9. 背中のドライバー
音はシャチからではなく、少し離れた場所から聞こえた。スラッグが視線をそちらに向けると、マリアベルが立っていた。背後のシャッターが外側に向かって歪んでいる。今の音は、彼女がシャッターを殴ったか蹴り飛ばしたかによるもののようだった。恐らくは蹴りだろう。技術屋が手を無駄に傷つけるとは思えない。
「背鰭のところにドライバが一本刺さっているわ」
マリアベルは声を張り上げることもなく、平坦な口調で言った。それが何を意味するのか、スラッグは一瞬戸惑った。だが、何とかそれがシャチの背鰭のことを示しているとわかると、視線を下へと向ける。水に濡れた黒い背の中央から突き出した三角形のパーツ。中心が蛇腹状になっていて、シャチの動作に合わせて細かく上下している。どうやらバランサーの役割をしているようだった。そしてその根元には、真っ赤なドライバーが一本突き刺さっていた。
スラッグがそれを認識したことを知ったマリアベルは続けて言葉を放つ。ともすれば水に掻き消されそうな声量なのに、不思議とスラッグには聞き取れた。
「押し込みなさい。思いきり」
従わないという選択肢を取るには、事態は逼迫しすぎていた。
それ以上にマリアベルの声には拒否を許さない、意地でも従わせようという静かな覚悟が存在していた。
『スラッグ。待て!』
「すみません」
謝罪一つ述べた後に、ドライバーの柄の部分を警棒で殴りつけた。一瞬だけ抵抗があったが、あとはウエハースでも割るかのように呆気ない感触と共にシャチの体内へとめり込んだ。静電気の音が僅かに聞こえ、続けてくぐもった爆発音が放たれる。内部の機械の破損だと気が付いたスラッグは、咄嗟に上へと跳んだ。
バチンッと音を立ててシャチの背中が破れた。中にいるオイルまみれの古びた機械が剥き出しになる。ひと際目立つのは、子供の胴ほどもあるガラス製のタンクだった。一カ所大きな亀裂が入り、そこからオイルが漏れだしていた。恐らくはオイルポンプを利用した機械だったのだろう。それが押し込まれたドライバーによって大事なオイル保管装置を壊されてしまった。人間で言えば、心臓を突き刺されたのと同じことである。
だが、完全停止にはまだ時間がかかりそうだった。暴走して水路を潰されては、この先の仕事にも影響が出る。オイルタンクの中身は半分ほど残っている。それを全て出してしまえば動作は止まると考えられた。宙で身軽に体を回転し、足を天井近くにあったダクトパイプへ引っかける。ミシリと音がしたが、強度は問題なくスラッグの体を支える。
「ダンスパーティはお仕舞ですよ」
特殊警棒を投げ捨て、両手を腰のベルトを滑らせる。仕事用の道具のいくつかが指に触れるが、目的はベルトの縁に仕込まれているものだった。二つのリングをそれぞれ指に引っかけ、左右に勢いよく引く。斬るような音と共に抜かれたのは金色に染められたワイヤーソーだった。照明を反射して輝く二つの線が、宙を踊りながらオイルタンクに絡みつく。手ごたえを確認してから両手をそれぞれ逆へ跳ねると、ギチリと締まる感覚が伝わった。
「ガラスの靴を脱いで帰ってください」
静かな声で告げながら、しかし腕の動きは鋭敏だった。両方の糸に力が加わる角度を完璧に調整。寸分の狂いもなく腕を引く。ガラスが擦れる独特の音と共に、オイルタンクがシャチの体から分離した。スラッグには力はあまりない。そのため、相手の反動や慣性を利用することを得意とする。シャチが暴れるのと逆方向に力を加えることにより、タンクを引き剥がす作戦は咄嗟に考えたものだが上手くいった。指に引っかけたリングをもう一度握りこむようにして動かすと、タンクからワイヤーソーが外れて、前方の水路へと落下する。大きな水飛沫が上がり、油混じりのそれがスラッグの顔に掛かった。
「交換屋!」
マリアベルの声が後方から聞こえた。シャチとの格闘中にいくらか下流に流されてしまったらしい。足をダクトパイプから外し、シャチの残骸の上に着地した。
