二章.グリズノイド

 朝露で湿った土は冷たい。

 ひと悶着から出発が遅れ、午前の真ん中あたりの太陽が落葉樹の林を照らすようになっても、身の丈をわずかに超す樹高から差しこむ陽光は、夏ほど地面を温めはしない。

 両足の裏から温度を測り、腐葉土の優しい踏み心地を感じつつ、ブルーテはひょいと後ろを振り返った。人目に触れないよう登山道をわざと避け、かと言って崖を登るにもいかない理由が、よろめきながらついてきていた。

「おそいですよー。わざわざ山頂がいい、って言ったのは仮マスですからね」

「『……』」

 返事の代わりに非難がましくチラッと、永有珠が目を合わせる。

「はっはーん。さては老けましたね? 老いゆく自分を受けいれられないから、こんなコソコソと頂上をめざしてると」

「『たしかに歳はとったが、見られてこまるようなプライドはとうに捨てたよ』」

 文字をうつため止まったスローンに合わせ、ヒューマノイドも足を止めた。

 木の葉をゆすいでいく風が、ほのかに蒼い透明な髪をなでていく。キーィ、と鳴いて飛んでいった琵琶色のモズがそのまま、すこし行ったさきの枝に止まっている。ブルーテが飛ばした〈ノック〉に反応はないが、落ちつかなさげに羽づくろいをしている。

「それって、ワタシが誇り高いってことですね! 下賎な仮マスとちがって」

「『……誇り高いやつはそんなこと、言わないぞ』」

「ワタシ、人間じゃないですもん」

 いつも通りの答えを返すと、ヴェールのスクリーンに囲われた永有珠の目がすっと、細くなる。

「『結局、そこか』」

 当たり前すぎてブルーテには条件反射でしかない言葉でも、永有珠は心がえぐられるように痛い。言い返したくとも、ブルーテの指摘は正しすぎるほどに真実だ。

 真実をまえに、ヒトは無力である。

 だからヒトを辞めるんだ、と永有珠がタイピングしたところで、そのが木々をゆらした。

「グォオオオオッ‼」

「『ブルーテ、いまの』」

「しっ」

 唇に人さし指を立て、耳を澄ます。その表情は真剣そのもので緊張さえしているようにみえる。

 何より、変幻自在な髪が、めったにみせないゴールドに色づいていた。

「『ジョークじゃないのか』」

「ワタシをどこのおふざけロボットだとおもってるんです? ちゃんと場にあわせてふざけますよ」

「『ふざけているのは認めるんだな』」

 緊張感のない答えにもブルーテは半目を返すのみ。あらゆる感覚センサを動員し咆哮のでどころを探っているのがわかる。輝くブロンドは危険の前ぶれを察した証だ。木々に止まっていた小鳥もいつの間にか姿を消している。

 間をおいて大砲のような音がつづいた。

「『トレーラーに異状はない。ステルスモードで待機したままだ。〈山守マウントガード〉なら警告がさきだ。……この山、演習地だったか?』」

呂武華山ろむかさんは名勝に認定された山岳です」

「『その名勝地に忍びこんでいるぼくらが言えた義理じゃないが』」

 爆発音がしたきり、ぱったりと音が途絶えた。木の葉をゆすいでいく風が黄金色のロングヘアを梳いていく。

「『止んだな。いこう、ブルーテ。アーケリトを返したらさっさと引きあげよう」

 ヴェールスクリーンの『前進』ボタンを選択し、スローンが動きはじめる。

 月白の寝椅子はだが、一メートルも進まないうちにピタリと止まった。

 体をつつむ〈羽衣〉が収縮し、ビスケットの人形よろしく全身を固定される。

 キーン、と高周波の音でヴェールの出力が上がったことを察した永有珠のイヤホンに、ブルーテの落ちついた声が提案を拒否した。

「逃げてばかりいられないときだってあるんですよ、仮マス」

 耐衝撃モードへ移行したスローンの視界がぼやける。

 体を固定されてなお、舌を嚙みそうな衝撃が襲ったのは、そのときだった。


 ヒューマノイド特有のすさまじい計算能力が、人間の脳さながら、三次元的に事象を認識し、無数に枝分かれした予測結果から行動の順位を並べかえていく。

 最優先事項から二次的波及効果まではじき出したブルーテのアルゴリズムは、真っ先に、使に空きをつくることから決断した。

 トレーラーに匹敵する巨大な焦げ茶色の塊が、永有珠のスローンへ体当たりをくらわす隙を見計らい、肌の下に折りたたまれたルーカニウム炭素合成筋繊維へパワーをブースト。一時的に音速を超す瞬発力を得たブルーテの跳躍がソニックブームを生み、同心円状に浅いクレーターをつくった。これでも威力を抑えたほうだが、周囲の木々はひとたまりもない。

