10. 薄闇の博物館

 水路の先には、入ってきた時と同じように長い梯子があった。錆はあまりないが、下の方には苔のようなものが貼りついている。スラッグは手を伸ばして梯子を掴むと、軽く前後に揺らして強度を確認した。


「大丈夫そうですね。先に行くので、後から来てください」

「この上が丁度、階段の裏側ね。監視カメラの死角だわ」

「映っていても問題はありません。映像を「交換」すれば良いだけですので」


 梯子に手を掛けて、そのまま身軽に昇り始める。下りと違って足への注意が半分以下で済むため、すぐに一番上まで到達した。金属製の戸を押し上げ、横へとずらす。人工的な冷えた空気と薬品の匂いが流れ込んできた。両手で縁を掴んで、一気に体を持ち上げる。完全に博物館の中に入ってから、手だけで下に合図を送った。

 スラッグと比べると、マリアベルの移動速度は遅かった。だがそれを急かす真似はせずに、腰を据えて待つ。既に侵入を遂げた以上、焦りは禁物だった。

 一分ほどでマリアベルの手が床と穴の境目を掴む。スラッグは手を貸してやり、無事に相手を中へと招き入れた。


「貴方……」

「お話は寝る時にでも頼みます」


 何か言おうとした女を遮り、スラッグは周囲を見回した。閉館後の館内は薄暗く、非常灯だけがついている。

 奥まで見渡すのは不可能だが、かといって移動に支障を来たすほどではない。これぐらいの暗さは却って都合がよかった。


「僕の後をついてきてください。この時間なら守衛と鉢合わせする可能性は四十パーセント程度ですが、油断は禁物だ。出来ることなら会いたくはない」

「会ったらどうなるの?」

「貴女を弾除けにして逃げますよ。それでオールクリアです」


 階段の陰から半分身を乗り出して、まずは近くに人の気配がないか探った。目的の展示エリアまでは階段で一本道であるが、もし巡回の警備員が既にいる場合は逃げ道が殆どなくなる。

 だが悩んでいる時間はない。いくら待ったところで、絶対的な安全は得られないし、時間が経てばそれだけ朝に近づく。明るい陽射しはスラッグの嫌いなものの一つだった。


「行きましょう」


 それ以上の言葉は不要だった。目的が明確な以上は、どれほど言葉を尽くしたところで、その装飾にしかならない。

 陰から這い出たスラッグは、まず階段の手すりに手を伸ばした。螺旋を描く階段に沿うように作られた木製の手すりは、機械仕掛けの展示物が多い中には不釣り合いな代物だった。だが、金属で出来たものよりは手に馴染みやすい。スラッグは軽く床を蹴って手すりを乗り越えた。

 遠くで耳を引っ搔くような微かな音が聞こえる。恐らくは巡回する監視ドローンの一つと思われた。その場に留まって数秒間音を聞いていたスラッグは、しかしマスクの下で笑みを浮かべると、手すりの隙間から手を出して、マリアベルに上がってくるように促した。


『随分とお粗末な代物だ。手すりなんかに金を掛けて、警備費用は削減と言ったところか』


 耳元でパロットの呆れかえった声が聞こえる。


『自立型のドローンじゃない。プログラミングされた動きを繰り返すだけの安物だ。いざとなればお前の得物で叩き落せる』

「お静かに」


 階段を迂回して昇ってきたマリアベルに、スラッグは短く告げた。そのまま視線を動かして、階段の先を見る。

 螺旋階段は一つの太い柱を軸として、上へと続いている。柱はガラス貼りで、中には展示物がそれぞれの領域を邪魔しないように飾られていた。階段を数十段ほど昇った辺りからは、壁側もガラス貼りの展示ケースと変わる。要するにこの博物館を訪れた客は、階段を昇って左右を見ながら展示物を楽しむことが出来るようになっていた。

 といっても今はガラスの柱も壁も照明を落とされて、黒い闇の中に気まぐれ程度に非常灯のぼんやりとした明かりを抱え込んでいるだけである。スラッグは此処に来る前に調べた内容を頭の中で再生したに過ぎない。こういった稼業をしていると、ゲームでも劇でも何でも、全て裏側から見るようになる。何かを素直に真正面から見据えた記憶はスラッグには殆ど無かった。


「……音を立てないように」


 警棒を右手に掴んでから、スラッグは上に進み始めた。絨毯を敷いた階段は足音が殆ど響かない。忍び込む側にとっては好条件でもあるし、悪条件でもある。裏を返せば誰かが接近してきたとしても、それと気付きにくいからである。ただ少なくとも、マリアベルのような素人を連れている現状、スラッグは絨毯に感謝せざるを得なかった。

 息をひそめ、体をかがめて、闇の中の更に影の深い場所を進んでいく。警備用のドローンの目を搔い潜ることは、そう難しいことではなかった。この程度のことはスラッグには難しいうちにも入らない。「交換」するためにもっと危険なところに忍び込んだこともある。一番面倒だったのは、軍用犬が何匹も闊歩する豪邸だった。犬に比べれば、ドローンは噛みつきもしないし、涎も垂らさないので非常に紳士的である。


「交換屋」


 微かな明かりが柱の中を通過したことに気付いたマリアベルが、緊張した声でスラッグを呼び止めた。明かりは不規則な動作で、何度か上下運動を繰り返している。どうやら柱の中の展示物を一つずつ確認しているらしい。

 不安定な動作と、それに反する明確な意思から、人間かアンドロイドだと推測出来た。ドローンではこのような動作は出来ない。


「どうするの?」

「大丈夫です。貴女が余計なことをしなければね」

「余計な事って、例えば」

「僕を急かしたり、地団駄踏んだり、悲鳴を上げたりすることです」

「『アイーダ』を歌うのは?」

「此処でおとなしくしているのなら、後で歌わせてあげますよ」


 その一言で相手を黙らせると、スラッグは可能な限り姿勢を低くした。「ナメクジ」の名の通り、地面に押し付けるような姿で、階段の先へと進む。マリアベルは言いつけ通り、その場に留まってくれたようだった。気の強い女だが、察しは良い。逆だったならば、シャチに食わせて殺していただろう、と思いながらスラッグは警棒を握る手に力を入れる。


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