鉄線を巻きなおして、元の場所へ再度格納する。ギミックの色が強い武器だが、スラッグのような仕事では重宝される。もちろんその半分ほどは、ただの丈夫なワイヤーとしての用途だったが。
「サンドリヨンにはお帰り願いましたよ」
そう返しながら、通路へと戻る。転がっていた特殊警棒を拾い上げると、何度か振って水を払ってからベルトに差しなおした。
顔が水と油にまみれていることに、スラッグはそこで気がついた。べとりと張り付いたマスクに手を添えた時、耳の部分の紐が緩んで、そのまま顔から外れた。
「交換屋、生きている?」
そこに、マリアベルが現れた。一瞬、二人は顔を見合わせたまま停止する。数秒してからスラッグは手で顔を隠しながら背を向けた。
「すみません。お見苦しいものを」
「その顔のこと?」
「小さい頃の感染症で、麻痺したうえに崩れてしまいましてね。それで、マスクを」
「そっちのほうが男前よ」
「最高の賛辞ですね。ちょっと待ってください」
背を向けたまま、顔を拭って予備のマスクを装着する。同じ革製だが色は黒く、今の水路を流れるオイルとよく似ていた。
鼻先を摘まむようにして位置を調整した後に、マリアベルの方を振り返る。
「お待たせしました。行きましょう」
「身だしなみは大事よ。気にしないわ。ついでにコルセットも締める?」
「貴女にしては面白くもない冗談ですね」
耳元で舌打ちが聞こえた。パロットが苛立ちまぎれに放ったものだった。
『俺の指示を無視したな。上等だよ、坊や』
「違いますよ。あの状況だと途中撤退が難しかったんです」
『まぁいい。そういうことにしておいてやるさ。それより気になることがあるからな』
「わかっています」
短く返したスラッグは、改めてマリアベルに疑問を投げかけた。
「何故、ドライバーのことが?」
「彼とは恋人同士で、別れ際にドライバーを突き立ててやったのよ」
「熱烈ですね。ここでファックしたら素敵な化物が生まれそうだ」
マリアベルが声を立てて笑った。といっても下品なものではなく、貴婦人がするように口元に軽く手を添えてのものだった。
「存外、貴方も良い趣味ね」
「アセストン・ネットワークの力ですか」
「その通り」
「そこに記録されていたと?」
「別に明確にデータベースに登録されていたわけではないわ。そもそも構造が普通のネットワークとは異なるのよ。汎用的に調べることには長けていない。何かに焦点を絞り込んだ時に普通の検索エンジンのアルゴリズムとは比較できないほどの能力を発揮する。この水路を支配するシャチの化物のことを調べただけで、生い立ちから製造番号に至るまで全ピックアップ出来たわ」
まるで用意していたかのような流暢な言葉に、スラッグは鼻白む。一方で通信越しにそれを聞いていたパロットは面白そうに笑いを零した。
アセストン・ネットワークという物が具体的にどのような性質を持つのかはわからない。ただ、スラッグはあまりそこに踏み込んではいけないような気がしていた。特に根拠があるわけではない。ただの直感である。だがスラッグはこれまでも、その直感で生き延びてきた。
「……そのつもりになれば、何でも調べられる?」
「えぇ。でもこのシステムの本髄はそこではないの。それまで無かった「噂」を作って実体化してしまうことにある」
「実体化、ですか」
「新商品の熱烈な支持者とか、流行っていない歌のブームとか。極端な話、一人の架空の人間を作り上げることだって出来るわ。名前からその人格まで。誰も見たことはないけど、噂だけは回ってくる。「友達の友達が見た」という噂話が重なることで、爪一つ存在しない人間が、まるで同じ空間にいるような錯覚を与えることも可能よ」
『アンジー』
パロットが低い声を出した。
『もういい。先に進め』
「いいんですか」
『十分だ』
なぜか怒ったような口調で言う相手に困惑しながらも、パロットは質問を打ち切って先に進むことにした、パロットの気まぐれは珍しくないが、今のは普段のとは異なる。まるでそれ以上聞くことを意図的に拒んでいるかのようだった。
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