 三〇メートルあまりを一歩で踏みこえ、登ってきた獣道の脇の木陰へアーケリトを収める。加速したままワレモノをそっと置くのは曲芸に近いが、ヒューマノイドボディを体操選手さながら捻り、地面をかすめるように手をつけば、木の葉がゆれる程度の衝撃に抑えられた。

 回転の力を借り、間近に立っていたハンノキへ手をのばすと遠心力で幹が悲鳴をあげたが、軸にしてそのまま振り子のように一回転。つま先を焦げ茶色の塊へ向けた。

「『げっ……』」

 まるで空箱のようにはじき飛ばされたスローンは、木々を何本か木っ端みじんにしつつ、かなりの距離をころがっていた。心拍数の上昇と声にならないうめきを聞いていたブルーテは、乗り手が無事であると確信した。

 なにせ、から乗り手を保護するため設計された玉座スローンだ。その頑丈さは伊達ではない。かつてテスト試乗にブルーテが参加し、雄牛顔負けの突進で性能を確かめてある。目を回した永有珠が「二度とやらないでくれ」と抗議するくらいには華麗な大回転を決めたものの、乗り手に怪我はなかった。

「グォオオッ‼」

 巨体に似合わず、咆えた巨獣がさらに加速し、スローンを追う。なにが癪にさわったのか定かではないが、さしものスローンとて幾度と猛攻を受ければもたない。特に中の乗り手は脆弱だ。嘔吐でもしようものなら、ブルーテの仕事がふえる。

「テディはおとなしく可愛がられて……っ⁈」

 勢いにまかせ、焦げ茶色の体毛をつかんだ瞬間、その巨獣と

 機械同士しかつながることのない近距離通信。

 一秒にみたないその時間で、ブルーテは巨獣のココロを知った。


 はるか昔、かれは森林を駆る王者グリズリーだった。

 自然に生き、家族を成し、かれは土に還るはずだった。

 そこに、ヒトがやってきた。

 稲妻の光が焼けつく痛みに変わり、かれが目覚めると住み慣れた森はどこにもなくなっていた。

 地獄は、そこからはじまった。

 生きたまま、皮を剥がれ、肉をきられた。四本の脚はそれで失い、代わりにわけのわからないキカイをつながれた。

 ヒトはかれの頭を切り開き、ナニカを植えつけた。

 そのとき、かれは死んだ。

 そして目覚めたとき、かれは、かれではなくなっていた。


「……っ」

 つかんだはずの剛毛が、根元からするりと指のあいだを抜けていく。それは巨獣の体に元からあった体毛ではなく、人工的に植えつけられたものだった。

 そもそも、巨獣の体にところなどないのだから。

 ブルーテの逡巡は短かった。

「ダメ、ですっ」

 樹の根が覗くほど、足が土をえぐり、ブルーテはスローンと巨獣のあいだに立つ。

 突きだした両の拳が、豆粒にみえるような毛深い、熊の手を受け止めた。

「グォオオオオッ‼」

 純粋な生き物にしては威力がありすぎる咆哮も、せいぜいブルーテの髪をゆらす程度だった。嚙みつきにかかる熊の頭部はほとんどが、。顎はサメのパーツを流用したのだろうか、ガチガチと火花を散らしながら、ずらりと並ぶドリルのような歯が高速回転していた。

