第10話 7月28日(土) 伊佐市夏祭り

 あれから三日間、結局彩佳さんとは会えなかった。沙紀からはだいぶ落ち着いて二人で買い物に行ったりしたと連絡はもらっていた。僕も歯医者に行ったり、宿題なんかをやっていて、何となく時間が過ぎてしまった。

 そして土曜日、夏祭りの日がやってきた。大知にはスマホで確認の連絡を入れておいたからちゃんと来るだろう。沙紀と彩佳さんは浴衣を着てくるらしい。僕はどうすればいいだろうか。この前彩佳さんと買ったTシャツにしようかと思ったけど、約束もあったので、『5のTシャツ』を着ていくことにした。お祭りの勢いで笑いに変えてもらおうという魂胆だ。

 ここのところ曇り空が続いていて蒸し暑い。でも雨は降っていない。

 夕方、空が鈍い色になってきたころ、お祭り会場はもうかなりの人出で賑わい始めていた。いつもの閑散とした街からは想像もつかない光景だ。いったいこれだけの人がどこにいたんだろうか。ふだんこれだけの人がいればこの街も楽しくていいだろうに。みな市外や県外に働きに出てしまっているのだろう。

 僕は人込みに酔いそうになりながら待ち合わせ場所に向かった。

 夏祭りに来るのは数年ぶりだ。小学校の時に神輿担ぎに呼ばれて以来だ。中学のときには来ていない。一緒に来る友達がいなかったわけじゃないし、沙紀にも誘われていたけど、人込みが苦手だから断っていた。今日のお祭りの光景も、懐かしさというよりも、やはり息苦しくてあまり中に入りたくないという気分の方が強い。

 たどり着くまでに早くも息苦しさのせいで体力を消耗してしまった。歩道のガードレールに体を預けてみんなを待っていると、中学や高校の知り合いと遭遇して声をかけられた。カノジョのいるやつもいるし、男だけでダラダラしてる連中もいる。中学の時に同級生だった女子は先輩とつきあい始めたらしく、浴衣姿で一緒に歩いている。

「あ、今村君じゃん。そのTシャツなつかしいね」

「あ、ども。久しぶり」

 隣でカレシがささやくのが聞こえた。

「何、元カレ?」

「まさか」

 うん、違います。

 Tシャツがなつかしいなんて言われたせいで勘違いされたらしい。よほど印象に残るほどひどいセンスなのか。それに、元カレ疑惑を否定するにしても、そこまで露骨に嫌そうな顔しなくてもいいじゃないですか。とことん災いを呼ぶTシャツらしい。

 居心地が悪くて、僕はスマホを取り出して誰かから連絡が来たふりを装って、その場から逃げ出した。しばらく屋台の様子でも見てこよう。

 人込みの息苦しさに、屋台から流れてくるソースの焦げるにおいと砂糖の甘い香りがトッピングとなってめまいがしてくる。途中であきらめて同じ場所に戻ってきたら、沙紀と彩佳さんがいた。二人とも白地に朝顔がプリントされた浴衣で、沙紀は紫、彩佳さんは水色の花柄だ。足元はクッション入りの鼻緒のついた白木の下駄だ。

 浴衣に合わせて上げた彩佳さんの髪からうなじに流れる毛が揺れている。沙紀に結ってもらったんだろうか。二人ともうっすらと化粧をしていて、唇の艶に目が引き寄せられてしまう。僕は体中が熱くなるのを感じた。

 急に後悔の念がわいてきた。お祭りを敬遠しなければもっと早く沙紀の浴衣姿を見ることができたはずだ。僕は二人に駆け寄った。

「あ、カズアキ、来たね」

「あ、カズ君、久しぶり。元気?」と彩佳さんが胸の前で両手を振ってくれる。

 僕の方が心配してましたけどね。

「あんたなんでよりによってその格好なの?」

 沙紀が僕のTシャツを見て手を叩いて喜ぶ。

「めちゃくちゃ久しぶりに見たけど、やっぱりひどいね。中身は少しは大人になったけど、Tシャツはダメだわ」

 親戚のおばちゃんの感想かよ。

 彩佳さんも微妙な表情で上から下まで観察している。

「ホントだ、不思議だね。なんで5を逆さまにしちゃったんだろうね。2と間違えたのかな」

 彩佳さんの感想に沙紀が大げさに反応する。

「え、2を逆さまにすると5になるの? あんたちょっと逆立ちしてみなよ」

「あのさ、もとの5の形は知ってるんだから、逆立ちしなくても分かるだろうよ」

「全然分かんないよ。そのTシャツのセンスはもっと理解不能だけど。あんたのせいで2って書けなくなったらどうしてくれるのよ。あたしがこれ以上数学分からなくなったら、あんたのせいだからね」

