7. 楽園の記憶

 あの日も雨の匂いがした。

 台風が置き忘れていったかのような霧雨を浴びながら、スラッグは幼い頃のことを思い出す。マスク越しでもわかる雨の独特な匂いに鼻の頭に皺を寄せた。

 記憶に残るのは、古びた公共浴場だった。半世紀も前に廃業したその施設は、スラッグたちのような子供が過ごすには上等の場所だった。「楽園」というふざけた名前がついていた浴場を仕切っていたのは一人の女だった。あの頃はまるで老婆のように思っていたが、今思えば五十代程度だっただろう。首の周りに刻まれた加齢による線を隠すように、いつも安っぽいネックレスをジャラジャラとつけていた。脂肪で膨らんだ顔に白粉を乗せて、下品な赤い口紅をべったりと塗りたくっているような女だったが、いつも持ち歩いていた扇子だけは、彼女の元の出自を語るかのように上等な白檀の香りを漂わせていた。


 「マザー」と呼ばれていた彼女は、そこに住み着いた子供たちを暇つぶしの道具程度に思っていたようだった。昨日は愛でたと思えば今日は鼠の糞を食わせ、犬のまねごとをさせて上手に出来た者には首輪をつけてやってボイラー室に繋ぎ、少し見目の良い子供は縛り付けて床に転がして足ふきマットとして扱った。逃げる子供もいたが、大抵はそこに留まった。子供が多ければ多いほど、自分が標的になる確率は低くなることを知っていたからだ。互いに互いを利用するために子供たちは身を寄せ合っていた。


 だからスラッグが感染症で寝込んだ時、誰も近づこうとしなかった。利用できない弱い個体は、嬲る対象にすらならない。それはスラッグもよくわかっていた。割れた窓から吹き込む雨を顔に浴びて、死を待つばかりだった。だがそれを救ったのがパロットだった。スラッグを背負って医者の元に連れて行ってくれた。


「どうして助けてくれたの?」

「さぁね。何しろ好き勝手に生きてるんだ」


 それ以降、二人は常に一緒だった。マザーが「不幸な事故」により死んだ時も、楽園が美化政策で壊された時も、そこから彷徨い出て似たような町へ住み着いた時も。

 ただこれからも一緒である保証はない。いつかパロットは気まぐれにどこかに行ってしまうような気がしていた。地面を這うナメクジなどに見向きもせずにインコは色鮮やかな羽を広げて飛んでいく。そんな夢を見たのも二度三度ではなかった。


「ごめんなさい。遅れたかしら」


 女の声がスラッグを回想から引き離した。振り返ると、ジワリとした光源を持つ街灯の下に黒い服に身を包んだ女が立っていた。安っぽい黒いシャツに黒いパンツ、少し色あせたスニーカー。それは彼女のいつもの装いとは全く違っていたが、スラッグには一瞬それが喪服のように見えた。


「いいえ。定刻よりも少し早い程度ですよ」

「ならよかったわ。貴方、相手が遅刻したら置いていきそうだもの」

「待つ義理はありませんからね」


 素っ気なくスラッグは返した。

 誰もいない公園は、二人だけを残して眠っているかのようだった。草木も遊具もベンチも、皆押し黙っている。雨のせいでその静寂が殊更に冷たさを帯びていた。


「此処からどうやって博物館に?」

「地下水路に潜るんですよ。この時間だとタクシーは深夜料金がかかるのでね」

「倹約家なのね」


 スラッグは寄りかかっていたフェンスから体を離した。その足元には水路に降りるための鉄蓋があった。何年も蓄積された赤錆が雨に濡れて、血のような匂いを微かに発している。

しゃがみこんだスラッグは、蓋を持ち上げるためのスリットに右手を挿し込んだ。泥と錆が混じりあった不快な感触が革手袋の表面を撫でる。それを振り払うかのように指先に力を込めて、蓋を一気に持ち上げた。一瞬、泥と枯葉が腐った匂いがしたが、すぐに水の匂いへと上書きされる。


「この下にある水路を使って、第四博物館まで向かいます。少し寒くて狭いのが欠点ですが、広くて暖かいより良いでしょう」

「そちらでは駄目だったの?」

「僕は糞尿にまみれて歩く趣味はないですよ」


 マリアベルが顔をしかめたのが、見なくてもわかった。余程の物好きでもない限りは下水の方に足を踏み入れようとはしない。アンドロイドであれば嗅覚センサさえ切ってしまえば良いだろうが、彼らとて筐体を守るための「衛生概念」は持ち合わせている。

蓋を取り除くと、中は六角形の筒状になっていて、一カ所に金属製の梯子が溶接されていた。それが長く下まで伸びているのを確認してから、スラッグは足を中に伸ばす。ブーツを履いた爪先が、ガリッと音を立てて梯子の段に乗った。多少の音はするものの、強度は問題なさそうだった。スラッグは年齢と身長を考えれば痩身気味ではあるが、それでもマリアベルよりは体重がある。つまりスラッグが先に降りて無事ならば、マリアベルも問題なく通れるということだった。


「僕が降りきったら、続いてください」

「不思議の国の入り口ね。せいぜい転ばないように注意するわ」

「先に言っておきますが、足を滑らせても助けてもらえるなんて期待しないで下さいよ」


 右足、左足、右手、左手。順に四肢を梯子にかけて、地下へと下る。偶に雨粒が頭を打ち、頭皮を濡らした。恐らくそのうち本降りになるだろうと思いながら、スラッグは下へと進んでいく。雨は嫌いではない。晴れよりはずっと良い。ナメクジの名を持つ自分には、これ以上ない好天気だとスラッグは信じていた。

梯子の先には、地下水路とその両脇の歩行用のスペースがあった。慎重にそこに降り、左右を見回してから一歩退く。数秒してから、危なっかしい音と共にマリアベルが滑るように降りてきた。


「此処の梯子は躾がなっていないわ」

「お行儀のよい梯子なら、今頃振り落とされてますよ」


 そう言うとスラッグは歩き出した。水路を流れる水は、少し多いようだった。水の中に標準水位を示す赤いラインが見える。恐らく先日の台風の余韻だろうと思われた。だが二人が歩いている場所まで水が来る恐れはない。

 シャラシャラと水音が這い、トンネル状の水路に反響する。そこに自分たちの足音が吸い込まれるように鳴る。

 暫く歩いた後に、ふとスラッグは足を止めた。目の前には丁度水路の分岐が、寒々とした成りで佇んでいた。黒い革手袋に包まれた指で、その先を示す。


「右に行くとシンジュクに出ます。左に進むと博物館です。引き返すなら今のうちですよ」

「どうしても私を帰したいようね」

「そういうわけではないですが、遊具の天辺に登って降りれなくなる子供というのを何度も見ていますからね」

「慈悲は結構」


 少し笑いを含んだ声で、マリアベルは言い切った。


「それとも私が此処で帰るようなお利口に見える?」

「さぁ、別に貴女がどういう人間かなんて興味ないですよ」


 それは本心だった。スラッグにとって大事なのは、金が貰えるかどうかである。温かいシャワーを浴びて眠るための金が手に入るのなら、相手が人間だろうがアンドロイドだろうが犬だろうが気にしない。スラッグはアンドロジアーー所謂、アンドロイドの優位性を人間にも適用すべきだという思想の持ち主である。流石にヒューマンコンパイラ、人間をアンドロイドに改造すべきだと謳う連中ほどには傾倒していない。大体、ナノマシンを使って人体構造を形成するなんて夢物語としか思えない。それでも彼自身は人間としての肉体に一種の諦観を持ってしまっていた。

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