 耳元まで裂けた口の上には赤、緑、紫に光る眼が三対、カメレオンよろしく目まぐるしく回っている。唯一、白濁した本来の目が一つ、虚空を見すえていた。

「たしかに……その、プロダクトデザインなら……怒るのも……わかります、が」

 文字通り、籠手と化した体高五メートルを超す"グリズリーもどき《グリズリノイド》"の前足を押しとどめながら、ブルーテが抗議の声を漏らした。頭を食いちぎろうとするグリズリノイドを躱し、身を屈めて焦茶色の毛皮へ拳を叩きこむ。

 その一撃は、大地を穿ち、対象を確実に仕留めるブルーテの必殺。

 だが、ダメージを負ったのは、ヒューマノイドのほうだった。

「ほえっ⁈」

 自然個体でも二トンを超す森林の覇者は、川魚を待ち伏せて獲るほどの俊敏性を持つ。

 身体の大部分が置換されたグリズリノイドなら、獲物の隙を見逃すはずもない。

「きゃっ‼」

 強靱な後ろ蹴りを腹へまともに食らい、ブルーテの身体が宙を舞った。

 空中で姿勢を立て直そうとするが、予想以上にダメージが大きく、ボディのあちこちから悲鳴アラートがあがって動けない。視界が再びスローモーションになり、地面にころがったスローンのヴェール越しに目があう。

 その眼が、にげろ、と言っているように感じたのは、アルゴリズムの思いこみ《エラー》だろうか。

「そんなこと……」

 スローンをかろうじて受けとめたハンノキも、背中を打ちつけるヒューマノイドまでは耐えられなかった。幹の真ん中から砕け、破片がブルーテの肌を切る。人間にちかづけるべくつくられたイノーガスキンは自己治癒するかわり、強度は低い。年代物のポロシャツもろとも容易に切り裂いた。

 邪魔者を排除し、グリズノイドの置換された目が歪な光をたたえた。

 あくまでも狙いは繭のようにころがるスローンのみ。

 仰角ちかく開いた顎に、回転する無数の刃が迫る。

 だが、鋼鉄の顎が噛み砕いたのは、スローンでも、割って入ろうとしたブルーテのボディでもなかった。

 寸前に撃ち込まれた火焔弾が、巨獣の口で炸裂する。

「グォ⁈」

 あふれた炎が残り少ない獣毛に移り、瞬く間に火だるまと化す。高温の炎は機械の目をくらまし、接続された脳へ異常をしらせる。システムは体を動かしつづけるよう指示するが、残されたわずかな火を恐れる動物としての本能が拮抗。

 咆哮とともに両脚で立った巨獣が灼熱に体をかきむしるが、叩いて消せるはずもなく、いたずらに炎を散らすだけだった。

 燃えあがるシルエットはまるで、地獄の業火に灼かれて苦しむ罪人のようだった。

「仮マス、生きてますか⁈」

 周囲を隙なく警戒しつつ、充分に距離を取っていたブルーテが抱えたスローンを地面におろした。ほどなくヴェールが透明化し、文字通り目をまわしたやつれ顔が覗いた。

「『……吐きそうだが、ガマンしてる。きみは?』」

 しきりにまばたきを繰り返す永有珠は青ざめているだけで、バイタルも外傷を示すものは見当たらない。憎まれ口を叩けるくらいには無事といったところだ。

「大したことはありません。セルフヒーリングでじゅうぶんです」

 と答えるブルーテの表情は固い。煤けたファイバーの髪がところどころ千切れ、怒りと哀しみをあらわすように、蒼と紅にゆれ動いていた。

 視線のさきを追い、永有珠はブルーテがダメージを気にしているのではないと悟る。

「『あれは、アニマノイドか? グリズリータイプは初めてみる』」

 制御系にダメージが入ったのか、熊のサイボーグは三色の眼を点滅させたまま、うずくまっている。荒い息づかいの合間からはゼェーゼェーと金属のこすれる音がもれてきていた。永有珠のヴェールスクリーンから見てもグリズリーのや所有者といった情報は消されており、巨獣がどこからきたのか、手がかりはなかった。

「……あのテディベア、"前処理"なしでカスタマイズされています」

 亀裂の走るブルーテの拳がギュッと音を鳴らす。ダウンしているいまが、グリズノイドに止めを刺すチャンスだが、ブルーテは思いつめたような表情のまま動かない。感情を押し殺したヒューマノイドの顔は、見ているほうが痛々しかった。