 分かってたことだけど暴走しすぎだ。僕は無理矢理話題をねじ曲げた。

「二人とも浴衣着たんだね」

「どうよ、あたしたちの浴衣姿。最高でしょ。昨日二人で姶良タウンに行って買ってきたんだよ」

 ああ、買い物ってそういうことだったのか。

「うん、遠くからでも分かったよ」

「へへ、どれにしようかけっこう悩んだんだよね」

 めずらしくほめてもイヤミを言われない。本当にうれしいんだろうな。

「沙紀ちゃんね、すごく胸おさえてあるんだよ。苦しくない?」

 彩佳さんがうらやましそうに沙紀を見る。

「まあ、ちょっと変な感じね。でも、崩れてないでしょ」と沙紀がくるりと一回りする。

 そんなこと言われても目のやり場に困る。そんな僕の表情を察したのか、沙紀が背伸びして彩佳さんの頭をぽんぽんと撫でる。

「えへへ、髪もあたしがやったんだよ」

「沙紀ちゃん上手でしょ」と、今度は彩佳さんがくるりと一回り。

「うん、いいよね」

 僕を横目で見ながら沙紀が言う。

「あんたのためにやったんだから、かき氷おごりなさいよ」

 まあ、それだけの価値はあるか。

「いいよ。どれがいい?」

 僕らはすぐそばの屋台でかき氷を買った。沙紀はレインボー味。彩佳さんはイチゴ。僕は見てるだけ。

「あんたは買わないの?」

「いきなりデザートはやめておくよ。大知が来てからでいいや」

「お祭りなのにノリが悪いぞ」

 沙紀が文句を言いながらも表情はにこやかにかき氷をつつく。

「冷たくて生き返るぅ。ただほどウマイ物はないわぁ」

 率直なご感想ありがとうございます、だな。

「カズ君、一口あげようか」

 彩佳さんがスプーンを差し出してくれる。

「いや、大丈夫だよ。後でジュースでも買うから」

 彩佳さんが口をとがらせてスプーンをくわえる。

「つまんないの」

「なに照れてんのよ」と沙紀が僕の腕をつつく。

「べつに照れてないし」

 そんなやりとりを見ていた彩佳さんが僕らの間に割り込む。

「ほんと、二人とも仲いいよね」

「べつに良くないし」と、今度は沙紀がすねる。

 一度もモテたことがないのに修羅場を先に経験してしまった。

 彩佳さんがかき氷に穴を掘りながら尋ねた。

「カズ君はあれから何してたの?」

「ああ、歯医者行ったり、宿題とかいろいろね」

「連絡くれるかと思ってずっと待ってたんだよ」

 よし、予想通りの展開だ。

「具合悪いっていうから、遠慮してたんだ」

「カズ君って、じらすタイプ?」

 沙紀が笑い出す。かき氷吹くなよ。

「コイツにそんな余裕あるわけないじゃん。どうせ、何度もメッセージを打っては消しての繰り返しだったんでしょ。やっぱり俺には無理だとか、ベッドの上で大の字になってグジグジ悩んでたんでしょ」

「おまえ、うちに隠しカメラでも仕掛けてたのかよ」

「見なくても分かるよ。しっかりしろよ」

 そんな僕と沙紀のやりとりを彩佳さんが苦笑しながら眺めている。

「こいつさ、彩佳が具合悪いって言ったら、もうオロオロしちゃってさ。大丈夫かなんて、わざわざ学校まで聞きに来ちゃってさ。お父さんみたいでしょ」

「お父さんかあ」と彩佳さんが口元を手で隠しながら笑う。「お父さんねぇ」

 あ、沙紀のやつ、わざと『お父さんみたい』って強調したな。

 僕がにらみつけると、かき氷のシロップで変色した舌先をぺろりと出して知らんぷりをしながらさらにいい加減なことを言う。

「コイツね、お取り寄せプリンと高級メロンを持ってお見舞いに来そうな勢いだったよ」

「あ、それは食べたかったな。食欲はあったんだよ」

「もう、彩佳、すごい食べっぷりだったよね」

「だってご飯がおいしいんだもん。ここに来てまだ一週間なのに二キロも太ってびっくりしたよ」

「へえ、いくらになったの?」と僕は何気なく聞いた。

 二人が同時に眉をひそめる。

「あんた、そりゃダメだわ。Tシャツよりダメだわ。逆さ磔の刑だね」

「女の子の体重聞くなんて、全世界を敵に回す発言だよね」

 いや、あの、話を持ち出したのはそちらですけど。

 微妙な空気が漂ったとき、ちょうど自転車で来た大知が合流した。外国ブランドのタイヤの細い自転車だ。おしゃれな高級自転車が背の高い大知に似合っている。猫背の熊が白馬の騎士みたいに見えた。

