一章.尖碧石《アーケリト》
永有珠はしゃべることができない。
正確には、声帯の筋力が衰えているせいで、言葉にならないのである。あがいてみたところで、出せる音は「あー」とか「うー」くらいのもの。
代わりにヴェールスクリーン上で眼を動かし、狙ったところでまばたきする。センサが"見た"ポイントを読みとり、そこにあるキーや文字を実行する。ふるい言い方をすれば、永有珠の眼球がレーザーポインターで、まばたきがマウスのクリックである。
まどろっこしい手順だが、医療水準が飛躍的に向上した二〇八七年現在でも、完全に作動する
結果、永有珠は半世紀以上まえからあるコミュニケーションテクノロジー、
「『まぶしいのは嫌なんだが』」
「自業自得ですよ」
陽の下で何度もまばたきする永有珠にブルーテが半目を向けてくる。その手には、朝陽と青空を反射した銀の
「ワタシのアイデンティティを傷つけたんですよ? 古代のヒトも言っていたではないですか。目には目を歯には歯を……アイデンティティには復讐を、って」
「『バビロニアの王もビックリだな』」
ヴェールスクリーンの遮光機能のおかげで弱まった日光に、それでも目を細めながら永有珠が皮肉を返した。
「だってワタシ、ヒトじゃないですから」
薄い胸板を誇らしげに張ってヒューマノイドが注入を進める。カテーテルの中を黄色みがかったグリーンが永有珠の腹のほうへ流れていく。
ブルーテは、自分がヒューマノイドであることに並々ならないプライドを持っている。さらにいえば、人間ではないことに存在意義を賭けているといっても過言ではない。
ささいな言葉遣いさえ、これほど怒るのだ。人間らしい、はもってのほか。すこしでもそれらしい意味をほのめかしたなら、文字通り、髪を逆立てて激怒する。まだブルーテと会って日が浅かったころ、うっかりこぼした称賛の言葉のせいで、半年も永有珠は口を利いてもらえなかった。
瘻管を伝い、胃へ流れこんでくるスクランブルエッグとグリーンスムージーの風味を思いえがきつつ、胃酸のように這い上がってくる苦く陰うつだった過去を、あえて掘り返した。
「『だったら、ぼくはいつヒトを辞められるんだろうな。そうすれば名前でよんでくれるだろう?』」
永有珠の記憶が正しければ、二人旅を始めるずっとまえに、インプットするため彼女の発語した一度しか、自分の名前を耳にしたことはない。旅を始めるついでにしれっと、「名前でよんでほしい」と頼んだ永有珠に対し、彼女は純粋無垢な紫の人工水晶をキラキラさせながら、「おこがましいにも程がありますよ、仮マス?」と満開の笑顔で返した。少ない勇気を振り絞った永有珠の心が、木っ端微塵に砕け散ったのは言うまでもない。
「仮マスはいつまで経っても、仮マスです」
空になったシリンジをリボルバーよろしく、カチッと捻る。ピストンが開始位置にもどり、次の弾倉へ切り替わった。注入を再開したブルーテが諭すように人さし指を左右にゆらす。髪の色は大空とおなじ、蒼だ。
正式には、ブルーテの
〈
だが、なぜかブルーテは一向に認めない。「仮のマスターです」と言い張る彼女を諫めることなど、とても永有珠にはできず、結局、呼び名は「仮マス」のままである。
「『まだ〈彼〉にはおよばないのか。君はどうして、そうこだわるんだ? 〈彼〉が君にしたことをおもえば……』」
眼を使ってタイピングするのはすこぶる速い。
だから、言うべきではないことを言いかけて口ごもる、という芸当はできない。しまった、とおもったときにはもう、音になっている。
「……お粗末さまでした」
カチッと、白湯を注入し終え、ブルーテが永有珠の腹にあるキャップに手をのばす。〈羽衣〉越しにつたわるヒューマノイドの指は温かく、所作はどこまでもやさしかった。至近距離にあるブルーテの顔は傷こそあれど、ハッとするほど誇り高く美しい。
その、朝陽の影になった横顔がどこか物悲しかった。
「〈