「ワタシの呼びかけにも応じませんでした。アレは、すべての人間へ牙を剥くのでしょう」

「『だからぼくを襲ったというわけか。私はまだ、ヒトとして認識されるらしい』」

 鉄板のジョークにもブルーテは全く反応しない。梅雨に咲く、淡い青紫をした瞳は普段の落ち着きを失い、いまにも飛び出していきそうなほど怒りにくらんでいた。

 怒りの矛先なら、永有珠にもわかる。

 だからこそ、言わなければならない。

 視線入力装置ハーティーに登録済みの定型句を、目でなぞる。

「『殺すな、ブルーテ』」

 殺戮マシンとなったアニマノイドは、めずらしくなかった。

 人間に改造される途中の動物が、破棄あるいは脱走し、植えつけられた恐怖を糧に人間へ牙を剥く。そんなアニマノイドを狩る専門の狩人もいるくらいで、体面を気にするメーカーは彼らに大枚といくらかの権限をあたえ、回収や処分を秘密裏に依頼していることはもはや公然の秘密だった。

 人間もどき《ヒューマノイド》が作れるということは、すなわち、ということ。

 人は倫理の解釈を簡単に変える。

 人体実験は倫理に反しているが、動物実験なら所定の申請が通れば実行可能、というふうに。

 この半世紀あまりを人々は『生命探求の黎明期』とよぶ。

 生命科学を著しく発達させ、人々の寿命は大きく延びた。死はまだ必然の域を出ていないが、大方の者にとって恐れるものではなくなった。

 そのうらに、多くの声なき犠牲があることを、ほとんどの人間は本当に知らないか、あるいは見て見ぬ振りをするだけだ。

「それが、仮マスの慈悲ですか」

 普段からは想像もつかない無機質なブルーテの声に、永有珠はただ沈黙を返した。滅多とない、炎の色をうかべた瞳が向けられるまでの短いあいだに言葉をタイピングする。頭の片隅では、過去を思いだしていた。

 はじめてボアノイドと遭遇した南半球の鬱葱とした森でも、右の前脚以外、体の大部分を機械に置換され、己を弄んだヒトへ、ただ怒りの突撃を繰り返すアニマノイドにブルーテは拳を握りしめていた。

 気圧された永有珠は置物のように押し黙り、遺伝子改造によって体高が三メートルを越した大猪へ立ち向かう、透き通った髪を赤く染めた彼女を見送るしかなかった。地響きのあと、おなじ青い血を両手から滴らせたブルーテに、永有珠は目を合わせることすらできなかった。

 多くのアニマノイドは、肉体を置換されるに合わせて脳を拡張される。所有者の指示を伝えるために、そしてから、痛覚を遮断する一環として被験体の脳は隅々までスキャンされたのち、必要に応じて手が加えられる。

 同時に、限界を超えた能力パフォーマンスを発揮するため、外部脳インターフェイスとしてコンピュータが接続される。

 コンピュータは人間の脳を模したマシンだ。二つの脳が出会ったとき、なにが起こるかは容易に想像がつくはずだった。

 だが、被験体に一種の疑似人格が芽生えたことを、創造主メーカーたちは「予測できなかった」、と肩をすくめて非難をかわす。

 人格といっても、会話ができるわけではない。

 動物たちの機械化された"声"は、人の耳にはノイズが混じる鳴き声にしか聞こえない。

 だが、人ではないモノ《ヒューマノイド》には、はっきりと意思が伝わる。

「『ちがうとも。わがまま、だ』」

 燃える人工眼を真正面に受けとめると、ちょうど入力した言葉が、永有珠ので再生された。歩けば三十歩といかない距離でうずくまるグリズリーが、ぎこちなく動きだしていた。

 気を配る必要があるのは再起動中のグリズリーだけではない。

「付きあいきれません」

 瞳を向けるまでもなく察したブルーテは、短く吐き捨てると永有珠の後方へ目を凝らした。

 本来、呂武華山ろむかさんは入山許可なしには立ち入れない。永有珠に許可が下りたのも、「療養」という名目で申請したからだ。ブルーテはトレーラーハウスとおなじく、永有珠の所有物扱いで、戦闘術に長けたヒューマノイドとしてではなく、介護用としてである。