「おう、今村」

 沙紀が一番に手を振る。

「あ、ヤマト君、来てくれたんだね」

「お、おう」

 大知は沙紀の浴衣姿を上から下まで凝視している。耳まで真っ赤だ。分かりやすすぎるぞ。

「えへへ、似合う?」と沙紀が大知を見上げる。

「お、おう」

 少しは違う返事もしろよ。

 もどかしさにイライラしてくる。

 僕は彩佳さんに大知を紹介した。

「前に話した同級生の猪原大知だよ」

「あ、ヤマト君っていう人?」

 彩佳さんにもヤマト君と呼ばれて大知がきょとんとしている。

「こちら沙紀のイトコの水無月彩佳さん。千葉から遊びに来てるんだ」

「お、ども、猪原です」

 彩佳さんがいきなりど真ん中の質問をした。

「沙紀ちゃんは猪原君とつきあってるの?」

 沙紀がおでこを赤く染めながらあわてて否定する。

「いや、そういうわけじゃないよね。ごめんね、勘違いされて迷惑だよね」

 大知は焦っているのか黙り込んでしまった。

 だめだよ彩佳さん、ここに大知を誘った僕の立場がないじゃないか。平静を装ったけど、膝ががくがく震えだしていた。

「猪原君は沙紀ちゃんのことどう思うの?」

 今ここでいきなりそんな質問することないだろう。まだ早いよ。彼女の暴走に焦るばかりで、僕は止めることができなかった。でもいまさらこの流れを遮るのも、かえって不自然すぎて、大知の気持ちをバラしてしまうようなものだ。僕は成り行きを見守ることしかできなかった。

 首の後ろをかきながら、大知がポツリとつぶやいた。

「べつに、そんなんじゃないっす。ただの同級生です」

 体の芯が冷えるような気がした。

 言えよ、大知、本当のことを。なんでそこで逃げるんだよ。

 でもまあ、無理か。いきなりだもんな。

 それよりも僕が驚いたのは沙紀の方だった。大知の言葉に沙紀の表情が一変していた。目を細くして、かき氷の冷たさをこらえているような表情だ。明らかにさっきまでのはぐらかすような態度ではない。なんでそんなつらそうな顔をしているんだ。

「もう、ほら、彩佳が変なこと言うから。ホント、ゴメンね」

 気まずい空気を変えようとしたのか、努めて明るい声で沙紀が大知の背中を押した。

「ねえ、ヤマト君、一緒に綿あめ食べようよ」

「お、おう」

 大知のやつ、甘い物が苦手なくせに。

 それくらいはちゃんと言えばいいのに。告白じゃないんだから。

「ちょっと自転車止めてくるよ」

 大知が駐輪スペースに自転車を止めている間、沙紀と彩佳さんはかき氷のごみを捨てて待っていた。三人で人通りの多い道をふさぐような形になってしまって、僕らの間を人が邪魔そうに通り抜けていく。普段こんなにたくさんの人になれていないから、僕はよけるのが下手で、やたらとぶつかってしまう。彩佳さんの巻き起こした混乱もさばききれないのに、気をつかいすぎて気が遠くなりそうだ。そんな僕の様子を見て沙紀が僕の腕を引っ張った。

「大丈夫? ぼんやりしちゃって」

 僕は内心の混乱を悟られないように適当なことを言って誤魔化した。

「なんでもないよ。お腹すいたなって」

「まずは綿あめでしょ」

「ヤキソバの方がいいんじゃないか?」

「そっちは後で」

「ヤキソバの方がデザートかよ」

「分かってないなあ、あんたは」

 沙紀があきれ顔で言う。

「女子はね、デザートが先なの。ね、彩佳」

「うん、あたしもリンゴ飴食べたい」

「じゃあ、買いに行こうよ」と、僕は即答した。場を盛り上げるためならなんでもする。

 今度は沙紀がニヤニヤしている。

「なんだよ」

「ん、べつに。初めてのお使いを見送るお母さんってこんな気持ちなのかなって」

 はしゃぎすぎですか。すみませんね。お祭りなんで許してくださいな。

「おう、お待たせ」

 合流した大知の背中を押しながら沙紀が綿あめを買いに行く。

「うちら、向こうで待ってるから、来てね」

「分かった」

 わざと二人にしてくれたんだろうか。大知も沙紀と二人になれるし、一石二鳥だ。少しは自分でなんとかして欲しい。

 僕は彩佳さんと並んで人込みを縫って進み、リンゴ飴の屋台に向かった。

 二人で並んで歩きながら、僕は何も言えずにいた。

 彩佳さんに対する違和感がこみあげてきたのだ。こんなことは初めてだ。

 場の空気を破壊するような質問をした彩佳さんに文句を言いたいけど、そうなると何がいけないのかを説明しなければならなくなる。大知の気持ちを教えるわけにはいかない。誰にも言うなと釘を刺されている。大知と約束した以上、本人の了解を得てからでなければダメだろう。