一度も目をあわすことなく立ったブルーテは、そう言い残すとそそくさと背を向けた。永有珠の視界にハラリと残ったブルーテの髪は桜色だった。
「『川の水って……沸騰させたんだろうな。いや、なにをやってるんだ、ぼくは』」
まぶたを閉じると、河原の石をカリカリと行く足音が離れていく。普段よりすこし速く、力強い。怒らせてしまったのは疑いようもない。
「ハァ……」
吐いて、吸いこんだ空気は湿った沢の香りがする。ひんやりして心地よいが、きれいな空気で肺を洗うためにわざわざ、山へ不法侵入したわけではない。
スローンを五度ほど上向き《ティルト》に調整した顔に、低い朝陽があたって、永有珠は自然のぬくもりを感じた。もう一度、深く息を吸った永有珠は、ブルーテに言われたとおり、自分たちの目的を整理することにした。
トレーラーハウスで津々浦々、旅をしている唯一の理由は、〈ボタニカリト〉と化した植物たちを解放するためである。
だが実際は、植物の身体に無理やり、鉱石の組成を組みこんだ悪趣味な嗜好品である。
世界最高の〈彫刻師〉として知られた〈彼〉は、自分の趣味として、十三のボタニカリトを造りだした。本人の言葉を借りれば、「有と無の究極的均衡」をあらわすアートらしい。自室に陳列されたボタニカリトはどれも、昼間は日光を、夜は間接光の灯りを受け、月夜には妖しく輝いた。
〈彼〉の屋敷に住んでいた永有珠には、頻繁にこの異質な
だが、世間の評価はまったくの逆だった。
非売品、と銘打ちつつ、一つだけオークションにかけられたボタニカリトは、軽く大型宇宙客船が買える金額をつけ、メディアでは「今世紀最高のアート」と大絶賛された。永有珠には理解しがたかった。
ボタニカリトは〈彼〉の
〈有合〉させられた植物は、半分、鉱石と化しながら生きている。
そうとは知らず、〈彼〉が勧めるまま、顕微鏡で葉の液胞が弾ける瞬間を数日かけて目のあたりにした永有珠は、あまりの気味悪さに嘔吐を堪えられなかった。
ボタニカリトは意志にかかわらず、生をゆがめられた被害者だった。「永遠を生きる」と、〈彼〉は誇らしげに語る。
だが、そんなもの、頼んでもいない。
まるで、ブルーテだ。
ゆっくりまぶたを開くと、直視するには眩しすぎる太陽が、ヴェール越しに永有珠の顔へ、ほの黄色い光を投げかけてくる。
ヴェールスクリーンに目を走らせ、トレーラー内のカメラを切り替えていく。ほどなく、探していた姿が見つかった。
重ねたハーモニカのように縦に長い車内の隅、トラッシュボックスちかくの床に、ブルーテはしゃがんでいた。開けっ放しのドアから吹きこんだ風で、ファイバーケーブルの双編み《ツインテール》が鈴のような音をならす。
表情は見えないが、間違いなく、ブルーテはまぶたを閉じているはずだ。
なぜなら、ブルーテもボタニカリトが嫌いだからだ。
それこそ、ゴミ
嫌悪しながらも、いま、ブルーテは保管してあるボタニカリトを運びだそうとしている。
〈彼〉の葬式と、諸々の相続手続きを済ませ、残された時間が一年と知ったときから、永有珠はその時間をどう使うべきか考えていた。「ボタニカリトを元いたところへ帰そう」と、ブルーテに提案するのは勇気が要った。
彼女にとってそれは、けっして届かない望みをまざまざと、目の前で叶えてみせられることに等しい。
だが、永有珠がボタニカリトを帰さなければ、ゆがめられた「いのち」は〈彼〉が言ったとおり、永遠にちかい時を「生きる」。
永有珠の
ブルーテに出会うまえの永有珠なら、喜んで「そうしてくれ」と頼んだだろう。
けれど、永遠ほど、残酷なものはない。
ゆがめられた「いのち」が生きる苦痛を知ったのだから。
「ああっ⁉」
スクリーンに映るブルーテが振り返って、べえ、と桜色の
「覗いてましたね仮マス? ワタシがいちばんイヤな"ブツ"を持たせてよろこぶなんて、ほんとっ、ド変態なんだから」