 自然保護の観点から山へ持ち込める物が制限されたなか、火焔弾などと物騒なものを持ち込み、寸分違わずグリズリノイドの口へ撃ちこむ。

 そんな芸当を実行できる者が、ただの登山者であるはずがない。

「が、時間もあまりないようです」

 件の狙撃手に動きがあったらしく、ブルーテの表情から察するに望んだ動きではなかったようだ。向こうの目的がなんであれ、永有珠が望む"不殺"を受けいれてくれるような相手とはおもえない。

「『そこをなんとか、頼む』」

「ずうずうしいにも程がありますよ、まったく……これが、テディのです」

 下がらない頭を下げたつもりが、余計に火に油を注いでしまったらしい。

 手早くお願いします、と機嫌を損ねつつも、ブルーテが拳を開いてみせてくれたのは、黒く焼けた体毛と光沢のある破片だった。新しい世代の機械もどき《マシノイド》は金属ではなく、化学的に合成された革を用いる。火焔弾を浴びて煤けた木の葉サイズの皮膚片は、グリズリノイドが初期の被験体であることを示していた。

「『腕に置いてくれ……よし、いいぞ』」

 永有珠の袖をまくりあげるブルーテの指は戦闘で削れ、カサついていた。顔を見てしまいそうになるのを堪え、ほんのり温かさの残る片割れに集中する。傷を負いながらブルーテが採ってくれた貴重なサンプルだ。

 彼女は、最初から永有珠の希望がわかっていた。

 殺すな、と言うことも、これから永有珠がやろうとしていることも。

 だから命がけで一撃を受けとめ、サンプルまで回収してくれた。

 ならばすべきことは決まっている。

「テディのダメージは深刻です。時間を稼ぎますが、もって二〇秒。〈分離〉が間にあわなくても、そのあとは、ワタシが

「『じゅうぶんだ。気をつけて』」

 むっくと、煙を立ちのぼらせながら、黒こげの塊が体をおこしていた。ガシャンガシャンと軋む音が聞こえてきそうだった。

 ヴェールスクリーンにグリズリーの体の構造を呼びだしながら、永有珠は自分の鼓動が速まるのを感じていた。難解なパズルをまえにしたような、期待と緊張感が体をめぐっている。

 感覚を研ぎ澄ませていく過程はどんなときも興奮するものだ。

 たとえ、目的が過激だったとしても。

「それ以上ニヤけたら、今晩のおかずはの魚ですからね」

 表情に出ていたらしく、ブルーテが半目を向けてくる。さきまでの燃えるような目が落ちつき、炎の色が静かな蒼に変わりつつある。永有珠の高揚を察したのだろう。釘を刺すような警告は、冷や水とおなじくらい永有珠の心をしずめてくれた。

「『すまない。手早くやる』」

「なるべくさがっててください、仮マス」

 そう言うや、ブルーテが土を蹴りあげて突っこんでいった。華奢な背中をこれ以上怒らせないよう、永有珠がおとなしくスローンの操縦に目を走らせた。戦闘の邪魔にならず、かつ、ユニーカを発揮させるギリギリまで下がらせる。生物種としてのグリズリーをおもい描きつつ、邂逅したふたつの異形へ目を向けた。


 体格差が四倍ちかいグリズノイドに躍りかかるブルーテは、まるで水神の化身だ。

 はらはらと紺碧の髪が、飛沫を散らし、天を駆る龍の如く荒れ狂っている。

 対するグリズノイドにさきほどまでの俊敏さはなかった。

 体毛のほとんどが焼け落ち、つぎはぎだらけのスケルトンメタリックな巨躯のあちこちからは黒ずんだ蒼い液体がしたたっている。半透明な外骨格の下にはもともと、力強い筋肉が波打っていたのだろう。弄られ、長らくメンテナンスされていないボディのなかはいまや、変色した人工血液と種々のケーブルがのたくる泥に変わり果ていた。