 何も言えないし、かといって場を持たせなければいけない。ヘラヘラと曖昧な表情で自分の気持ちを隠してしまう。自己嫌悪だ。

 僕は考えを先延ばしにして、リンゴ飴を買った。

 彩佳さんに手渡すと、ぺろっとかわいらしく舌を出して表面をなめてから僕の顔をのぞき込んだ。

 え、何?

「カズ君、何か隠してるでしょ」

 さすがに女子は鋭い。無駄な抵抗だろうけど、僕ははぐらかした。

「いや、べつに何も」

「嘘が下手。顔に書いてある」

「ほっぺに渦巻きとか?」

 彼女が笑ってくれた。

「ジョークでごまかそうとしても無駄だよ。はい、真相をお聞かせください」

 マイクを持ったリポーターみたいにリンゴ飴を向ける。

 僕は歩きながら話すことにした。

「じゃあ、彩佳さんはあの二人、どう思う?」

 急に彼女の目がきらめく。

「コイバナ?」とまたマイクが向けられる。

「うん、どうだろう」

「お似合いだと思うよ」

「そうだよね」

「ねえ、大知君は沙紀ちゃんのこと嫌いじゃないよね」

 そりゃあ、あの態度を見ていれば誰でも分かるだろう。

「まあそうなの、かな」

「なんだか曖昧だね」

 まだ僕は迷っていた。大知の気持ちを他人に教えてもいいのかどうか。

 今まで恋愛の相談なんかされたことはないし、僕自身、他人に相談したことがない。

 応援してやりたい気持ちはもちろんあるし、うまくいってほしいと願っているけど、余計なことをしてぶちこわしてしまうのは嫌だ。何が正解なのか全然分からない。

 考えれば考えるほど頭の中が真っ白になっていく。

 なんだか最近、こういうことが多いな。

 よそ見をしている子供をよけようとして、彼女が僕の肩にぶつかる。

「あ、ごめんね」

「いや、大丈夫だった?」

 よろけた拍子に下駄が脱げてしまったらしく、片足立ちになる。僕はとっさに手を差し伸べた。彼女が僕の手をつかむ。意外と小さな手だった。

 右足をあげてかかとについた砂利をはたく。そんななにげないしぐさに見とれてしまう。かかとの丸みがとてもきれいだ。

 さっきまでの違和感がどこかへ行ってしまった。僕は彼女にもてあそばれているんだろうか。それとも僕がチョロすぎるんだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えながら僕は彼女の手の柔らかさを感じ取っていた。

 親指付け根の膨らみがやわらかい。何とも言えない心地よい感触だ。

「カズ君、くすぐったいよ」

 あわてて手を離す。

「私の手って変?」

「いや、ごめん、そんなことないよ」

 下駄を履き直して改めて彩佳さんが僕の手を握る。

「沙紀ちゃんと手をつないだことないの?」

「ないない。あるわけない」

「どうして? 仲良しでしょ」

「だって、いちおう、男と女だよ」

「小学校の頃とかは?」

「ないよ」

 想像するだけでも照れくさい。

 今度は僕の方が通りがかった人に背中を押されてしまった。はずみで手が離れたけれど、彩佳さんとの間合いが詰まってすぐ近くに顔があった。髪の毛からふわりと香りが漂ってきた。神社でかいだ香りだ。思わず鼻を鳴らすほど息を吸い込んでしまった。思春期男子の無意識が怖い。

「沙紀ちゃんと同じ香りする?」

 バレてしまったけど嫌がられてはいないようだ。

「あ、いや、よく分からないや」

 そもそも沙紀の香りが分からない。

「同じシャンプー使ってるんだよ。お風呂上がりにドライヤーのかけっこしてるの。沙紀ちゃんがね、長い髪もいいなって。今度伸ばすかもよ」

「あいつ、昔は長かったもんね」

 小学校の時、沙紀と二人でお祭りに来て、途中ではぐれてあいつをおいて帰ってきてしまったことを思い出した。うちの母親にものすごく怒られて泣きながら探し回ったけど、沙紀は自分で帰ってきていた。あれはいったい何年生の時だったっけ。

