8. 地下水路の主

『……スラッグ』


 右耳に装着した無線通信装置から、パロットの声がした。いつも思うが、二十半ばだというのに年相応の声質をしていない。こうして通信機器を介すと殊更それが目立つ。


『お前の現在地が上手く取得出来ない。いや、いい。喋るな』


 声の向こうで、水の音がした。恐らくキッチンのカウンターに座っているのだろう。


『物理的障壁があることを考慮しても、これほどまでに座標がずれるのは異常だ。でも人為的なものは感じ取れない。複数回の試行計算で凡その位置は掴めるからだ。となると偶発性、または二次的なものとなる』


 パロットは流暢に言葉を紡ぐ。まるですぐ傍に誰かがいて、睦言を交わしているかのようだった。


『シンジュクからか? それにしては座標の「ジャンプ」が多い。だとしたら博物館? あぁ、そうか。それはあり得る。俺ならそうする』


 不意に水の音が変わった。一定だった流れが乱れ、濁り、そしてだんだんと大きくなっていく。

 スラッグはベルトに挟んでいた特殊警棒を抜き取り、右手の一振りだけで伸ばし切る。一メートルに少し満たない長さの警棒は中心に仕込まれた鉛のせいで見た目より重い。


「下がっていたほうがいいですよ、スラスト」

「この音は何?」

荘厳ミサミサ・ソレムニスにでも聞こえますか?」


 次の瞬間、スラッグはマリアベルを通路の端に突き飛ばし、その反動を利用して前へ飛び出した。目の前の水面が不自然に盛り上がり、ビリビリと痺れるような音が響き渡る。


『気をつけろよ、スラッグ。お前たちはここの主を起こしたらしい』


 水面が四方に割れて、巨大な黒い物体が飛沫を上げながら姿を現した。水路内の僅かな光源に照らされた輪郭を見て、スラッグは口笛を吹く。あまり上手とは言えない掠れた音がマスクの中で霧散した。


「都会にも自然が残っているんですね。シャチがいるとは思わなかった」

『鋼鉄製のシャチ、だろ。速やかに処理しろよ、坊や。多分時間がかかるとどこかの警備会社にアラートが飛ぶ』

「ラジャー、サー」


 マリアベルの方には目もくれずに、スラッグは警棒を体の前に構えた。それを見たかどうかは定かではないが、シャチは金切り音のような声を上げて体を捩じる。真っ黒な尾が水面を叩き、大きな水飛沫が上がった。それが体に掛かるのに合わせて、スラッグは地面を蹴った。宙に高く跳び、周囲の状況を把握する。

 シャチの全長は三メートルと少し。体高はその半分ほどだった。全体的に小さく作られているのは、水路を自由に移動するためだろう。体の大きさから考えると幅広に作られた尾鰭は障害物の排除などに使うらしい。側面にへばりついた鼠の死骸がそれを証明していた。


「僕はこういうのは苦手なんですけどね」


 宙で回転して前方への飛距離を伸ばす。着地した先はシャチの背中だった。濁った苔の匂いがマスクを突き抜けて鼻先に纏わりつく。


「ねぇ、パロット。仕事が終わったら新しいソープバーを買ってください」

『いいぞ。匂いは何にする』

「ラベンダーがいいです。あの匂いが一番好きだ」


 背中に乗った不届き者を振り落とそうとして、シャチが水路の中で体を左右に揺らす。だがスラッグはブーツの踵から突き出した刃をしっかりと背に立てていた。


「シャチって可愛いですね。背中刺されるとじゃれてきますよ」

『俺のアクアリウムの一員に加えたいところだが、今は定員オーバーだな。次の機会にするとしよう。お前が乗っているのは、恐らく第三工業革命期の産物だ。水路の掃除用ロボットに手を加えたものだな』


 端末のキーボードを叩く音が聞こえる。


『口の部分が弱点みたいだ。口角のところに警棒を突き立てろ』


 スラッグは少し身を乗り出して、頭部にあたる場所を見たが、そこにあるものを見ると肩を竦めた。

 シャチの口は頑丈な銅線でしっかりと縫い付けられており、警棒どころか爪楊枝すら通しそうになかった。


「残念です。彼は無口みたいですよ」

『そりゃお前といいお友達になれそうだ。第二解体起点は……』


 バキン、と重く鈍い音がして、スラッグの視界が大きく右に逸れた。何とか踏みとどまって音の方向を振り返ると、黒い尾鰭が水路の壁にめり込んで、コンクリートを破壊しているのが見えた。

 あれに接触すれば、武装をしていないスラッグは一溜まりもない。もちろんそれはマリアベルも同様である。


「パロット、次の手は?」

『黙ってろ。今探してる』


 尾が今度は反対側の壁を抉った。住み着いていた魚が体を真っ二つにされた姿で跳ね上がる。

 パワーから考えて、真っ向から挑むことは出来ない。僅かな力で機能を停止させるポイントを探すしかないが、この短い間にパロットが探し当てられるかは微妙なところだった。パロットは人から情報を聞き出して利用するのには長けているが、自分で情報を集めることは不得手である。そして、スラッグ自身も持久力に自信はなかった。


『いざとなれば、わかるな。依頼を破棄しろ』

「考えておきます」

『技術者くずれなんかにお前が命を賭けることはない。それにお前はーー』


 パロットの言葉を、最後まで聞くことは出来なかった。それよりはるかに大きな音がスラッグの意識を反らしたためだった。

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