光る亀裂の走る腕を、まるで汚物でも触るように目いっぱい、自分から遠ざけ、顔を背けている。
伸ばしたブルーテの手には、透き通る藍色をしたカエデの盆栽を載せていた。
樹高が三十センチにも満たないカエデの樹は、すっかり紺の宝石色に変わり果て、樹木らしい質感がまったく伝わらない。ささくれ立った幹の樹皮はトゲトゲしい無機質な結晶が取って代わり、しなやかに揺れていたはずの枝も、鉱石と〈有合〉したことで脆い、ガラス管のようになっている。振動をすべて膝で受け止めてくれるブルーテでなければ、床下収納から取りだすだけで簡単に折れてしまうだろう。
カエデの特徴的な葉のほとんども、
〈彼〉の徹底ぶりはカエデの樹にとどまらず、小さな
ボタニカリトナンバーⅩ、〈
ロマンチックな名前は〈彼〉がそういう人間だったから、というわけではない。むしろ真逆だと永有珠はおもっている。
よりにもよって「愛」の字を充てた名前など使いたくなかった永有珠は、カエデを意味するラテン語から取って〈アーケリト〉と呼んでいる。
「『きみもぼくのバイタル、いつも見てるじゃないか』」とやり返すと、ポロシャツのヒューマノイドは「仮マスに死なれたら困りますから。ワタシ一人でこんなもの、どうしろと?」と首をブンブン横へ振った。
口では文句を垂れても、トレーラーを降りる足取りは慎重そのものだ。
「『死なれたら困る、か。プロポーズみたいじゃないか?』」
「世迷い言は世を去ってから言ってください。あちら側にいけば、自由にしゃべれるんでしょ? ワタシは天上にいけないんですから聞かずに済みますし、ご勝手に」
「『きみのほうがエデンにふさわし………』」
「ジジッ……」
歯が浮くようなセリフをタイピングするや、銃弾さえ弾くヴェールにノイズが走った。
カランッ、と音のしたほうを永有珠が目だけで追うと、検知したスローンが追って角度を下げた。浮遊する蓮華を模した座席が真横に宙をすべると、足下に河原の丸い石が一つ、転がって割れていた。
「ワタシは、ヒュー・マ・ノイドです! ヒューマノイドに向かって
信仰に一家言あるブルーテへこの手の話題をふっかけるのは、自滅行為だ。
「『ま、待て』」
ズカズカ歩いてくるブルーテはすがすがしいまでの微笑みをうかべている。が、梅雨に花開く紫陽の色をたたえた瞳は笑っていない。それを証明するように、グラスファイバーの髪が夕陽さながら紅色に燃えている。金糸のようなブロンドが混じっているのは、状況を愉しんでいる証だ。
だが、永有珠の顔はみるみる青ざめていく。
「『ぜんぶ、ぼくが悪かった。だから、その姿勢はやめてくれ』」
ブルーテの顔もつま先も永有珠を向いているが、上半身は背中が正面に回っている。
「わ、わ、ワタシは、壊れ、たお人形」
懇願を華麗に聞き流し、ブルーテはわざと小刻みに肩を揺らす。永有珠が唯一、苦手とする壊れた
「『言葉遣いに気をつける。今度こそ守る!』」
目を全力で泳がせる永有珠の
後退の指示をだしていたスローンから、ふいに、警告がうかびあがった。
「『つぎは水かよ』」
ヴェールスクリーンの表示アイコンは波打つ線のマーク、
「さあ、汝よ。己の弱点を克服するときがきたぞ」
故障した設定から、異端審問官に変わったらしいブルーテの声がはやし立ててくる。
地球の磁気と逆位相のフィールドを展開することで浮遊を可能にしてるスローンは、川だろうと海だろうと、関係なく動作する。
水の上を渡りたくないのは、単に永有珠のエゴだった。
「もう逃げられませんよぉ、仮マスぅ! 川をわたったら、もどってこれないんでしょっ?」
妙に信心深い永有珠を追いつめ、ブルーテがケタケタと勝利の笑いをあげた。笑い声にノイズが混じり、黒に染まった髪がふわりと解けて、河原を這いずっている。
額に汗をうかべ、ついに諦めたように永有珠が目を閉じた。
くぐもり声が漏れたのは、すぐあとだった。
「