 急に目の前の風景が現実味を失う。既視感というやつか。祭り囃子が遠のいていく。

「どうしたのカズ君?」

「え?」

「なんかぼんやりしていたから」

「ああ、人込みが苦手でね。疲れちゃったかな」

「分かるな。私もなんだ」

「どこかで少し休もうか。沙紀たちにも言いにいこう」

 綿あめをつまみながら食べている二人の姿が向こうの人込みの中に見える。

 僕は彼女に手を差し伸べた。そんなときにかぎって僕たちの間を人が通り抜ける。彼女は苦笑しながら少し離れたところを先に歩き始めた。僕はあわてた。

「待ってよ」

「この前のお返し」

 しもむらに行ったときのことか。

 今度は僕が追いかける番だった。走って追いつこうとしても行き交う人が多すぎて思うようにならない。彼女は時々振り向きながら跳ねるような足取りで人込みに紛れていく。僕はカツコツという下駄の音を追いかけた。

 ようやく彼女に追いついて、沙紀たちに声をかけようとしたとき、騒ぎが起きた。

「なんだよ、おまえ、そういうことかよ」

 大知が先輩達に絡まれていたのだ。

 僕は思わず二人のところへ駆け寄った。

 バレーボール部の先輩達だ。沙紀のことを狙っていたのに大知に邪魔されたことを根に持っていて、二人が一緒にいるのを見とがめて近寄ってきたのだ。

 沙紀が心配そうな顔で大知を見上げる。

「どうしたの?」

「いや、べつに。ちょっと先輩達にあいさつしてくるよ」

 大知が僕の耳元に顔を寄せてつぶやいた。

 今村、皆川のこと、頼む。

 うん。

 余計なこと言うなよ。

 うん。

 戻ってこなくても探すんじゃないぞ。

 大知はそう言い残して先輩達と去っていった。

 僕は場の空気をなんとか誤魔化そうと、沙紀に休憩を持ちかけた。

「あのさ、彩佳さんが少し疲れたっていうから、僕らはどこかで休んでいようよ」

「あ、そうなの。じゃあ、そうしようか」

 素直に沙紀は僕についてきた。

 彩佳さんが心配そうな顔で待っていた。

「大知君、どうしたの?」

「前の部活の先輩に会ったからちょっとあいさつしてくるってさ」

「ふうん、そうなの」

 彩佳さんも僕の言葉の裏を疑っている様子はなかった。巾着から手ぬぐいを取り出すと、近くのコンクリートの花壇の縁に敷いて腰を下ろした。

 沙紀が僕の耳元でささやく。

「ポイント稼ぎのチャンスだったのにね」

 僕は自分のハンカチを取り出して沙紀のために広げてやった。洗濯してアイロンまでかけてあるハンカチだから堂々と広げられる。

「あ、カズ君優しいね。沙紀ちゃん良かったね」

「こいつにやってもらっても借りを作ったみたいで落ち着かないわよ」

 と言いつつ、沙紀は遠慮なくドシンと腰を下ろした。僕はその隣に腰掛けた。ジーンズだから汚れても平気だ。

 沙紀がつまらなそうにつぶやいた。

「ヤマト君早く戻って来ないかな。まだあんまり食べてないのにな」

「私、何か買ってこようか?」

 彩佳さんの提案を手で制して沙紀が立ち上がった。

「疲れてるんでしょ。あたしが買ってくるよ」

「僕も行くよ」

 沙紀があきれた顔で僕を見おろした。ああ、二人にしてくれる作戦だったのか。でも、今は彩佳さんと二人になりたい気分ではなかった。

「ほら、荷物係と、あと、どうせ財布もだろ」

「よく気がきくこと。いらっしゃいな、セバスチャン」

「カズ君、執事なの?」

 沙紀の言い方が受けたのか、彩佳さんが笑いながら送り出してくれた。

 人込みの中で沙紀に背中を叩かれる。

「あんたさ、彩佳を一人にしていいわけないでしょうよ」

「ゴメン、確かにね。でも、沙紀こそ一人じゃ買い物に不便だろ」

 僕は本当の理由を誤魔化した。沙紀はふくれた顔をして僕を屋台へ引っ張っていく。

「ほら、ヤキソバ、タコヤキ、イカ焼き、トウモロコシ。じゃんじゃん買うよ。あんたのおごりね」

「財布空っぽになるよ」

「あらあ、彩佳に気前のいいとこ見せるチャンスじゃん。点数稼ぎしなよ」

「彩佳さん見てないし、こっちもポイント稼ぐつもりないし」

「そんなつもりはない? 強がりいただきました!」

 妙にハイテンションだ。

 沙紀ははしゃぎながら次々に食べ物を買ってまわる。僕は右手にヤキソバのパックとタコヤキ、左手にイカ焼きと焼きトウモロコシを持たされた。なんだよ、やっぱり僕がいて良かったじゃないか。

 一通り買って戻ろうとしたとき、急に背中を引っ張られた。クタクタなTシャツがさらに伸びた。

「なんだよ。まだ買うのか」

 返事がない。

 振り向こうとすると、肩を押さえられた。

 なんだ、どうした?