 本能的に嫌悪感をもよおす光景を、永有珠は顔色ひとつ変えず直視している。金色のリングがうかんだ瞳孔は、死闘するふたつのヒトならざる者を透かし、その本質をとらえる。

 の本質、それは、死への渇望。

 の本質、それは、生への固執。

 ことわりたがえた両者の狭間は、毛糸玉のように絡みあい、分かち難く結びついている。

分離セパレーション……」

 ひとつひとつを選りわけるのは、もはや永有珠にはできなかった。永有珠の中に刻まれた異物が、解いた矢先から再び糸を撚りあわせていこうと、脳を体を魂を、ゆさぶっている。抑えこむのに精いっぱいで、だから〈分離〉は精彩を欠く。

 いま、できるのは絡みあった糸を強引に引きちぎるのみ。

 鈍さを増すグリズノイドに恨みは当然、ない。

 ブルーテへ覆いかぶさる巨躯へ抱くは、在るがままの姿へ帰してやりたいという願い。

 願わくば、身をかがめ、一直線に拳を突きあげる、その煤けた華奢な姿をも、と。

「おやす、みッ‼」

 大地をゆるがす打撃音につづき、衝撃波が同心円状に広がった。距離を取っていた永有珠まで届いた音の波によって塵が舞い、リングを持つ瞳が束の間、集中をとぎらせる。

 永有珠本人より、ヒューマノイドのほうが早かったのは必然だったかもしれない。

「そいつは」

 カチッと、頭のあたりで撃鉄の上がる音がした。

「……ワシの獲物だ」

 砂嵐が口をきいたような声の持ち主はそういうと、グリッとヴェール越しに銃口を突きつけてくる。素早い動きに対して反応が早いヴェールは、こういった緩慢な動作に弱い。銃弾をはじく電磁シールドも、こめかみに当てられた銃そのものに対してはシャボン玉程度の防御力しかない。

「なら、首輪でもかけておくことです」

 グリズノイドの首元に手刀を当てたまま、ブルーテが笑みを浮かべる。されるがままのグリズリーもどきは、機械の目にまだうっすら、光をたたえていた。

「頼んでおらん。さもなくば、コッチの頭と交換するか?」

「いりません。仮マスの頭はエッチぃなことか、死ぬことしか考えていませんから」

 さしもの襲撃者も、ブルーテの即答には面食らったらしい。

 わずかな間をおいたあと、砂の声がすこし苛立ったように命じた。

「そこをどけ、

 コン、と頭を小突かれ、硝煙の焦げつきが鼻をくすぐる。くしゃみを堪えつつ、言ってしまったな、と永有珠は襲撃者に同情した。

 ヴェールスクリーンに映る襲撃者の姿は、さすらいのハンターといったところだ。黒ずんだモスグリーンのフードを目深にかぶり、全身を覆い隠している。透過機能を持つヴェールでも見えないということは、高機能迷彩インビジブルなのだろう。うっそうとした山林に溶け込むにはぴったりといえる。

 利き腕には旧式強化骨格アーマーの関節がマニピュレータよろしく、アンバランス感を醸し出していた。

 フードから覗く濁りかけている瞳はブルーテを射貫き、長身のグレネードライフルを握るシミと傷にまみれ手は微動だにしない。さきほどの射撃といい、雰囲気といい、腕利きにちがいない。