滑舌の悪い耳障りな言の音が、石のように川面を打ち、波紋の広がった場所から水流が途切れていく。ゆっくりと開かれた永有珠の瞳を黄金色のリングが囲い、神秘的な光を投げかけている。
数秒後には、左右に割れた川の底をサワガニがひょこひょこと歩いていた。
「あー⁉ こらっ、ダメですよ仮マス‼」
割れた川底を古の預言者よろしく、流線型のスローンが滑るように渡っていく。わざわざ後ろ向きで進む永有珠の表情に乏しい顔は、「してやったり」と言わんばかりだ。
「こんなことにユニーカなんか使って、みじかい寿命がさらに減っちゃうでしょー⁉」
追いかけるブルーテは演技を忘れ、瞬時に髪を萌葱色に染めた。捻った体を正面に素早く旋回させ、足へ力を込める。
河原の石は丸い。そのうえ、薄霜がまだ残っていた。
「うわっ……⁉」
人ならざる者の踏みこみに、逃しきれなかった力が靴底と石の摩擦を圧縮。
薄くなった靴底が摩擦で焼ききれ、つぎはぎのある
「よっ……!」
文字通り、持ち前の人間離れしたバランス感覚で踏ん張ったブルーテは、勢いを利用し、前転宙返りを試みる。いち早く身体の動きを察した、人より遙かに優れたヒューマノイドの運動神経が、多少なりとも視覚を確保するため、変幻自在の髪の
一秒未満の世界では、周りのすべてがまるで止まって見えた。
頭から落ちていく視界のなか、ブルーテは自分ではなく、同じように地面へ吸いよせられていくアーケリトへ向いた、リングを宿した永有珠の眼がしっかり見えていた。
すこし淋しい、とブルーテは自分の感情を分析する。
アーケリトが脆いことは承知しているし、壊さずに運ぼうと試行錯誤してきた。
一年という与えられた自由な余生を、永有珠は、ボタニカリトを自然へ帰すために使うと決めた。
その決断を、ブルーテも尊重した。
本心を隠しているつもりのようだが、それが気づかいであるくらい、見え見えだった。
永有珠は、ボタニカリトをあるべき場所へ帰すことで、贖罪をしたかったのだろう。まったく関係のない者が遺した罪を、自分がまがりなりにも継いだから、という理由で。
償いなど、ブルーテは微塵もほしくなかった。
もし偶然、遺産整理の最中、永有珠が書いた
自由思考を持つアルゴリズムとして造られたからには、相応の
目下の仕事は、清流の真ん中で、東洋スプーンのかたちをした椅子で呆けている、坊主頭の
だからといって、転倒しそうな自分より、カエデのほうを見られてしまっては面白くない。
落下していく気色わるいまがい物へ、あえて腕を伸ばした。
「『ブルーテ‼』」
と永有珠が叫んだかどうか、ブルーテ本人もはっきりしない。
ただ、頭から落ちたブルーテがくるっと、一回転しかけてそのまましたたかに背中を打ったのだけはまちがいなかった。早朝の河原にドン、と衝撃音が響く。
「痛たたたっ」
華奢な体躯ににあわず、ブルーテはそれなりに重い。重さに比例するくらい身軽に動けるのは、
どちらにせよ、おかげで、見ずとも腹にかかる重量で状態はわかった。
「『ブルーテ⁉ だいじょうぶか⁈』」
見あげた空に、覗きこんでくれる顔も、手を取って起こしてくれる者もいない。ゴロゴロした石の感覚を背中で感じるブルーテを心配する声しか、聞こえない。
「ワタシより……」
腕に抱えたそれをすいっと、トロフィーのように突きあげる。
「こっちのほうが心配なんでしょ、仮マス?」
「『アーケリト! よかった』」
ブレイクダンサーも真っ青な脚さばきで体を起こすと、予想どおり、ホッとした表情の永有珠がいた。額の雫は心配してくれた汗とおもいたいところだが、人工水晶体が分析した結果は真水。割った川の飛沫だろう。瞳のリングが消えて元のトビ色にもどっている。
「『さすがはブルーテ』」
純粋に称えているつもりだろう仮マスに、ブルーテはため息をつきたくなったのだった。
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