「あのさ」

 こんな沙紀の声は今まで聞いたことがなかった。

「あたしってさ、いつも強がってばかりで、バカみたいだよね」

 急に何を言い出すんだよ。

 振り向こうとしたら、肩を押されて人の波から外れて歩道の隅の暗がりに連れていかれた。

「こっち見ないで」

 僕は素直に従うしかなかった。

「話を聞いて」

 うなずくというよりはうつむく。

「あたしね、ヤマト君のこと好きなんだ」

 鞭で打たれたような衝撃だった。思わず肩がピクリと動いてしまった。沙紀の手が肩に重く感じられる。

「あたしね、ヤマト君のこと、初めて会ったときから好きだったんだ」

 メジロの話のことか。

「あたしね、わざと間違ったふりして話しかけたんだよ。けっこうドキドキだったよ」

 そうだったのか。

「名前間違えたのもわざとか?」

「それはね、もうマジでバカ。全然気づいてなかった」

 沙紀らしいや。

「ヤマト君、あたしのこと、何とも思ってないって言ってたね」

 そんなことないぞ。

 僕は大知の気持ちを伝えた方がいいのか迷った。

 あいつとの約束がある。

『余計なこと言うなよ』

 さっきあいつはそう言ってた。許可がないのに勝手に伝えてはまずいか。この期に及んで僕はまだ決断できずにいた。

 沙紀が鼻をすする。

「なんかさびしいよね」

 僕のシャツをつかむ沙紀の手に力がこもる。

「最近さ、補習の時に二人で楽しくしゃべったりして、結構うまくいってたんじゃないかなって、期待してたんだよね」

 その通りだよ。あいつもそう思ってるぞ。

「そうじゃなかったんだね。あたしの勝手な思い込みだったんだね」

 違う、そうじゃない。

「なんかさ、二人で楽しくおしゃべりして、笑い合ってさ、目が合ったら照れちゃったりして、お互いに気持ちが通じ合ったって思ってたのに、そうじゃなかったって、なんでこんなにがっかりするんだろうね」