 だが、何者であれ、襲撃者は大失態をおかしている。もっとも触れてはならない地雷に自ら、つっこんだのだ。

 ブルーテの髪が即座に赤みを帯び、文字どおり、目の色を炎へ変えた。

「だから……ワタシは……」

 襲撃者の勘が警鐘を鳴らしたのだろう。マニピュレータが音をたて、正面を狙う。

 ダァンッ、と昔ながらの猟銃のような銃声がしたときは、襲撃者の姿が消えていた。

「ヒト、じゃあありませんっ‼」

 フードが立っていた場所には、これまた文字どおり、青筋を立てた小柄な体が仁王立ちしている。

 ひしゃげたライフルを投げ捨てると永有珠の後方でドサッと、なにかが落ちた。

「時間かけすぎです」

「『もうすこしだ』」

 目配せしてくるブルーテに目だけでそう返して、永有珠は目の前に集中をもどす。

 グリズノイドは虫の息だが、巨体はまだ上下に呼吸している。漏れだした人工血液が蒸気をくゆらせていた。手入れされていないアニマノイドの自己治癒力は限られている。

 生きているうちしか、〈分離〉はおこなえない。

 死してなお、体をいじられるなど、永有珠にはけっして見過ごせないことだった。

「……分離セパレーション

 茶色がかった永有珠の黒い瞳が刹那、黄金色へ輝き、輪郭を残すリングが対象物を再度ロックする。視線のさきは、機械によって生かされてきた、生き物ならざるモノ。

 弱々しく光る人工眼が色をなくし、ついで、顔全体を覆っていたパーツがメキメキと剥がれ落ちていく。

 脳が覗き、寄生虫のように絡みあったケーブル群が生々しい音ともに千切れていく。

 次第に本来の姿へ、分離されていくおぞましい光景から、取り憑かれたように永有珠は目を離さない。

 永有珠に備わる個有能力ユニーカ〈セパレーション〉。

 ユニーカによって、グリズリノイドから機械の部分のみを〈分離〉する力。

 修練を積んだ神経外科医のように確かな理論に裏づけられているわけではなく、ましてや獣医学を修めているのでもない。ヴェールスクリーンに表示されたグリズリーの解剖図を目にしながら、経験を頼りに直感だけで境を見極めていった。

「……なんだあれは」

「よそ見、している場合じゃないです、よっ‼」

 ヒューマノイドの上段蹴りを受け止めたルーカニウム炭素合成繊維の腕が、鉄のようにぐにゃりと曲がった。関節が過負荷に音をあげる暇もなく、残っていた肩甲骨の一部ごと弾けた。

 常人なら気が狂いそうな激痛におそわれながらも、襲撃者は戦いに集中することができずにいた。数々の修羅場をくぐり抜け、唯一の目的を果たさんと積んだ経験も、目の前の異常な光景に役に立ちはしなかった。

 鬼神のごとき強さを誇る少女のことではない。老練な狩人でもある襲撃者は己より強い者が存在することに驚きはしない。それが、亀裂の走る肌を持つ者だったとしても変わらない。

 奇妙な椅子に収まっている男のことでもなかった。記憶の底に残る、古い食器レンゲに似た椅子だが、そんなことはどうでもよかった。

 家族と仲間を牙にかけ、追跡を躱しつづけた巨獣が名も知らぬ、人間ですらどうか怪しい者によっていま、斃されようとしている。

 そのことさえ、いまの狩人の頭からは消えていた。

 己の手で巨獣を討つことだけが、狩人の生きる目的だった。

 巨獣が元は、森林の王であることなど狩人は歯牙にもかけない。望まずと人の手によって捕らえられ、弄られた挙げ句、投棄された身の上話も狩人には関係なかった。

 結果として野に捨てられた巨獣は、たまたま山でキャンプをしていた狩人と出くわし、その家族を貪った。自らも生死の境をさまよう傷を負いながら、生き残った狩人は家族の仇を討つことを固く誓った。

 あの日から

 復讐のため、老体をかたきと同じ機械へ置き換えながら追い続け、ようやくいま、そのときを迎えようとしている。

 火焔弾を撃ったのは少女を助けるためではない。自分から注意を逸らす相手に、この二人組は都合がよかったのだ。

「邪魔したら、つぎは頭を砕きます」

 地面に膝をついた狩人を戦意なしと判断したブルーテが翳り始めた陽のように言い放ち、背を向ける。

 小さなその背中に在りし日の娘が重なり、狩人は問わずにいられなかった。

「なぜだッ? このようなことをして何になるッ?」

「理解してもらうつもりは、ありません」

「ワシはその獣に家族をころされたのだぞ!」

「だから?」

 足を止めた少女は振り返ることなく、声だけでさきをうながした。炎の色をした髪が風に吹かれて青ずんでいく。

「貴方は復讐がしたいのでしょう? じき、はしぬ。ワタシたちはそのまえに、かれをあるべき姿へ還さなければならない。そのあとは、貴方の自由です」

「それが何になるというんだ⁉ こんな、無意味で……」

 酷いことを、と言いかけて、狩人は言葉を失った。

 肉塊と成り果てた巨獣に寄りそう碧髪の少女。

 原形をわずかに残すだけとなったグリズリーの頭部を、少女はどこまでも優しく、赤子をかかえるように両手で支えていた。

 あまりにも現実離れした光景を前に狩人は、吐き気のような激しい嫌悪感を抑えられない。

 そのグロテスクさではなく、アニマノイドから生身の体を引き剥がす男のユニーカでもない。そもそも、狩人には永有珠が具体的になにをしているか、知る由もない。ただ、ひどくおぞましい行為であることだけは疑いようもなかった。

