼女のことを誤解していたことになる。僕の恋愛経験値が低いせいで、二人の気持ちを見抜いていた彼女の高度な作戦が理解できなかっただけなのかもしれない。それならば、むしろ謝らなければならないのは僕の方だ。あれほど悪くなっていた印象がすっかり逆転していた。
今なら「好きだ」と言えるはずだ。でも、それを沙紀に明かして良いものか、迷っていた。
沙紀は彩佳さんの気持ちを知っているから聞いているのかもしれない。
脈はないからあきらめろとか、鏡を見ろとか言われたら、楽しい夏が終わってしまう。
「あのさ、返事がないってことは図星なんでしょ」
まあ、ばれてるか。
「好きというか、いい人だなとは思ってるよ」
「ダメ!」
沙紀が強い口調で僕の言葉を断ち切った。
「曖昧な気持ちならやめておきな」
「べつに曖昧ってわけじゃないよ」
「じゃあ、好きなの?」
やっぱり僕は返事ができなかった。
「あの子のことが好きなんだったら、全力で行かなくちゃダメ。あんたが連れ去っていくくらいじゃないとダメ」
どこにだよ?
そもそもここが地元だ。どこにも行くつもりはないぞ。
「あのね、あたしは応援してるんだよ」
急に沙紀が真っ赤になって怒り出した。
「あんたとは、ほら、長いつきあいだし。あんたのことはあたしがよく知ってるし。彩佳にふさわしいと思ってるからよ」
「おまえさ、彩佳さんがどう思ってるのか知ってるんだろ。僕が大知のことを内緒にしていたみたいに」
「さあ、どうでしょう」
「なんだよ。そっちこそ曖昧じゃないかよ」
「知ってても教えない」
「応援してくれるんじゃないのかよ」
ふっとため息をついてから、沙紀がつぶやいた。
「それとこれは別」
「意味が分からないよ」
「分かりなさいよ」
無茶なことを言い出した。
事情を知っていて応援してくれているのに教えてくれない。
ということは、つまり……。
急に膝が震えだした。
いい話なら、背中を押すために教えてくれるはずだ。
教えられないと言うことは、そうじゃないからか。
残酷すぎる推理だ。
僕の表情を読み取ったのか、沙紀がもう一言つぶやいた。
「心配ないよ。彩佳も同じこと考えてるよ」
それって。
「だけど、あんたしだいだよ。安心しちゃダメ。全力で行くの。どんなことがあってもつかみ取る勇気があるなら、あたしはあんたの味方」
頭の中に様々な思考が渦を巻いて僕はまた何も言えなくなってしまった。
「あたしさ、あんたのことを彩佳に話すとき、いいことしか言わないよ。有能な宣伝部長だよ」
「おねしょの話ばらしたくせに」
「ああいう弱点も笑ってくれるんだから、あの子の気持ちも想像できるでしょ」
嫌がられてはいないってことか。
でも、結局どっちなのさ。はっきりしたことは何も言ってないじゃないか。
沙紀はいいやつだ。その沙紀が応援してくれるというのだから、信じてもいいんだろう。ひとかけらの不安は残るけど、背中を押してくれていることは確かだ。
「感謝しなさいよ」
「いつでもアイスおごらせていただきます」
やったあ、と沙紀が手を叩いて喜ぶ。
「あ、じゃあさ、あんたがあの子にコクってうまくいったら、一生アイスおごってね」
「なんだよ、それ。調子に乗り過ぎじゃないか」
「それくらいの価値あるでしょ」
うん、まあ、あるか。
「高いやつだよ」
沙紀がプレミアムブランドの名前を挙げた。
「バニラと、クッキーアンドクリームと、ストロベリーと、季節限定のやつと、あとコンビニで売ってる和風のやつとか」
「さっきはソーダアイスでいいって言ってたじゃんかよ」
「あれは失恋用。こっちはタカリ用」
ああ、そうですか。
沙紀が僕の顔をのぞき込む。
「で、いつ告白するの?」
「え、今じゃないいつか」
僕は大知の言葉を勝手に借りた。
告白するべきなんだろうか。
ダメだ、決められない。
迷っている僕の表情を見て、沙紀がつぶやく。
「そういう状態をことわざでなんて言うんだっけ」
「ことわざ?」
「『まな板に恋』だっけ」
「それは『まな板の鯉』だろ。しかも全然意味が当てはまらないし」
確かにまな板みたいな胸の人に恋してるけどさ。
自分でそんな失礼なことを考えて恥ずかしくなってしまった。見透かしたように沙紀が僕の腕をつつく。
「なによ、変なこと考えてるでしょ。あんたサイテーだね」
「いや、言ったのそっちだろ」
「あたしはオバカだから、ただ間違えただけです」
僕は芝居っぽく手を上げた。
「裁判長、罪を認めるので司法取り引きをお願いします」
「あたし、難しいことよく分かんない」
ずるいな。
都合のいい時だけオバカになるなよ。
ぺろっと舌を出して沙紀が空を見上げた。
「ちょっと彩佳に仕返ししただけ。ヤマト君とこじれたのも少しはあの子のせいもあるし」
沙紀が歩き出す。僕も隣に並んで歩いた。
渡り廊下からいったん中に入って昇降口へ向かう。
補習の連中はもうみんな下校したらしく、校舎内には僕らの足音だけが響く。
「彩佳さんの悪口言ったことは内緒にしておくよ」
「うん。信用してるよ」
沙紀が僕の背中を叩く。思わず咳が出る。
「痛いよ。急になんだよ」
「応援してるからね。夏休みは長いんだから、焦ることはないでしょ。あんたのペースでやればいいよ」
「そっちだってまだ結論は出てないだろ。僕だって応援してるぞ」
ちょっと照れくさそうにうつむく表情がかわいい。
「あんたがいいやつだっていうことは、あたしが一番よく分かってるから」
靴を履き替えて外に出ると、湿った風が僕らの間を吹き抜けていった。
鯨のような形をした黒い雲がいくつも流れていく。台風が近づいていた。
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