 おい、沙紀。

 おまえ……。

「ダメ、こっち見ないで」

 振り向こうとする僕の背中に沙紀の顔が押しつけられる。涙がシャツにしみこむ。いいよ、遠慮なく拭いてくれ。どうせダサイTシャツだから。

 僕の肩で沙紀の手が震えている。

 両手が食べ物でふさがっていて何もできない。

 なあ、沙紀。ゴメンな。

 僕は怒りがこみ上げてきた。何もできない自分に対して。沙紀を泣かせた大知に対して。場違いな質問をしてすべてをぶちこわした彩佳さんに対して。

「あの質問はないよな。いきなりだもん」

「彩佳のこと?」

 僕は静かにうなずいた。

「彩佳はあれであたしのことをプッシュしようとしてくれていたんだと思うよ」

「でも、あれじゃ逆効果だろ」

 僕は思いきって振り向いた。初めて見る沙紀の泣き顔を抱きしめてやりたかったけど、ヤキソバとタコ焼きとイカ焼きとトウモロコシが邪魔をしていた。

「なんだよもう、見ないでって言ったじゃんか」

 沙紀がうつむきながら僕の胸を叩く。

「なんだよ。あたしの泣き顔見てからかうつもり?」

 何の言葉も見つからなかった。

「バカ。カズアキのバカ」

 いいよ。いくらでも。

 受け止めるよ。

 ぶつけろよ。悲しみを。

 ぶつけろよ。さびしさを。

 沙紀の大事な気持ちを。

 行き場のないつらさを。

 なんでも受け止めるよ。

 僕にできることはそれだけだ。

 泣き疲れて少し落ち着いたのか、沙紀がつぶやいた。

「彩佳が待ってるよね」

 こんなふうになってしまったのも彩佳さんの軽率な言葉が原因だ。改めて怒りがわいてきた。それなのに沙紀が思いがけないことを言う。

「あんたさ、彩佳のことは責めないでね」

「なんでだよ? ちょっとは責任あるだろ」

「ない!」

 沙紀に怒鳴られて僕はタコヤキを落としそうになってしまった。まわりのお客さん達が一瞬流れを止めて僕らの方を見ていく。

「どうしたんだよ」

「彩佳はね、悪くないの」

「だからなんで」

「いいから、彩佳のせいじゃないから。責めないって約束して」

 約束か。しない方がいい約束もあるんだろうか。

「分かったよ。おまえもさ、ちょっと顔ふけよ」

 ハンカチを貸してやろうかと思ったけど、手が空いてなかったし、さっき敷くのに貸してやったのをそのまま置き忘れてきたことに気がついた。

 沙紀が僕のTシャツを引っ張って涙を拭く。

「ゴメンね。Tシャツの悪口言って」

 今はそんなことどうでもいいだろ。沙紀なりの強がりか。

「5が逆さまで拭きやすいだろ」

「意味分かんない」

 ようやく沙紀が笑顔になる。涙で化粧がちょっと崩れている。

「彩佳は彩佳なりの考えがあってああいうふうに言っただけだから。あたしが自分の気持ちを隠したのがいけなかったんだよ。嘘をついたのはあたしだから、その報いを受けただけ。だから悪いのはあたし。ただ、自分のタイミングじゃなかったから、うまく言えなかったんだけどね。それが悔しいの」

「そりゃそうだろ。だから、おまえが悪いわけでもないよ」

「あんたさ、何も分かってないでしょ」

「何が?」

「あたし、彩佳のせいで泣いてるんじゃないからね」

 じゃあ、なんだよ?

「あんたが泣かせたんじゃん」

 なんでだよ?

「あんたが優しいだけの男だから、あたしが泣いていられるんだよ。馬鹿」

 優しいだけの男。そう、その通りだ。

 何もできない。何の力もない。しぼりだす勇気もない。

 でも沙紀は間違っているよ。

 何もしないのは優しさじゃないだろ。

「カズアキ、ありがとうね」

「何もしてないよ」

「いいの。ありがとうね」

 僕らの間を沈黙がつないでいた。

「なあ、タコヤキ冷めちゃうから、行こうか」

 僕は無理に笑顔を作って語りかけた。

「じゃあ、あっち向いて」

 沙紀が僕の体を回転させて、また背中につく。そのまま両手でブルドーザーのように僕を押す。電車ごっこみたいだ。僕もノリを合わせてやった。人込みの中に戻って、流れの中を縫うように進む。まわりの視線なんか気にすることはない。何事もなかったかのように振る舞いながら、僕らは彩佳さんのところまで戻ってきた。

「何あれ、となりのクラスの男子じゃん」

 さっき僕が敷いたハンカチになんとなく見覚えのある男が座って彩佳さんに話しかけていた。

 ナンパってやつか。

「彩佳、お待たせ」

 沙紀がわざとらしく大声で声をかける。僕も彩佳さんに買ってきた物を差し出した。

 僕らを見上げながら彩佳さんが戸惑ったような表情でイカ焼きとタコヤキを受け取る。

 ナンパ小僧があわてて跳び退いた。

「うお、皆川。それに今村も。なんだよおまえら」

 僕の名前を知っているなんて意外だった。光栄です。あ、沙紀のセット扱いなのか。

「あんたあたしのイトコに失礼なことしてないでしょうね」と沙紀が威勢良く追い払う。

「いやいやまだそんなことしてねえし」

「まだ? じゃあ、これからするつもり?」

「ちげえし。じゃあな」

 舌打ちしながら人込みの中に消えていく。やつのお尻に貼りついていた僕のハンカチがひらりと落ちた。ハンカチを拾って敷き直すと、沙紀がまた腰掛けた。

「大丈夫だった?」

「うん、どこから来たのって聞かれただけだよ」

「危ないところだった。このへんのヤカラはしつこいからね」

「沙紀ちゃん、強いね」

「こいつが後ろ盾になってるから」

 沙紀が突っ立っている僕を指さす。いや、僕は何もしていないですけど。まあ、いざとなったら逃がすかわりにサンドバッグになるくらいの覚悟はできている。

「さ、食べようよ」と沙紀が雰囲気を変えるようにはしゃいだ声を上げた。僕も沙紀の隣に座った。彩佳さんの隣に座る気にはならなかった。

「ねえ、沙紀ちゃん」と彩佳さんが耳元でささやいている。

「ん?」

「お化粧崩れてるよ。直してあげるよ」

 沙紀がわざとらしく声を張り上げる。

「ああ、汗かいちゃったかな。なんか屋台のまわりが暑くてね。鉄板の熱とか。並んでて時間もかかっちゃったし。食べてからでいいよ。どうせ食べたらまた汗かいちゃうでしょ」