 己の行為を男と、男の行為を、その手を血に濡らす少女。

 狩人の言いようのない嫌悪感は、相容れることができない両者に対しての猛烈な拒絶だった。

「……」

 自分の手が震えていることに気づいた狩人は、それが焼けつく痛みとはべつの感情から来ていることを悟る。

 あの男は危険だ。

 生きものと機械が分かち難く結びついたこの世界で、男の存在は、脅威だ。それこそ、いままで自分が追っていた目標グリズリノイドと同じくらいに。

 熟練の狩人は保険をかけておくものだ。

 片腕になった左手をつよく、握りしめる。トリガー信号が、男の真横に落ちている千切れた右腕へ送られ、セットされた高機能爆薬を起爆する。範囲こそ狭いが、半径十メートルほどはクレーターになる威力をもつ。

 起爆するまでの刹那、相打ちも悪くないと、狩人は満足していた。むしろ、この世からよからぬ者をひとり、道連れにできるなら収穫とさえいえる。ひたすらグリズノイドを追ってきた狩人の手は多くの血で染まっているが、最期くらい、あの世で待つ家族に胸を誇れることができた。

 来る閃光はだが、下ではなく、上からだった。

「仮マスを看取るのが、ワタシの使命です」

 天使のような澄んだその声は、冬山の清流のように冷たかった。

「おまえは……ぐほっ。何を……?」

 狩人が目を見開いたのも無理はない。少女の動きがあまりに速すぎて、強化されたハンターの目でも捉えきれなかっただけのこと。

 少女はヒューマノイドである。武術の達人が空気のゆれを感じとるように、ブルーテにとって周りで飛び交う通信を察知するくらい造作もない。

 起爆トリガーを発した襲撃者の意図を瞬時に察したブルーテが、地面に落ちた片腕を蹴りあげた。ただそれだけのこと。

 三十メートルちかく上昇したところで、爆発した襲撃者の腕は跡形もなく消え、まばゆい白い光と落雷のような衝撃があたりを駆け抜けた。

 直後、やまびこのようにサイレンが鳴りはじめる。山を管理するセキュリティドローンに嗅ぎつけられたらしい。

 サイレンのほうを振りあおぎ、舌打ちをすると髪の毛を薄紫色に染めたヒューマノイドがしゃがみこんだ。焦げてボロボロになった腹のシャツを無造作に裂いて、樹の根元にうずくまる狩人の肩に巻きつけていく。

 狩人は身じろぎひとつせず、濁りかけている目を向けた。

「貴方はまちがっています。生への執着がないなんて、家族に顔向けできますか」

「もうすぐワシも会える……っ⁉」

 狩人の言葉を気に入らなかったブルーテが、キュッとわざと強く引き絞る。痛みに狩人がたまらず、うなった。

「ダメです。貴方は命をおろそかにしたばかりか、さらに奪おうとした。罪は、生きてつぐなうべきです」

 止血を済ますとブルーテは立ちあがった。玉のような汗をうかべた狩人が口を開きかける。

 被せるようにヒューマノイドがぽつりとつぶやいた。

「……だけれど、貴方の気持ちは、理解できる」

 足早に去る小さな後ろ姿を、狩人は追おうとしなかった。立てたところで、レンゲ型の椅子で気を失った男をかばうように走り去っていくヒューマノイドを止めはしなかっただろう。

 失血で朦朧とした頭を幹にもたれると、形のない雲のうかぶ空がぼんやり見えた。

 透き通った秋の空に、少女の言葉が頭をこだましていく。

「理解できんな」

 赤いライトを点滅させながら、空からセキュリティドローンが降りてきていた。

 涙でかすんでみえるそれは、天から舞い降りる遣いに狩人は見えたのだった。

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