 そう言うと沙紀はタコヤキを頬張った。

「歯に青海苔だって付くし」

「化粧に関係ないじゃんか」

 僕のツッコミに二人とも笑う。

 僕は彩佳さんへの不信感をおさえつつ、今のこの場を取り持つことに気をつかっていた。

 そのときふと、人込みの中にある集団を見つけた。大知を連れていった先輩達だ。でも大知の姿は見えない。話し合いが済んだのだったら、大知も僕らに合流するんじゃないだろうか。この人込みの中だと見つけられないのかな。スマホに連絡してみた方がいいだろうか。

 僕がメッセージを打ち込んでいると、沙紀がイカ焼きにかじりつきながら画面をのぞき込んだ。

「ヤマト君?」

「うん、場所が分からないのかなと思って」

 送信してみたけど、まったく反応はなかった。

 遠くの方にいる先輩達は楽しそうに盛り上がっている。大知のやつ、怪我でもしてないといいけど。探しに行った方がいいんだろうか。

 でも、『戻ってこなくても探すんじゃないぞ』と言われている。沙紀に心配かけたくないんだろうか。でも、怪我をしているならそんなこと言ってられないし。

 いろいろな考えが浮かんできては消えていく。

 そんな僕の様子に気づいたのか、沙紀が肘でつつく。

「なに、どうしたの? ぼんやりしちゃって」

「人込みで疲れちゃった」と僕はごまかした。

「ほら、ちゃんと食べなよ」と最後のタコ焼きを僕に突き出す。

「なんか食欲なくなっちゃったよ」

「やだ、夏バテ?」

 短期間にいろいろなことがあったし、確かに夏バテかもしれない。大知のことも心配だし、そもそも、沙紀にあんな話をされたら、食欲なんて出てこないよ。僕はコイバナには慣れていない非モテ男子だ。

 沙紀が僕に食べかけのイカ焼きを持たせて、巾着から自分のスマホを出す。

「ほら、写真撮るよ」

 この夏、何度こんな事をしただろうか。少しは自撮りになれてきたような気がする。少なくとも目をつぶるようなミスはしない。自撮りみたいに回数が増えれば、コイバナの経験値も上がるんだろうか。

「さて、送信っと」

 沙紀が大知に写真を送ったけど、やっぱり既読はつかず、何の連絡もないまま祭りの夜が過ぎていった。

 手持ちぶさたに何度もスマホを確かめる沙紀の様子を見守る僕の気持ちも穏やかではなかった。

 食べ物のゴミを片づけて、心配になってあちこち見て回ったけど、どこにも大知の姿はなかった。

 駐輪場に行ってみると大知の自転車がなくなっていた。

「なんだろう。あいつ先に帰っちゃったのかな」

「連絡くらいくれればいいのにね」

 沙紀がつまらなそうにつぶやく。

 彩佳さんも首をひねる。

「もしかしたら先輩達と遊びに行っちゃったのかもね」

 沙紀が納得したように手を叩く。

「ああ、そっか。なんだ、だったらなおさらそう言ってくれればいいのにね」

 少なくともさっき見かけた先輩達の中にはいなかったからその可能性はないし、仲良く遊ぶ間柄ではない。

 沙紀は先輩達とのいきさつを知らないから、誤解してしまったようだ。

 僕は説明しようかと思ったけど、大知の顔を思い浮かべて言葉を飲み込んだ。

 沙紀の気持ちが明らかになった以上、僕は二人を応援するつもりだし、もう結論は出ているんだから、あとはちゃんとすればいいだけだ。自分でけじめをつけたいならそうすればいい。

「じゃ、しょうがないからそろそろ帰ろうか」

 沙紀がしょんぼりと歩き出す。

 時間も遅くなっていたので、僕らは三人で帰宅した。

 家の前で別れた時、僕は肩の荷を下ろしたかのようにほっとしていた。

 彩佳さんに対して不信感を抱くことになるなんて想像もしていなかった。そんなに急に冷めてしまうものなのか。

 それ以上に僕の胸に深く刺さっていたのは、明るく振る舞っていた沙紀のけなげさだった。あいつのことが全然分かっていなかった。なんでも分かっていると思い込んでいた自分が情けなかった。

 結局その夜大知からも連絡はなかった。

 もやもやとした気持ちをいくつも抱えていたものの、久しぶりのお祭りで疲れたのか、横になったとたんすぐに眠りに落ちてしまった。

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